2011年11月4日金曜日

無名性の文芸―北野天満宮笠着連句

10月29日(土)、京都の北野天満宮で「市民連句体験会」というイベントがあった。国民文化祭・京都2011のうち「連句の祭典」の一環として、北野天満宮の境内に特設テントを張り、「前句付」「笠着連句」などが興行され、神楽殿では「正式俳諧」や「白拍子」が披露された。境内は入場無料で、都合のよい時間帯にいつでも参加・見物できる。この日は中世・近世の空間に戻ったかのようであった。
 私が担当したのは「笠着連句」のコーナーである。「連句の祭典」だから「笠着連句」と称しているが、歴史的には「笠着連歌」あるいは「笠着俳諧」である。「笠着連歌(笠着俳諧)」とは中世以降、お寺や神社の祭礼や法会に行われ、参詣人たちが自由に参加できた庶民的な連歌(連句)である。立ったまま笠も脱がずに句を付けたので、この名称がついているが、笠を脱がないのは参加者の身分を明かさないためとも言われている。今回、京都市の実行委員会に頼んで、幾つか笠を用意してもらった。デモンストレーションにかぶってもらおうと思ったのだが、実際にかぶってくれたのは子どもたちだけであった。カップルに勧めても逃げられ、笠をかぶらされるから参加するのは嫌だという人もいたのは本末転倒である。
「笠着連歌」は「花の下(もと)連歌」の流れをくんでいる。寺社のしだれ桜のもとで身分を問わない市井の人々によって行われた。みんなが句をだすことによって、大勢でにぎやかに付け進んでいくイメージである。京都では中世に毘沙門堂や清水の地主神社、鷲尾(霊山)などで行われていた。

ところで、『俳壇抄』という全国俳誌ダイジェストが発行されていて、この夏・秋号(37号・11月1日発行)には465誌が1誌1ページずつ紹介されている。電話帳のような分厚さである。前号批評として五十嵐秀彦が書いている「俳壇抄36号を読む―座の意味を問う―」という文章が興味深かった。
五十嵐は「俳句の座とはどのようなところから生れてきたのだろう。それはいつごろ、誰が、何を目的に、どのように始められたのだろう」という問題意識から「俳諧(連句)の座」に遡り、さらに松岡心平著『宴の身体 バサラから世阿弥へ』を援用しながら、「地下(じげ)連歌」「花の下連歌」「笠着連歌」について触れている。五十嵐はこんなふうに述べている。
「庶民はウタの交感をとおして、実生活のさまざまな軛から自らを解放し、生を実感していたのだろう。喜びも悲しみも座をとおして、自然界に魂を染み渡らせるように昇華していった。そこには生生しい花鳥風月があったであろうと私は思う。座は孤独な魂の集合体であり、生に意味を与えるトポスだったのである。その連歌の座が、俳諧に引き継がれ、日本中に詩の座を根付かせていった。私たちの句会も、この座を根底に持っているはずなのだ」
連俳史を通底するこういう問題意識は貴重である。

花の下連歌は北野天満宮の法楽連歌に受け継がれていったと言われる。ただし、「花の下」から「法楽連歌」への移行にともなう変質は避けられないことでもあった。文芸としての整備・制度の整備にともなって失われるものがあるのは、どの世界にもよくあることだろう。北野天満宮にはかつて連歌会所(連歌堂)があり、近世には毎月25日に月次連歌がおこなわれた(現在では連歌井戸が残るのみ)。『日本文学の歴史6・文学の下剋上』(角川書店)には、その様子が次のように描かれている。
「だれとも知られず詣って来る人が、顔を隠し句をつづるのを、執筆(しゅひつ)は懐紙に筆を添え、声がかれるほど吟じるが、指合(さしあい)ばかり多く、突き返されて思わずうめいたり、初心のくせに出しゃばって句を出して一座の笑い者となるものもあったという」
一方、幕府のあった鎌倉にも鎌倉連歌の伝統があったが、南北朝期になると京連歌と鎌倉連歌は混ざり合う。二条河原の落書にある「京鎌倉をこきまぜて、一座そろはぬゑせ連歌、在所在所の歌連歌、点者にならぬ人ぞなき」という事態が生じるが、そこには猥雑なエネルギーが渦巻いていただろう。
やがて連歌は北野信仰と結びつき、「天満大自在天神」は連歌の神となる。二条良基によって式目と連歌論が整備され、連歌は洗練されていく。

「笠着連句」当日に話を戻すと、笠着コーナーだけでも100名程度の参加者があり(付句を付けずに説明だけ聞いた人も含む)、宗匠・執筆ともトイレにゆく暇もない盛況であった。事前の予想では「笠着」とは暇なものであり(以前に一度経験があるので)、人もあまり集らないのではないかと思っていたが、嬉しい悲鳴であると言える。説明スタッフも立ちっぱなしで参加者の質問に対応していた。子どもを連れた若い母親や、就学前の児童、学生から大人までさまざまな方々に付句を付けていただいた。連句人だけではなく、京都在住の川柳人や連句初体験の人たちに関心をもっていただいたことは、市民参加型のイベントの趣旨に添うものである。
選ばれた付句は短冊に清書され、テントの柱に張り渡した紐に順番に吊るしてゆき、参加者に見やすいようにする。あまりゆっくり付句を考えていると、すでに付句が選定され、次の句に移っていることになる。36句の中にはもちろん連句人も参加していて、観光バスを利用した吟行会の途中に立ち寄って時間に追われながら一句付けた人もあった。一般市民のなかにはじっと立ち止まって進行を見守っている人もいる。そんな人が一句出してくださって、それがなかなかよい句だったりするとこちらも嬉しくなってくる。正午の発句から始まってすらすらと付け進み、午後3時半ごろには歌仙36句が巻き上がった。 

寺社の境内に人々が集り、共同制作としての文芸に取り組む。無名性をベースとするから名前は記録に残らないが、それぞれの参加者のことは記憶に残っている。北野天満宮の雑踏のなかで、私はあの二条河原の落書を思い出していた。何も「笠着」が「えせ連歌」というのではない。「自由狼藉」の世界、庶民の猥雑なエネルギーが沸騰していた中世という時代を想ったのである。

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