2011年8月5日金曜日

同人誌という「場」

文芸の創作は机に向かって作品を書く孤独な作業である、というようなロマンティックな文芸観はいまどき流行らないだろう。作品を書くには「場」が必要であり、作品創造のためには師友や雑誌などの刺激的な環境が必要となる。
川柳の場合、そのような「場」の中心となるのが句会であった。「座の文芸」という言葉は本来「連句」について言われるべきものだが、近年では「俳句」や「川柳」についても「座の文芸」という言葉が使われることがある。川柳の場合、「座」とは句会・大会のことになるだろう。句会・大会では「題」がだされて、その題に従って参加者は作句する。兼題、席題があるのは俳句の場合と同じだが、「題」そのものを言葉として詠み込む場合と詠み込まない場合とがある。変わり種としては、「イメージ吟」と称して絵や写真をみて作句することもある。
結社の場合、句会・大会の結果は結社誌に掲載される。発表誌だけを冊子にして作る場合もある。川柳誌の多くは投句欄と句会報を合体させたようなものが多い。
インターネットの普及によって、川柳においても掲示版やブログがぼつぼつ見られるようになってきているが、短歌・俳句に比べると質量ともに見劣りがするし、川柳のウェブ・マガジンはまだ存在しない。
どのような才能も孤独な作業だけでは文芸活動を持続することは困難であるし、何よりも作品発表の媒体を必要とする。文学的な環境や人間関係もふくめて、その人が作句を持続してゆくための財産なのである。今回はそのような「場」の問題として、同人誌の在り方について考えてみたい。

7月・8月にいくつかの俳誌を送っていただいたので、まず俳誌の場合を見てみよう。
八田木枯代表、寺澤一雄編集発行の「鏡」創刊号。寺澤と八田が「晩紅」の打ち合わせをしているうちに「晩紅」は休刊にして、新誌を始めようということになったらしい。誌名は八田木枯の句集『鏡騒』とも関連する。

水鳥はうごかず水になりきるや    八田木枯
キーボード顔は正面から古ぶ     中村裕
はみがきの最後をしぼる鳥の恋    西原天気
分からないのに手をあげる春うらら  寺澤一雄
辻の朧へ竹竿売の行つたきり     羽田野令

「週刊俳句」220号(7月10日)に長嶺千晶が「俳人はなぜ俳誌に依るのか」という文章を書いている。長嶺は「ひろそ火 句会.com」(木暮陶句郞)・「紫」(山﨑十生)・「鏡」の三誌を取り上げて、「集うことが楽しそう」「座という交わりの場があれば、そのときの句作のエネルギーは倍加する」と述べている。このような同人誌の必要性は川柳の場合でも同様だろう。

俳句同人誌「里」が101号を発行している。編集人・仲寒蝉、発行人・島田牙城。〈それぞれが「俳」とは何かを探求する同人誌たらんと百号まで歩んできた〉という。そこで特別企画「俳とは」を組んで、詩人の和合亮一をはじめ18人による辞書解説バージョンによる考察を掲載している。中でも冨田拓也が次のように書いているのが印象的であった。

〈 「俳」とは、一言でいうならば「既成概念や固定観念の打破と再編」ということになろう。万象は常に須く動き、流れている。この世界において停滞の状態を示し続けているものは基本的には存在しない。流れを伴わないものは自ずから衰亡し消滅してしまう運命にある。流れを停滞させないためには常に何らかの変化や交替が必須であり、例えばそれは人という存在自体における生命活動や意識の在りよう等に関しても例外ではなく、また俳句をも含む文芸全般についてもおよそ同様のことがいえるはずである 〉

「里」101号出立式として、8月6~8日、京都・義仲寺・伊賀上野などで記念句会が開催されるという。

「垂人」(たると)15号(7月31日発行)は中西ひろ美(俳人)と広瀬ちえみ(柳人)の二人による編集発行で、川柳・俳句交流の場を提供している。俳人・川柳人による作品のほか、鈴木純一の文章「てふ」「ぱんたらい」や「押しかけ三人句会」(矢本大雪・鈴木純一・中西ひろ美)、「坂間恒子句集『硯区』を読む」(広瀬ちえみ)などを掲載してヴァラエティに富む。仙台在住の広瀬が震災にあったため発行が遅れたようだが、〈ちえみとひろ美が生きていれば「垂人」は出せる〉という中西の編集後記に同人誌発行のモチーフがあらわれている。川柳人の作品から二人ご紹介する。

会いましょうメタセコイアの木の下で    高橋かづき
勤労禁止新郎近視蜃気楼
ふゆぞらそらんじ ゆうぞらふゆうする

この世には大きな馬糞残すのみ       広瀬ちえみ
三月の体にことごとくガラス
松林だっただっただっただった

「触光」23号(8月1日発行)は野沢省悟編集発行。3月に亡くなった大友逸星を追悼して、作品抄を掲載している。「絆」という連作から。

西瓜割り深い絆と言うてみよ   大友逸星
放火犯人と朝飯を食っている
脆いので家族揃って飯を食う
たんぽぽよあみだくじなど始めよう

「触光的時事川柳」のコーナーは渡辺隆夫選で好調だが、今回の隆夫は中村冨二の作品を引用している。特に冨二の次の二句は現在にも当てはまる射程距離をもっている。

墓地で見た街は見事な嘘だった         中村冨二
内閣総理大臣という字を少年よ、書けなくてもよい

「水脈」28号(8月1日発行)は浪越靖政編集。「イメージ吟」が掲載されているので、紹介する。絵や写真ではなくて、三好達治の詩「春」によって川柳を作っている。
「鵞鳥。―たくさん一緒にいるので、
     自分を見失わないために啼いています」

群衆のひとりで烽火あげている    笑葉
おとなになってしまったぼくはやみに  守
うしろ向くのがおまえの流儀     涼子
輪をぬける足を大きく組みかえて   麗水

元の詩の説明にならずに川柳にするところに工夫を要する。

以上、俳句・川柳の同人誌が「場」としてどのように機能しているかという視点から諸誌を見てきた。結社誌はさておき、同人誌は川柳人にとっても作品発表の場として大切にされなければならない。それは、単に出来上がった作品を発表する媒体というにとどまらない。「場」を共有する表現者たちが存在するから、相互刺激によって作品を書く持続的エネルギーが生まれるのである。
短詩型文学の世界の中で、新誌が生まれ、また旧誌が消えていく。永遠に続くものなどないのは当然だが、どのように創造的な場を確保するかは表現者にとって切実な問題であろう。

来週は夏休みをいただいて一回休刊します。次回は8月19日(金)にお目にかかりましょう。

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