2011年5月14日土曜日

渡部可奈子の川柳と短歌

「詩歌梁山泊」によるサイト「詩客」(SHIKAKU)が立ち上げられ、毎週金曜日に更新されている。作品だけでなく、時評が充実していて、「短歌時評」「俳句時評」「自由詩時評」のほか「戦後俳句を読む」のコーナーも設けられている。短歌・俳句・自由詩の三詩型を共時的・通時的に俯瞰しようという壮大な試みである。川柳からは吉澤久良と清水かおりが執筆者に参加している。
「戦後俳句を読む」第1回の1(4月29日)では吉澤が時実新子を、第1回の2(5月6日)では清水が渡部可奈子を取り上げている。ジャンルの移動という点から見れば、新子が短歌から川柳へ移ったのに対して、可奈子が川柳から短歌へと移ったことは興味深い。

清水かおりは「詩客」創刊準備号(4月21日)で次のように書いている。

「昨年、『超新撰』に参加させていただいたことで、一つの自己目標のようなものができた。シンポジウムの資料で触れた、川柳史の縦線と横線の交わりを認識しなおすことである。自分たちの書いているカタチがどこから来たのかを知ることは、現在の川柳作品と向き合う大きな手がかりにもなる。六大家以降、近代史の枝葉が私たちのルーツとなっていく過程を探る必要性を持たずに作品を書いてきた柳人は多い。すでに拓かれた表現であったものに馴染んで書いているといえる。そうした多くの川柳作品に、時間軸という角度のアプローチ点を見つけたい」

そして「社会の変遷を生き抜いた言葉たちを読むことが、どのように現在の作句作業に活かされていくのか、そして、同じ線上で近代川柳史が語られるような、そういう場に少しでも繋がるものを求めていきたい」とも述べている。こういう認識に清水が立っていることは歓迎すべきことだ。
一般に、川柳人の関心は「今・ここ」で作品を書くことに集中していて、川柳形式と自己との関係、川柳史のなかでの自己の位置などに関しては意識的ではない。「川柳史」の流れのなかで「川柳形式」に支えられて作品を書いていることが実感できないのだ。
「戦後俳句を読む」というフレームの中であるとはいえ、現在につながる「戦後川柳」の見取り図を清水がどのように構築してゆくのかが楽しみだ。

第1回で清水が取り上げたのは渡部可奈子の次の句である。

揶揄らしい揶揄一輪 頭の夜明け   渡部可奈子 

「叶うなら抽象の一句で具象万句を超えたい」という可奈子の言葉を紹介したあと、清水は「可奈子が川柳界を離れた理由は計り知れないが、現代川柳の問題点として挙げられる私性についてこの頃すでに感じるところがあったのかもしれない。私性(自己)と言葉(喩)の密着度を個人の思いの強さとする流れは、自己へ求める喩の厳しさと一見地続きであるようで、そうではない。時代を駆け抜けて行った可奈子作品を慕う、私達川柳人が思うのは、そのあたりの彼女の苦悩と可奈子作品が今なお放ち続けている言語の可能性だ」と述べている。

渡部可奈子は昭和13年松山市生まれ。昭和32年児島一男の門に入りデッサンを習い、創元会入選。18歳で発病した肺結核が、昭和41年、27歳のときに再発して愛媛療養所に入る。昭和42年、川柳と出会い、川柳グループ「晴窓」に入会。その後「ふあうすと」「川柳ジャーナル」「縄」などを経て「川柳展望」に。句集『欝金記』(昭和54年)を川柳展望社から出している。やがて可奈子は短歌へ。
松山の川柳人に山本耕一路(1906~2005)がいる。昭和20年代に詩性川柳を目指した先駆者だが、川柳界に受け入れられず、現代詩に転向した。昭和60年(1985)に第18回小熊秀雄賞を受賞している。耕一路にしても可奈子にしても川柳という自己表現の器を捨てて他ジャンルに移行したことは残念である。

『現代川柳の群像』(川柳木馬ぐるーぷ)の「作者のことば」で可奈子は次のように書いている。
「川柳のことばと作者の間に隙間があるだろうか。作者のこころとことばを貫通する現実的で肉体的なものが、露わになるほど、両者の密着性が高く、大地へ達するほどの原初性を持ち得るだろうか、と私は考えてみたい」

生姜煮る 女の深部ちりちり煮る
くらやみへ異形の鈴はかえりたし
目撃者 蝉の破調を握っている
物の怪も木の実も四囲をにぎわする
いつかこわれる楕円の中で子を増やす
吊橋の快楽をいちどだけ兄と
小面よ よよと笑えばほどかれん

このときの作家論は細川不凍と行本みなみが書いている。
細川は「痛みの作家・美の作家」で可奈子の境涯句に重点をおいて書き、行本は「言葉の中の女(ひと)」というタイトルで言語論に終始している。
可奈子の作品は境涯派と言葉派の両方から評価されるだけの実質をもっていた。どちらの面を評価するかによって評者の川柳観が問われることにもなる。強固な実存と詩的な言葉の両者を兼ね備えるのは至難のことである。

「川柳ジャーナル」時代、可奈子は2度受賞している。まず、1971年に年度賞を受賞。

致死量とおぼしき暁の真水
雉撃ちの一歩一歩の肉剥がれ
かたぐるま媚びるものらを地に増やす
終末のひとつはりんごひとつは樹
さらって来た子よりも重い髪が罪
みなごろしの唄まんえんの虫世界

1974年には「水俣図」で第三回「春三賞」を受賞している。

弱肉のおぼえ魚の目まばたかぬ
抱かれて子は水銀の冷え一塊
夜な夜なうたい汚染の喉の 必ず炎え
覚めて寝て鱗に育つ流民の紋
つぎわけるコップの悲鳴 父が先
ぬめるは椀か あらぬいのちか夜を転がる
手から手へ屍はまみれゆくとしても
やわらかく骨享くいまし苦海の子
天までの月日の価 襤褸で払う
裸者のけむり低かれ 不知火よ低かれ

この連作について、細川不凍は次のように書いている。
「他者の痛みに接近し、それを理解するには、自らの痛みを通してこそ可能となるものだ。水俣の痛みを、可奈子は自分の中の痛みとして、深く感じ取ったのだ。だからこそ書き得た『水俣図』十句なのである。彼女には、自分の痛みばかりでなく、他者の痛みをも受容し共有できる心的土壌が備わっているのだ」
このような評価の一方で、この連作の社会的テーマと可奈子の資質との間に乖離を感じる批評も当然あってよいだろう。「川柳の言葉と作者とのあいだの隙間」はそう簡単に埋まるものではないのであり、また密着していることが優れた川柳の証しとも言い切れないのだ。清水かおりが指摘している「私性(自己)と言葉(喩)」の問題は一筋縄ではいかない。
そういう意味では、可奈子の資質とモティーフとが完全に一致したものとして、「飢餓装飾」を挙げてみたい。

呱々と祝ぐ 雪片みるみる阿国
名も闇に覚ます 十指の一匹ずつ
手から手へ息せき切ってこがらし 阿国
雪片楽土 手舞い足舞うからす徒党
虫らあがり 手拍子のついぞ哭かぬ
風百夜 透くまで囃す飢餓装束
舷の添い寝のひとつおぼえの青曼陀羅
はやり阿国 はやり神楽のうかうか死す
塚無尽 唯々諾々といのち印す
阿国ぼかしの白き鉄癒ゆきさらぎ裡

「水俣」という社会性が一種のフレームであるとすれば、「阿国」もフレームである。現実とフィクションの差こそあれ、表現者は自己表現の契機を必要とする。ではなぜ「水俣」よりも「飢餓装束」をよしと評価するか。それはひとえに「飢餓装束」という言葉の力にかかっている。
「飢餓装束」は阿国のイメージを用いながら自己の内面性を表現しきっている。フィクションと自己表現が渾然と溶け合っていて、可奈子の代表作と言えるだろう。「風百夜」は屹立した句であるが、この連作の中の一句として読めば更に味わい深いものがある。

短歌に移行してからの可奈子について私はよく知らない。ただ、川柳誌に発表された短歌作品をいくつか読むことができた。「川柳サーカス」「コン・ティキ」から何首か引用しておこう。

錠剤のひとつふたつは寒からむ無数となりて豊饒の致死   「川柳サーカス」18号
動物の死骸(むくろ)を腋にかかへくる男とすれちがいざまの遊魂
机上に置かれ軟体化する帝国の臓腑のやうな夏帽子かな   「川柳サーカス」19号
白塗りの世紀にゲルニカを泛かべ 一ヌケ二ヌケヒト抜ケニケリ
小さき澤こそ深き患部に思ほへて傷より噴くはほうたるの膿  「コン・ティキ」1号
わが気管より翔びたちにけむいっぴきの蛍ほろほろ世に咲くがかに
月球の片欠けの白澤を浸し病蛍など出でましにけり
豊饒のいびつに賭けて今日をかける君にも吾にもふりしきる蛍

「揶揄…」の句を含む、「縄」7号(昭和53年2月)に発表された可奈子の「ほたる狩り」から引用しておこう。

揶揄らしい揶揄一輪 頭(ず)の夜明け
歯牙をも越ゆ 青きつづらの夢みるゆめ
迂闊に魚たりし 背の落暉
発砲つづくかぎり両棲の耳のやから
枯死と決まればつまびき通すほたる狩

「ほたる」を詠んだ可奈子の短歌と川柳を並べておきたい。並べてみたところで、可奈子がなぜ短歌に行ったのかは私にはわからないのだが。

豊饒のいびつに賭けて今日をかける君にも吾にもふりしきる蛍
枯死と決まればつまびき通すほたる狩

確かクレーの日記の一節だったと思うが、「世界が恐怖に充ちていればいるほど、芸術は抽象的になるのだ」という言葉が何だか思い出されるのである。

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