2012年4月20日金曜日

第5回BSおかやま川柳大会

4月14日(土)、岡山市の天神山文化プラザで「第5回BSおかやま川柳大会」が開催され、84名の参加者があった。「バックストローク」は昨年の11月に終刊したが、石部明を中心とする岡山のメンバーたちが「BS field」として句会を毎月続けている。昨年の「第4回BSおかやま大会」から1年、状況は変化したが「第5回大会」として開催されたことは喜ばしい。
大会の2日前に「BS field」誌22号が届いた。巻頭言で石部明は「新生21号は思いがけない反響をいただいている」と述べたあと、その期待に沿うための責任として「時代を見極めながら、その時代にあって自らの表現を模索すること」「自らの存在の意味を問いかけること」としている。また今回の「BSおかやま大会」について「数的動員を第一とするものではなく、当代屈指の選者をお迎えしている以上、それに応える作品を残すことであり、自由闊達な議論と創作の場を、全国の仲間たちに提供することこそが私たちの心づくしと考えたい」と書いている。
石部明自身は体調不良のため当日出席できなかったが、北海道、青森から福岡まで全国から集まった川柳人たちの顔ぶれは石部の期待に充分応えるものであったと言えよう。
当日の入選作品はいずれ「BS field」誌に発表されるだろうが、石部のブログ「顎のはずれた鯨」に速報が出ているので紹介したい。

課題「声」前田 一石選
準特選 春の声をぬけがらにするまで翳る    小西 瞬夏
特 選 音声認証 ドアときどき壁或いは君   蟹口 和枝

課題「映す」兵頭 全郎選
準特選 歯並びのきれいな犬が映りこむ     榊  陽子
特 選 菜の花は悲鳴を映す準備です      小西 瞬夏

課題「楽器」清水 かおり選
準特選 チェロを弾くほんの五センチ浮いている 酒井 かがり
特 選 風はまだリベルタンゴを暗譜中     内田 真理子

課題「箪笥」井上 一筒選
準特選 和箪笥へ登ってみれば樹海なり     筒井 祥文
特 選 刀箪笥のあんぽんたんを研ぎなおす   内田 真理子

課題「箪笥」樋口 由紀子選
準特選 来世はもう箪笥しませんと言う箪笥   きりのきりこ
特 選 和箪笥は走り出したら止まらない    蟹口 和枝

課題「女優」石田 柊馬選
準特選 女優とは楕円でまわるアメフラシ    酒井 暁美
特 選 徳利の首から下は皆女優        くんじろう

課題「肝」小池 正博選
準特選 肝から下は平家の公達にて       中西 軒わ
特 選 鳥の肝鳥のかたちにしてあげる     榊  陽子

選者の選評が語られることもBS大会ならではのことだった。
「箪笥」は樋口由紀子と井上一筒の共選である。半村良に「箪笥」という一種の怪奇小説があり、以前読んだときにその結末に衝撃を受けたことを記憶している。石部明好みの兼題だと言えよう。
樋口由紀子は「箪笥」という題について、「正面から眺めた箪笥ではなくて、裏側にまわったり上から眺めたりすると箪笥が別の見え方になることがある。しかも、常識とは異なった見方をしたうえで、箪笥はやはり箪笥であったりする」と述べた。共選の井上一筒は、絵画の場合にたとえて、展覧会にも「日展」「院展」もあれば、「二科展」「独立展」もあること、言葉の飛躍がなくておもしろさに欠ける場合もあれば、逆に飛躍しすぎて独善的になり(作者自身の中だけで飛躍しており)成功していない場合もあることを述べた。
「女優」の題を与えられた石田柊馬は、前半にさまざまな女優名が詠み込まれた句を選んだ。女優の固有名詞は強力なイメージを喚起するし、同時代を生きた自己の思い出と結びついている。柊馬はそのような「ノスタルジーとの戦い」を意識しながら選をしたことを述べた。
選評はいずれ発表誌に掲載される予定である。

さて、「BS field」22号に話を戻すと、石部明の「何かが起きる交差点」という文章が掲載されている。2002年ごろに書かれたものを再掲載したらしいが、石部は飯島晴子のことに触れている。

〈 私の川柳の実質的な出発はこの一文に始まる。
「とにかく私は、川柳も短詩としてしか見られないから、そこに詩がなければ私にとっての存在価値は認められない」と書く俳人飯島晴子の一文である。〉

時実新子主宰の「川柳展望」8号(昭和52年)に掲載された飯田の文章は「まだ川柳を始めて二年目の、しかも、人情がもてはやされ、上滑りする皮肉や風刺、痛くも痒くもない時事性を主体とする川柳に、少々うんざりしていた私に驚きを与えてくれ、やる気を起こさせてくれたバイブルでもあった」と石部は言う。
「川柳展望」に第一線で活躍する俳人の文章が掲載され、それが川柳人にも刺激を与える状況が当時はあったということだ。
飯島晴子は次のように書いている。

「既成の世界が黒だからその反対の白というのでは、結局、既成の世界を脱し得てはいない。白でも黒でもないところに、確たる存在感を打ち立てるのが詩をつくることだと私は思っている。ところが、私の視野の狭さであろうが、川柳はこの黒でなければ白、という精神のパターンが非常に多いように見受けられる。複雑に既成の世界に絡めとられているわれわれには、正直いってこのパターンはあまりにも単細胞的で、何の詩的衝撃も受けようがないのである。こんなことでは救われないのである」

この文章はとてもインパクトがあったようで、ちょうど「MANO」17号で樋口由紀子がまさに同じ部分を引用している。石部と樋口という二人の表現者が飯島の同じ文章にシンクロした。それは1980年代に川柳がゆっくり次の時代に向かって動きはじめる、その胚胎期としての意味をもつ。「BSおかやま大会」の会場でも配られていた「MANO」17号については、次週に改めて述べてみたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿