2012年11月30日金曜日

「川柳カード」創刊号

先週触れた「現俳協青年部シンポジウム」について補足しておく。
書斎のクリアーファイルを整理していると、10年前の第15回シンポジウム(2002年6月22日)の冊子資料が出てきた。「俳句形式の可能性―変貌するハイク・コミュニティーの中で―」というタイトルで、パネラーが江里昭彦、パネリストが浦川聡子・金山桜子・五島高資・堺谷真人・高橋修宏であるが、その内容をすっかり忘れてしまっていた。人間の記憶なんて当てにならないものである。
読み返してみると結構おもしろいので、パネリストの基調報告要旨を少し紹介しておく。

「俳句という文芸は、芸術性の高い作品から大衆性のあるものまで、幅広いキャパシティと可能性を持つものであると思う。今世紀はインターネットのさらなる発達により、句会のあり方や結社制度もしだいに変ってくることと思う。現在の俳句の世界は比較的閉ざされた空間であるが、これからの俳句は、もっともっと外へ向かって開かれたものであってもよいのではないかと思う」(浦川聡子)

「俳句を作っている人の多くは、いずれかの結社に属し作品もまた結社誌に発表しているというのが現状である。こうした結社制度は師弟間あるいは同志間による直接的な修練の場として重要である反面、部外者からは専門家集団として敬遠されたり、仲間内だけの閉鎖的組織となりがちである。そうした結社制度による旧来の俳句社会という意味で私は『俳壇』という言葉を捉えている。
ところが、近年における急激なインターネットの普及は、俳句創作にも大きい影響を与えている。結社に関係なく自由に自らの俳句を全世界に向けて発表することが可能になったのである。勿論、そのことによる弊害にも十分留意すべきであるが、インターネットによる情報革命が俳句に及ぼす影響は正岡子規による近代俳句革新に劣らない意義を持つものと考えられる。これからの俳句は『俳壇』の『壇』が示す段差や閉鎖性を超えた言語芸術としてその真価を問われる時期に来ている」(五島高資)

「メディア状況の変化は、俳諧・俳句の変化を先取りする。蕉門俳諧は、町人識字層の担う元禄出版文化の隆盛の上に花開いた。蕪村の活躍は、多色刷り版画普及と同期しており、子規・虚子の事業は、新聞・雑誌という情報インフラなしには考えられない。
近年、ITは情報の発信コストを低減させ、多様な俳句が価値自由的に流通することを許した。しかし、一見開かれたオンラインコミュニティも他者との摩擦を回避し、次第に蛸壺化してゆく傾向がある。批評言語が共有されず、他者と交わるプロトコルが不在なままだからである」(堺谷真人)

それぞれの問題意識は興味深いが、この10年間で状況はどのように変化したのか、さらに関心がもたれるところである。

俳句関係のイベントでは、12月22日(土)に神戸の生田神社で「第1回俳句Gathering」が開催される。「俳句で遊ぼう」という企画で、第1部「五・七・五でPON」では「天狗俳諧」に挑戦、第2部「俳句の魅力を考える」では少し真面目にシンポジウム、第3部「選抜句相撲」では作った俳句を一句ずつ取り上げて対戦。第4部「句会バトル」では芸能プロダクションに渡りをつけてアイドル・グループ「Pizza♡Yah」を呼び、俳句素人の男たち48人と対戦させる。よく分らんところもあるが、とにかくおもしろそうだ。

「川柳カード」創刊号が発行された。発行人・樋口由紀子、編集人・小池正博。3月・7月・11月の年3回発行予定。
巻頭言「読むところからはじまる」で樋口由紀子は、「ユリイカ」(2011年10月号)の川上弘美・千野帽子・堀本裕樹の鼎談を引用したあと、読みの魅力と困難さを語っている。
川柳界では石田柊馬が「川柳は読みの時代に入った」と宣言したものの、作品の読みはそれほど深められていない。私はその理由が川柳の句会形式そのものにあるのではないかと思っている。川柳の句会では一人の選者がひとつの兼題について出された句の選をする。選者が選ばなかった句はボツとなり、日の目を見ることはない。互選形式は少なく、なぜその句を選んだのかという理由を問われる機会もほとんどない。極言すれば、選は句を読まなくてもできるのだ。「選」と「読み」は次元の違う行為である。
句評の機会が少ないために「読み」が鍛えられることはなく、「批評」も生れないことになる。多くの川柳人は本音では「読み」はできなくても「選」が出来ればいいのだと思っているところがある。「読み」や「批評」は特定の人に任せて、自分たちは実作に励みたいという気持ちは分らないでもない。
ここで、樋口の巻頭言に戻ってみよう。樋口は「ウラハイ」に「金曜日の川柳」を連載しているが、その体験について次のように語っている。

「何度かに一度『読めた』と実感できたときは本当に嬉しい。世界がぱあっと拡がっていく。読みとは言葉の関連性を見抜くことであり、言葉の背後を知ることである。読めたら、それらが見えてくる。楽しさやおもしろさに確実に繋がっていく。そして、何よりも読むことによって川柳とは何かを知ることになる」

読みによって川柳に関わっている自己の深度が深まってゆく、そのおもしろさについて樋口は語っている。読みの深まりはその人の実作にも反映してゆくはずである。才能ある多くの川柳人が自己模倣をくり返し、成長をやめてしまうのは川柳テクストの読みから養分を汲み取るのを怠ったところにも原因があるのではないか。義務として読むのではつまらない。

樋口自身のエッセイ「御中虫という俳人」は「読み」の実践とも受け取れる。
御中虫の登場はインパクトがあったから、俳人たちは川柳に近いものを感じとったのか、樋口は感想を聞かれる機会が多かったという。
「私は川柳ではすでにある世界であり、そんなにめずらしいものではないと答えた」
あるフィールドで新鮮な表現であっても、別のフィールドでは陳腐な表現であることは短詩型文学の世界でよく見られることである。けれども、問題はその先にある。
「しかし、ここで御中虫の評価をやめてしまってはいけなかったのだ」
樋口自身の読みの深化については本誌をご覧いただきたい。

「特集・現代川柳の縦軸と横軸」として、評論が二本掲載されている。
文芸の「いま・ここ」〈naw・here〉は縦軸と横軸によって決定される。通時性と共時性であるが、川柳の場合はどうなっているのだろうか。
堺利彦の「川柳論争史(1)主観・客観表現論争」は明治40年代の川柳誌「矢車」を中心に、川柳に「主観句」が導入された経緯を詳論している。川柳にもかつては熱い論争があった時期があると私は思っているが、それを「論争史」と呼ぶのは語弊があるものの、堺利彦に無理を言って書いてもらったのであった。
明治44年の菅とよ子の川柳作品については、私もはじめて知った。女性川柳の先駆と言えるのではないか。

倦みはてて乳のおもみをおぼゆる日    菅とよ子
やがて君にすてらるる日をおもひ居ぬ
ひとり寝て蚊帳のにほひをなつかしむ

湊圭史の「言葉の手触り」は共時的に、短歌・俳句などとの比較の中で同時代の川柳の特質を論じてもらった。

「川柳カード」創刊記念大会の部分について、池田澄子と樋口由紀子の対談はライブ感覚の面白さを堪能できるのではないだろうか。
同人作品については引用する余裕はなくなったが、作品本位のシンプルな編集になっている。会員作品欄を「果樹園」と名づけているのは、かつての「川柳ジャーナル」で中村冨二が担当していた「果樹園」を思いおこさせ、「川柳カード」が現代川柳の伝統をそれとなく意識していることを示するものである。創刊と同時にホームページも立ち上げられている。

川柳カード http://senryucard.net/

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