2012年12月7日金曜日

鶴彬と大阪

鶴彬の生涯で大阪と関わりのある時期が二度ある。
一度目は鶴彬が17歳のとき、1926年(大正15年・昭和元年)の9月に職探しに大阪に出てきた時期である。もう一度は軍隊での赤化事件で大阪衛戍監獄に入ったときである。私は以前から鶴彬の大阪時代について関心があるので、何冊かの本を紹介しながら、ふりかえってみたい。

まず、17歳での大阪行きについてであるが、彼は四貫島の従兄弟を頼って、毎日職探しに明け暮れていた。喜多一二(きた・かつじ、鶴彬の本名)の名で発表された「大阪放浪詩抄」という詩がある。その冒頭の一節(引用は深井一郎著『反戦川柳家・鶴彬』日本機関紙出版センター、による)。

はじめて見た大阪の表情は
石炭坑夫の顔のやうに
くろずんでゐた
軽いちっそくをおぼえる空気の中に
あ、秋はすばやくしのびこみ
精神病者のごとき街路樹は
赤くみどりを去勢されてゐる

吉橋通夫の小説『鶴彬・暁を抱いて』(新日本出版社)は2009年3月に初版が出ているから最近の小説ではないが、先日読む機会があった。
第一章「初めての旅立ち―十七歳 大阪へ」では、喜多一二が故郷の高松町から大阪行きの汽車に乗る場面から始まる。彼の故郷は石川県の高松町で、四国の高松ではない。七尾線で津幡まで出て上り列車に乗り換え、大阪まで九時間。
大阪へ出た彼は職探しがうまくいかず、ある日、百貨店の屋上にあがってみる。「大阪放浪詩抄」では次のように書かれている。

高い高い百貨店の頂上にある
ひろい展望台の海です
ところところの白亜の大建造物は孤島の風景です
真下の街道とうごめく人人は、
蟻だ、蟻だ、
左様、
生活に思索を奪はれた都会人種は
みな極端な唯物主義者です
遠く瞳を放てば
郊外の工場地街は
もうえんたる 煙の底に
太陽を失念した
プロレタリア諸君が
便所のいじ虫の如くに
うごめいてゐるのです

小説では幼馴染の花枝という少女が登場する。手をにぎることさえしなかった幼い恋は、彼女が大阪へ去り、「新世界」で働くことになって終った。その彼女と大阪で再会する場面が小説ではこんなふうに描かれている。

「かっちゃん!」
「えっ?」
おどろいてふりむくと、はでな水色の銘仙を着た若い女が目を丸くして立っている。
「やっぱり、かっちゃんね!」
息をのんだ。
「もしかして…花枝ちゃん?」
こっくりうなずいた花枝が、一二の袷の袖を引っぱって道のはしへ誘う。
「もしかして、あたしを追いかけて大阪へ来てくれたん?」

この場面も「大阪放浪詩抄」からヒントを得ているようだ。小説のネタばらしのようで恐縮だが、原詩では次のように書かれている。

新世界を散策してゐると
とあるキネマ館の入口から
蝶蝶のやうに女が舞ひ出て来た
それはふるさとにゐるとき
熱心に僕を恋した女だった
『ここにゐるの』
『ええ あんたは』
『浪人してゐる』
女は銀貨を一つ僕の掌にのせた

そういう女性が本当にいたのであろうか。フィクションかも知れないとも思うが、小説化するとすれば、やはり外せないエピソードだろう。
喜多一二(鶴彬)がいた四貫島(しかんじま)はJR環状線「西九条」のあたりである。彼は小さな町工場で働きはじめるが、「パンを得なくして何の思索があらう。仕事につかなくて何の文学があらう」「頭脳で考えるよりも胃袋で直観した」(「田中五呂八と僕」)という認識に至るのである。
やがて彼は大阪を去って故郷へ帰る。東京へも行き井上剣花坊を訪れ、剣花坊の柳誌「川柳人」を中心に活躍が続くが、1930年(昭和5年)に金沢の第七連隊に入隊する。そこで「第七連隊赤化事件」が起こる。
入隊した喜多一二はナップ(全日本無産者芸術連盟)と連絡をとりつつ、「無産青年」(日本共産青年同盟の機関紙)を軍隊内に広めようとする。
治安維持法違反で懲役二年。彼は大阪の衛戍監獄(えいじゅかんごく)へ送られる。
吉橋の小説、第四章「抵抗への旅立ち」の獄中生活の場面では、こんなふうに描かれている。

「ここは大阪城内なので、街のざわめきは伝わってこない。だが、高い壁に穿たれたわずか五十センチ足らずの明かり窓が、鉄格子の向こうからたくさんのものを運んでくれる。
薄紅色の花びらがひらひらと舞い落ちてきたときは、夢かと思った。受け止めようとしたが足がふらつき、畳みの上に落としてしまった。そっとつまんで手のひらに乗せて香りをむさぼった。そのうち水分を失い、変色し始めたので口に入れると、まだ甘い花びらの味がした」

獄中生活は厳しく、一日中壁に向かって正座させられたり、真冬でも水風呂に五分間浸からなければならなかった。
陸軍衛戍監獄は大阪城内にあり、現在の豊国神社付近だと言われている。

2008年、鶴彬没後70年を記念して、この場所に「鶴彬顕彰碑」が建立された。場所は豊国神社の東側である。顕彰碑には次の句が刻まれている。

暁を抱いて闇にゐる蕾   鶴彬

この句は金沢市の卯辰山公園の句碑にも選ばれている。句碑について言えば、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の句碑が盛岡市(鶴彬の墓がある)に、「枯れ芝よ 団結をして春を待つ」が郷里の高松町にある。
1933年(昭和8年)、鶴彬は兵営を出る。木村半文銭と「大衆性論争」を激しく繰り広げたのは昭和11年のことである。昭和12年12月に「川柳人」に対する弾圧事件が起こり、鶴彬は特高に逮捕される。獄中で赤痢にかかり、昭和13年9月死去。享年29歳。

付け加えるべきかどうか迷うのだが、鶴彬と大阪との関係、実はもう一つある。鶴彬が「川柳人」に投句した作品を非国民的だとして当局に告発したと言われている川柳誌「三味線草」は大阪から発行されていたのである。ああ。

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