2012年1月6日金曜日

児童文学にも批評があった!

新年おめでとうございます。
今年も「週刊川柳時評」をよろしくお願いします。

年末年始に手にとった本の中で印象に残ったのが「児童文学批評の新地平」全3巻(くろしお出版)である。第1巻『児童文学を問い続けて』(古田足日)、第2巻『〈共感〉の現場検証―児童文学の読みを読む』(西山利佳)、第3巻『〈物語〉のゆらぎ―見切れない時代の児童文学』(奥山恵)の3冊。児童文学にも批評があったのかという新鮮な驚きだけではなく、その問題意識が現代の状況としっかり対応しており、かつ川柳の直面している問題とも通じるものがあるように思われるのだ。
まず、第2巻『〈共感〉の現場検証』を取り上げてみよう。
興味深かったのは次の4点である。

一つ目は「ボーダーレス」ということ。
児童文学における「ボーダーレス現象」とは、「大人の読者」と「子どもの読者」の境界が明らかでないということである。いわゆる「子ども忘れ」であり、作家が大人を意識して書いている状況をいうようだ。
このような状況に対して、二通りの考え方がある。
①大人に共感されそうな作品が児童文学として出版されるのは児童文学の「拡充」ではなくて「拡散」だという否定的立場
②「児童」文学と「大人」の文学に線を引くことは疑問であり、「大人が読んでおもしろくない本」は子どもが読んでもおもしろくないという立場
この両者のどちらの立場に立つかによって作品の評価は変わってくると西山利佳は言う。

二つ目は「〈共感〉の現場検証」について。
自分が感動して読んだ本に対して批判的な批評は、感動していた自分が気づけなかったことを明らかにし、自分が新しくなる契機になると西山は言う。「世間一般に共感を持って受け容れられている作品」に対して異を唱え、「感動に水を差すような批評」である。

三つ目は「児童文学批評」ということ。
「児童文学評論研究会」というものがあるそうだ。著者は次のように書いている。
〈世間の多くは「児童文学評論」なるものの存在すら知らず、知っているものの多くは、好感をいだいてはいないと思われる。世に「評論家のようだ」という非難軽蔑の言葉があるように、だいたいろくなもんじゃないと思っている人は多いはず。〉
〈「難しい=「おもしろくない」といった短絡は子どもたちによく見られるが、おとなにもある。「おもしろい」は多様である。〉
何やら川柳にとっても他人事ではないような気がする。

四つ目は「話の落ち着くところ」について。
「コンドルは飛んで行く」という曲がある。サイモンとガーファンクルの歌はその第1部だけで、原曲は3部まであるそうだ。ところが原曲の演奏を聞いた人は、第1部が終わったところで終わったと思い込んで拍手をしてしまう。著者はこの話を紹介したあとで次のように言う。「ある作品が終わったと認識する感覚は多分に制度的なのだ」
「子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすく」という文学観をもっている人はエンディングに関しても「はっきりわかりやすく」をモットーにするという。

以上のような観点を川柳に即して敷衍してみると、どういうことになるか。
まず、どのような読者を想定して作品を書くかということが問題として浮かびあがる。
児童文学の読者を「子ども」と想定すると、子どもにもわかりやすいような内容を書くことになる。川柳の読者を「庶民」と想定すると、だれにでも分かるような一読明快の句をよしとすることになる。けれども、そのような作品が本当におもしろいのだろうか。
そもそも「子ども」「庶民」のイメージも勝手に創り上げたものであることが多い。読者が何を望んでいるのか簡単に決められはしない。

ボーダーレス現象の例に挙げられている作家に江國香織がいる。
西山は江國について次のように書いている。
〈「何が書かれているか」より、「どれだけ豊かなことばがつぎこまれているか」「ことばのつくる空間がすき」という立場を選ぶ彼女の作品を読んでいると、言葉そのものを追求して不純物をそぎ落とし、とてもシンプルな言葉に行き着いたという印象を受ける。それは、子どもにも読める簡単な言葉だ。〉
〈しかし、彼女の作品は読み手を選ぶ。日常生活の次元と別の、言葉だけが創り上げる世界を楽しむには、かなりの想像力を要する。ひとつひとつの言葉は簡単かもしれないが、機能が難しいのだ。〉

このことを川柳の世界で使われる用語でいうと「平明で深みのある句」ということになる。「平明」と「深み」とは一見すると矛盾する。これを両立させるにはかなりの力業が必要だろう。石田柊馬がどこかで述べていたように川柳にも「新しい平明」が求められている。それは誰にでもわかる句という意味ではない。

もう少し先へ進もう。ここで、第3巻『〈物語〉のゆらぎ』(奥山恵)に触れてみたい。
〈「もうひとりの自分」考〉ではカニズバーグの『ぼくと〈ジョージ〉』(松永ふみ子訳、岩波書店、1978年)が取り上げられている。ベンとジョージは「一人のくせにおへそでつながった二重丸みたいなふたご」である。〈ジョージ〉は鋭くものの本質を言い当てる内部の声(別人格)なのだ。物語の結末ではベンとジョージの声が区別できなくなったと書かれている。これは一見〈ジョージ〉が消えた、即ち別人格として認められなくなったというふうに読める。
けれども、〈ジョージ〉は果たして消えたのか?と奥山恵は問う。
「もうひとりの自分」を消すことは主人公を一歩前へ進ませること、という解釈がある。
分裂した自我意識が統合されて新しい人格が形成されたのだ、という解釈もある。
いずれも〈ジョージ〉は消えたという前提に立っている。
だが、「もうひとりの自分」という存在は不健康なのだろうか、と奥山はさらに問う。過剰な存在を不健康な病としてとらえると作品を予定調和的な貧しさに陥らせてしまうのではないかというのである。

「子どもにもわかりやすい」作品と思われている児童文学が、その先端部分でこれだけの問題性を孕み、批評が多様な読みを提起するレベルに至っていることは新鮮な刺激を与えてくれる。
川柳においても問われているのは、作品の読みなのである。

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