2014年10月17日金曜日

京博へ行けばカエル・パワーがもらえる

美術の秋である。
いくつか話題の展覧会が開催されている。
先週発表しようと書きかけた文章が今週になってしまったので、すでに開催が終わったり、展示替えになったものも多いがご了解いただきたい。

京都国立博物館で平成知新館がオープンした。すでにご覧になった方もおられるだろうが、常設展「京へのいざない」が開催中。
私が見たときは2階の絵画室が充実していて、「源頼朝像」「平重盛像」のほか雪舟が3枚、如拙の「瓢鮎図」、伝徽宗「秋景冬景山水図」、牧谿「遠浦帰帆図」などが陳列されていた。(現在は第二期に入り、陳列替えになっている)。
小学校六年生のときにはじめて京博を訪れてから、ここは私にとって大切な場所のひとつである。新館が平成知新館になってもそのことは変わらない。
たとえば、如拙の「瓢鮎図」。
つるつるした瓢箪でぬるぬるした鯰をどう押さえるかという禅の公案がある。ちなみに「瓢鮎図」の「鮎」は鯰のことである。男の眼と鯰との間に瓢箪がある。瓢箪を鯰の方に徐々に近づけてゆく。するとある位置で、男の視界において鯰は見事に瓢箪の中に隠れるのだ。思えば、かつての私は観念論者だった。
花田清輝に「ナマズ考」という文章がある(『日本のルネサンス人』)。
花田は「瓢鮎図」の男を個人主義者と見る。徹底的な個人主義者だったその男は地震が起こると瓢箪をたずさえて竹藪に逃げ込んだ。彼は地震のおさまるのを待ちながら、悠々と瓢箪の酒を傾けていた。ところが、彼は一匹の大鯰が流れを泳いでくるのを見たのだ。古来、鯰は地震の元凶と言われている。彼は思わず瓢箪を振りかざしたまま、夢中で鯰に向かって突進していった。
花田はこんなふうに書いている。
「しかし、瓢箪でナマズを押えることは、しょせん、無理な相談であって、何遍やってみても、かれの企ては、そのつど、無惨にも挫折した。にもかかわらず、かれは、必死になって、ナマズを追い続けた。そして、わたしには、問題の『瓢鮎図』が、最後にかれの行動に移ろうとした決定的瞬間を、あざやかにとらえているような気がしてならないのだ」
「わたしは、飛んだり、跳ねたり、大騒ぎをしながら、小川を泳ぎくだってくるナマズをみても、指一本うごかそうとはしない冷静な男の分別を、かならずしも過小評価するものではないが―しかし、不可能の可能性を信じて、瓢箪でナマズを押えつけようとする騒騒しい男のなりふりかまわぬ無分別な行動をせせら笑おうとはさらさらおもわない。くりかえしていうが、そこには、個人主義の枠のなかにおさまりきれない、やむにやまれぬ何かがある」
如拙の「瓢鮎図」から随分離れた感想であり、花田にしては珍しく熱くなっているのも面白いが、この文章を読んで以来、如拙の「瓢鮎図」は私のなかで花田テーゼと結びついたものとなっている。

もう一枚、牧谿の「遠浦帰帆図」に触れておこう。湖を帆船が帰ってくる。岸に向かって対角線の構図が心地よい。絵の全体をおおう雨と水蒸気。ターナーが色彩で描いた世界を墨一色で描ききっている。岸には酒旗がひるがえり、居酒屋でいっぱいやってみたい気分に誘われる。この絵は、ほれぼれと立ち去りがたい名品である。
水墨画とか書斎詩画軸というものが長い間、私にはなじめなかったが、こういうものは現実や人間の醜悪な姿を見尽くしたうえで、はじめてその気韻のすばらしさがわかる。政治家や実業家が茶の湯や水墨の世界にひかれるのも理由のあることで、現実の醜さを知り尽くしているからこそ、書斎における静謐な世界が必要であって、心のバランスをとることができるのだ。
「京へのいざない」は展示替えをして10月15日から第二期。京博では特別展「鳥獣戯画と高山寺」も始まっている。「鳥獣戯画」のカエルやウサギたちから私は今までどれだけ笑いとパワーをもらったことだろう。

すでに終了したが香雪美術館では「曾我蕭白展」が開催された。
「蕭白展」は2005年に大きな展覧会が京博であったが、今回は小規模ながらいくつかの名品が陳列されている。香雪美術館所蔵の「鷹図」は色彩の美しいものだし、「獏図杉戸」(朝田寺)などの異形の絵が印象的だった。
数十年前になるが、高校生のときに二条城で「異端の画家」という展覧会が開催され、私は学校をさぼって見に行った。そのとき私は若冲・蕭白・蘆雪などをはじめて見た。1970年ごろ、「異端」というのは魅力的な語であった。その後、「異端派」は「奇想派」と名前を変え、その分パワーを失って、一般に受け入れられるようになった。

伊丹の柿衞文庫では「芭蕉生誕370年展」が開催中。
柿衞文庫は開館30周年を迎える。この30年間の新出作品などを集めて開催されている。
平成5年(1993年)は芭蕉没後300年記念で、柿衞文庫と出光美術館で大規模な芭蕉展が開催された。そのときは120点の作品が一堂に会し、破笠筆「芭蕉翁像」や西村本「奥の細道」、蕪村筆「奥の細道屏風」などを見ることができた。そのときと比べると今回の展覧会は小規模で専門的である。破笠筆芭蕉翁像は今回も出ていたが、前期だけで現在は展示替えで出ていない。芭蕉筆「旅路の画巻」などは見てわかりやすいものである。
現在は後期で11月3日まで開催。

芭蕉に関連して、10月19日には大阪天満宮で「第八回浪速の芭蕉祭」が開催される。大阪は芭蕉の終焉の地である。

あと大和文華館では特別展「酒井抱一」が開催中。抱一の「夏秋草図屏風」が全期間出品されているのが嬉しい。11月16日まで。

川柳のことも少しだけ。
「触光」39号の会員自選作品に渡辺隆夫がこんな句を出している。

「川柳の使命」だなんて呆けたか爺さん
二葉亭四迷もクタバッテ使命
賢女ら健在、使命ってナニよ
とり急ぎ使命打者を探します
爺さんの住所使命は「わかりまへん」

この時評の8月8日に書いたが、「第4回高田寄生木賞」の大賞作品「ふる里は戦争放棄した日本」(大久保眞澄)について、渡辺隆夫が「この句には、川柳の使命のようなものがギュッと濃縮されています」と述べたことに対して、広瀬ちえみは「さて、川柳には隆夫さんが述べる『使命のようなもの』があるのだろうか。川柳の特質のひとつである『批判』や『諷刺』にあたることをさしているのだろうが、私は『使命』という強いことばでいわれるとどこかひいてしまう。アブナイもののようで近づきたくないと思うのだ」と疑義を提出した。今回の隆夫の句は、そのことを受けて書かれている。
隆夫は自分自身を茶化している。あいかわらず話題をふりまくおもしろい人である。
この議論が「川柳に使命があるか、ないか」というように、表層的に理解されてしまうことのないように願っている。

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