2014年10月24日金曜日

「第二回川柳遊魔系」集会

本日は「第二回川柳遊魔系」にお集まりいただき、ありがとうございました。
石部明さんが2012年10月27日にお亡くなりになってから、二年が経過しようとしています。昨年の10月27日には大阪市立総合生涯学習センターで「川柳・遊魔系」句会を開催しました。今年も第二回を開催しようと思っていたのですが、諸般の事情で開催することができませんでした。そのかわりと言うのも変ですが、このブログを借りて、架空の「遊魔系」集会を行いたいと思い立ちました。しばらくおつきあいくださいますようお願いいたします。
昨年は「『遊魔系』に見る無頼の生き方」というタイトルでお話させていただきました。石部明の作品を「現実との違和」「もうひとつの世界」「帰ってから」の三つに分け、異界に行って帰ってくるという石部ワールドを往相・還相の観点から整理してみました。
今回は「石部明における『死』のテーマ」ということでお話したいと思います。
石部明の第一句集『賑やかな箱』(1988年)に次のような句があります。

消えてゆくものの微かな摩擦音     石部明
賑やかに片付けられている死体
なんでもないように死体を裏返す
向きおうて死者も生者もめしを食う
葬式に人がくるくる花日和

これらの句を引用したあと、前田一石さんは「川柳カード」6号「石部明とのいろいろ」で「当時の川柳界で『死』を詠むことは、嫌がられていた。と言うよりも誰もが句にしなかった」と書いておられます。
それでは、石部明以前の川柳において「死」はどのように詠まれていたでしょうか。

死に切って嬉しさうなる顔二つ     柳多留
生まれては苦界死しては淨閑寺     花又花酔
六兵衛は死んだそうだよ風が吹く    大谷五花村
葬式で会いぼろいことおまへんか    須崎豆秋
轢死者の下駄が歩こうとする      中村冨二

心中や社会批判やユーモアなど、人間くさい川柳は「死」を詠む場合でも生者の視点から離れません。ただし、中村冨二だけは少し異質です。『賑やかな箱』で石部明は「死」というテーマを発見しました。その後、『遊魔系』で深められることになる契機が第一句集にあります。

ところで、俳句では「死」がどのように詠まれているか、一瞥しておきます。

雉子の眸のかうかうとして売られけり     加藤楸邨
螢死すこの世のひかり出し尽くし       鷹羽狩行

俳句の場合は「もの」に即して、動物や植物の死を詠んでいる場合が多いようですが、次のように人間くさい句もあります。

うどん供へて、母よ、わたくしもいただきまする   種田山頭火
露の世はつゆの世ながらさりながら         小林一茶

これらは川柳とも近い感じがします。また、俳句では「忌日」という季題があります。先人の亡くなった時期にちなんで、「~忌」という季語を使います。

忌にこもるこころ野に出で若菜摘む    細見綾子
花あれば西行の日とおもふべし      角川源義

女流では、やはり次の二人の句が心をうちます。

月光にいのち死にゆくひとと寝る     橋本多佳子
白露や死んでゆく日も帯締めて      三橋鷹女

さて、石部明の川柳に話を戻しましょう。
川柳に詠まれる「死」は生者の視点から眺められることが多かったようです。ところが、石部明は「異界」の方へ行ってしまった。死の世界は、現実とは次元の異なるもうひとつの世界であって、現実は異界と二重写しになってとらえられています。異界は同時に言葉によって構築される世界、文学の世界でもありました。
第二句集『遊魔系』を読むと現実の中に異界を見る句が目立ちます。「死」の前に「魔」があるわけです。

天井の鏡の中を魔が通る        石部明
水掻きのあるてがふっと春の空
傘濡れて家霊のごとく畳まれる
目隠しをされ禁色の鮫になり

日常生活の中で「魔」や「水掻きのある手」がふっと幻視されます。石部明ほど現実を知り尽くしている人はいないはずなのに、彼はもうひとつの世界の中でも生きていた。そして異界から現実を眺めかえして川柳を書いていたのではないでしょうか。内部に二つの世界をかかえていることは、明さんの場合、矛盾ではないと思っていましたが、句集を読み返してみると、こんな句もありました。

夜ごと樹は目覚めてわれを取り囲む
苦しんで夜明けをまっているさくら
折鶴のほどかれてゆく深夜かな

夜はロマン派の世界であり、魔の跳梁しやすい時間でもあります。それは解放でもあり、同時に苦しみであったかもしれません。
以前から気になっていたのは次の句です。

揺さぶれば鰯五百の眼をひらく

それまで死んでいた鰯を揺さぶると一斉に眼をひらくというのです。
魚には瞼がありませんから、眼をひらくということ自体が虚構です。
しかし、鰯たちが突如五百の眼をひらいてこちらを見るというのは無気味でもあり、爽快でもあります。
石部明の作品にはさまざまな面があり、たとえば「性」もそのひとつです。「性」については次の機会にいたしましょう。最後に引用しておきたい句といえば、やはり次の句になるでしょうか。

死顔の布をめくればまた吹雪    

人生の結末を言えば、すべての人は死で終わるわけです。終末を考えればニヒリズムは避けられません。しかし、人生には結末だけではなく、プロセスがあります。結末の時間があるからといって、それまでの時間に価値がないとは言えない。おおかたの川柳人は亡くなると忘れられてしまうのが普通です。追悼句会を行って、あとはきれいさっぱり忘れられてゆく川柳人の運命を私もしばしば目にしてきました。ニヒリズムの克服は大切なことです。
晩年の明さんがよく聞いていたというCDに一青窈「歌窈曲」があります。
今夜もこれを聞きながら石部明のことを考えています。
10月27日は明さんが亡くなって丸二年になります。石部明の川柳について改めて考える機会にしていただければありがたいです。ご清聴ありがとうございました。

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