2014年5月2日金曜日

川柳木馬35周年記念大会(絵金のこと)

4月19日(土)、高知市文化プラザ(カルポート)にて第3回木馬川柳大会が開催された。創立35周年記念大会である。76名の川柳人が16都道府県から集まった。高知での大会になぜ全国から川柳人が集まるのか。そこに「川柳木馬ぐるーぷ」が35年間発信し続けてきたことの実質がある。
事前投句「ゼロ」は、私と味元昭次(俳誌「蝶」代表)の共選であり、それぞれ15分程度の話をするように要請されていた。
創刊以来の「木馬精神」として私が挙げたのは次の三つである。

①個性の確立
②反権威主義
③他ジャンルとの交流

個性の尊重・個性の確立は常に言われてきたことである。表現者の原点だろう。
反権威主義・反権力主義は特に創刊同人である海地大破に濃厚に体現されている。
「川柳木馬」5号(1980年7月)には創刊一周年の時点での同人たちの座談会「明日へ向かって」が掲載されている。私が繰り返し読み返している号で、以前このブログでも触れたことがある。
その中で大破は次のように語っている。

「一人の人が常に書くということになると、そこには体制的なものが出来上がってしまうのではないか」

反権威主義は外部に対してだけのものではない。内なる権威主義に対しても大破は異を唱え、警戒を怠らない。
他ジャンルとの交流は、たとえば俳誌「蝶」との交流にもあらわれている。味元がこの大会で選と講話をしたのもその流れの中にある。味元は俳句と川柳の境界線上の作品、ボーダーゾーンは重なることを述べた。「蝶」同人の畑山弘は「木馬」同人でもある。
「蝶」205号(2014年1月)には清水かおりが「現代川柳の仕事」という一文を発表している。「作品と論は両輪の輪でなければならない」ということについて、清水は次のように書いている。

〈私の所属する『川柳木馬』は今年三十五周年を迎える。昭和五十七年木馬十三号(創立三周年記念号)から始まり現在も継続している「作家群像(次世代を担う昭和二桁生まれの作家群像)は、この両輪を強く意識した企画である。作品の向上、個性の確立、理論の体系化、新人の育成、という明確なビジョンを持った、スパンの長い教育プログラムのようなものだ〉

考えてみれば、私の挙げた「木馬精神」は「川柳木馬ぐるーぷ」の中で継承すべきものではあるけれども、結社やグループとは関わりなく誰が継承してもよいものだとも言える。精神のリレーとは、そういうものだろう。

大会の翌日、木馬の人たちに桂浜と絵金蔵を案内してもらった。
絵金はいつか実物を見たいと思っていたもののひとつである。
「土佐の絵金」として有名な絵師・金蔵は狩野派を学び、土佐藩家老の御用絵師となった。そこに起こったのが贋作事件である。彼が描いた狩野探幽の模写がいつのまにか落款を押されて売却されていたのだ。贋作者の汚名を負った彼は高知城下から追放されてしまう。

私の手元にあるのは『絵金・鮮血の異端絵師』(講談社)という画集である。序文で廣末保はこんなふうに書いている(「絵金小序―評価の視点」)。

〈絵金を批評するためには、固定したジャンル意識から自由にならなければならない。でなければ、独特の空間構成によって参道や道の境界性を顕在化したその想像力を批評することもできない。〉
〈絵金にとって町絵師への転落は、古巣への回帰だったといえなくもないが、しかしそれは幕末土佐の、屈折してはいるが開放的な庶民的なエネルギーとの出会いを意味した。商農工漁民層のもつ多様な心性とその活力に絵金は出会った。ときには猥雑ともみられる多義的な想像力がそれをものがたっている。〉

幕藩体制が崩壊し、かつて自分を追放した御用絵師たちが権威を失って困窮したとき、絵金はからからと笑っただろうか。
毎年7月には赤岡町で絵金祭が開催される。絵金の屏風絵は絵馬提灯や百匁蝋燭のもとで見るのがふさわしい。絵金蔵には赤岡町に伝わる芝居絵屏風23点が所蔵されている。
「お若えのお待ちなせえやし」―「鈴ケ森」の幡随院長兵衛のグロテスクなまでの存在感はどうだろう。色若衆の白井権八はほとんど女だ。彼に切られた雲助たちの死骸が足元にごろごろ転がっている。「鷲の段」では鷲にさらわれた赤ん坊を母親が必死に追いかけている。彼女の胸から二つの乳房があらわにこぼれている。薄暗い蔵の中で絵金の泥絵が無意識と本能をチクチクと刺してくるのを呆然とながめていた。

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