2012年3月16日金曜日

大友逸星・添田星人追悼句会

雑誌「東京人」4月号は「川柳」特集を組んでいる。誌名からわかるように東京中心の視点なので、関西の川柳については田辺聖子が岸本水府のことを述べているのと、時実新子が取り上げられているだけである。あとは古川柳とかサラリーマン川柳。もう少し現代川柳についてのページがあったら買ったのに。
東日本大震災から一年が経過して、諸誌には震災をめぐる言説が掲載されている。「現代詩手帖」3月号に佐々木幹郎が「未来からの記憶」を書いているが、これは昨年11月に神戸で開催された「現代詩セミナーin神戸2011」の講演を再構成したものである。

さて、3月11日に仙台で「故大友逸星・故添田星人追悼句会」が開催された。たまたま震災一年目の日と重なったが、逸星は昨年4月16日に86歳で、星人は昨年10月27日に81歳で亡くなっている。この二人の巨星については本ブログ(2011年5月20日・2012年1月20日)にそれぞれ書いている。
私は前日から仙台入りし、仙台空港からJR空港線で仙台駅に向かった。空港も駅も被害にあったが、すでに復旧している。ただ、空港の向こうに残存する立木を見ると一年前にテレビの映像で見た情景がよみがえってくる。
11日の追悼句会は黙祷ではじまった。山河舞句により開会の言葉があり、逸星さん・星人さんの写真の前に花が飾られ、献杯をする。二人ともお酒がすきで、星人さんは酒のつまみとして自宅で育てていたミョウガにもときどきビールをやっていたという。

宿題「星」(本村靖弘・中西ひろ美共選)
「低い」(野沢省悟・樋口由紀子共選)
「脱ぐ」(加藤久子・佐藤岳俊共選)

席題は「二個の松ぼっくり」を見てのイメージ吟である。見事に大きな松ぼっくりで、逸星・星人を自然に連想させる。入選作品はいずれ「杜人」誌に発表されることだろう。
席題以外は事前投句で、選も事前に終っている。会場では食事をとりながら披講を聞くことになった。追悼句会ならではのことである。
あと、会の終わりごろに穴埋め川柳(逸星・星人のそれぞれ15句の穴埋め)と前句付があった。前句付は「にんげんがややおもしろくなってきた」(逸星)の前句に七七の短句をつけるもの。むさしと松永千秋が選をした。
広瀬ちえみの「お礼のことば」があり、会は午後四時ごろに終了した。出席者名簿には44名の参加者の名があるが、それ以外にも参加された方があり、もう少し多かったようだ。欠席投句者は28名。

当日、大友逸星遺句集「逸」、添田星人遺句集「天空」をいただいたので、以下に紹介する。どちらも広瀬ちえみの編集。
まず、「逸」から。序文は山川舞句「衰えを知らぬ川柳細胞」。

せんべいを箱ごとつぶす花ふぶき   逸星
咲いている寒いと一言つぶやいて
骨折の訳は言えない笑うから
葬儀屋が来て台風に目を入れる
どんぶりが嫌と言わないから入れる
うっかりと握り返してしまったが
バス停をずらす誰も居ないので

2009年6月、「川柳人生60年大友逸星・川柳人生50年高田寄生木記念句会」が川柳触光舎主催で行われ、野沢省悟編の『記念句集』が配られた。広瀬ちえみは他選の句集がもっとあってもいいと思い、この句集の編集をはじめたという。逸星も喜んで題字を書いたりしたが、生前には間に合わなかった。158句収録。ここには編者が一読者として純粋におもしろいと思う作品が集められている。広瀬は次のように書いている。
「逸星には逸星の独特な型があると思った。これが存外強固である。その型に俗、人間愛、生と性と死、社会風刺を、そしてやさしさと毒を流し込む。型がはずされると同時に生まれるのが逸星川柳だ。それは職人技と言っても過言ではない。大胆な発想と繊細な人間観察を駆使した逸星の作品を拝借して、私は私の空想の世界を楽しんだ。心なしかやさしい句集になったような気がする。逸星さんには『僕の句集ではないようだな』と笑われそうだ」

アメリカのパンツを穿いて動けない  逸星
真珠湾までテープを巻き戻す
股間から憲法九条そそり立つ
この国はよく洗濯をする家だ
戦争と地震のどちらかに○を

逸星はこういう時事句・社会批判も巧みであった。
句集の最後には「辞世の句」が掲載されている。

川柳の尻尾に掴まりながらどぼん   逸星

続いて星人句集「天空」である。

天空の運河ときめく初明り      星人
金魚から人が生まれて笑い出す
青鷺の風生む前の身づくろい
投げ込み寺に春を投げ込む
ろくろから自分自身が立ち上がる
りんご齧ると霧がこぼれる
悪童がたくさん熟れるあんずの樹

この句集には星人自筆の色紙16句を含む95句が収録されている。星人には『川柳作家全集 添田星人』(新葉館)があるが、その後、星人は周囲の勧めもあって自筆句集を出そうとしていたようだ。遺品には200枚近くの自筆の色紙があり、追悼句会の会場にも展示されていた。
上掲の句に七七句(十四字・短句)が見られるのは彼が連句にも造詣が深かったことを示している。
平成23年10月1日「杜人句会」最後の作品から。

つまらないギャグだな鼻毛だけ伸びる  星人

都築裕孝は句集の序文で、星人が愛してやまなかったものが金魚と夫人であることを述べ、次のように言う。「目の不自由な彼女に夫の星人は『お前の目になってやる』と言っていたという」こういう言葉はなかなか言えるものではない。

「杜人」には逸星・星人の薫陶を受けた個性的な同人たちが集っている。東北・仙台にあってこれからもユニークな川柳発信を続けてゆくことだろう。

2012年3月9日金曜日

墨作二郎と点鐘散歩会

「船団」92号(3月1日発行)は「俳句と動詞」という特集を組んでいる。何となく俳句は名詞と親和的であり、川柳は動詞と親和的であると思っていたが、そう単純なものでもないようだ。動詞は他の単語と結びついて使われるから動詞本体が隠れることもある(動詞を隠す)ことなど指摘されていて興味深い。
さて、芳賀博子は「船団」に「今日の川柳」を連載しているが、本号では「散歩会」について紹介している。芳賀は次のように書いている。

〈 通称「散歩会」で親しまれる「点鐘散歩会」は、大阪在住の川柳作家・墨作二郎の主宰する「現代川柳・点鐘の会」が毎月催す吟行である。特色は誰でも当日参加OK、そして出句無制限であること。吟行先にもよるが、移動や昼食タイムを除けば二時間ほどでツワモノは六十句、七十句、調子が良ければ百句近くも詠むという。
さらに作句が終われば即、清記、互選。今回の投句も六百を超えたが、選べるのは通常通りのたった十句。この厳選もまた特徴のひとつで、参加人数によっては総数千句にのぼる場合もあるらしい。とにかくこの散歩会、のんびりほがらかな名称とは裏腹に、限界まで読み尽くし読み尽くし選び尽くす、ほとんど川柳の荒行なのである。 〉

川柳にも吟行があるのかと思われる向きもあろう。川柳は句会・大会を主とするから、外へ出て川柳を作るというのは珍しい。点鐘散歩会は平成8年3月にスタートし、今年2月現在で185回を数える。その目的はどういうところにあるのだろうか。散歩会の記録は二冊の冊子にまとめられていて、平成20年4月に発行された二冊目の冊子に、墨作二郎はこんなふうに書いている。

〈 散歩会の考え方は当初と変わりなく「外へ出て書く川柳」で、直接自然の変化や世情の流行や変幻を体感することで、知識の内容を吸収して、今に欠けている川柳のこれからを見出したいのである。芭蕉は旅を通して風雅の心を養い、自己の芸術をより高める方便としている。このことに学んで正岡子規は俳句に写生を提唱し、碧梧桐・虚子らに継承されている。実作の一方法として吟行があるが、これは外へ出て、自然の景物に接し、目の前の景を見て作句する「嘱目」が基本である。 〉

川柳の句会・大会では「題」が出る。句会まわりを続けてゆくと、似たり寄ったりの題が出ることもしばしばである。題(言葉)を前にして机の上で句を作っているだけでは煮詰まってくるのだ。作二郎は俳句の吟行にヒントを得て、「外へ出て書く川柳」を提唱する。それは「類想・類句を絶つ方法」でもある。
芳賀博子は何度か散歩会に参加しているが、このレポートのときは万博記念公園の国立民族学博物館に行ったようだ(第182回、2011年11月)。「点鐘じゃあなる」という句会報が発行されていて、私も手元にもっている。参加者20名。当日は特別展示「アイヌのくらし」展があった。雰囲気を感じていただくために、句会報から何句か紹介する。

遠く遠く誰のものでもないカヌー    北村幸子
体温になるまで仮面はずせない     笠嶋恵美子
不安だった鳥のかたちになるまでは   峯裕見子
人間の匂いを壺に入れておく      本多洋子
うつくしきもののひとつに豆の種    八上桐子
タクシーも来んしラクダにしませんか  芳賀博子
海を拝んだ空を拝んだそんな顔     徳永政二
少し余白があってアイヌの叙情詩は   墨作二郎

嘱目といっても、俳句の写生とは少し違う。対象であるものそのものに向かうというより、ものに触発された内面感情の方をつかみ出そうとしている。
参加者の中にも、「散歩会という方法をとっているのだから、その日その場の句でなければならない」と厳密に考える人と、「嘱目は句作のきっかけであればよく、極端に言えばその場に無いものを詠んでもよい」と考える人もいる。作二郎はその両極を受け入れているようだ。

点鐘散歩会については「五七五定型」4号(2010年4月)に野口裕が「句会探訪記」を書いている。このときはサントリー・ミュージアムの「クリムト・シーレ ウイーン世紀末展」に行ったのだった。野口は次のように言う。

〈 私自身いわゆる吟行、集団で何かを見て五七五を書く経験はほとんどない。問題は「集団で」というところにある。一人で書く習慣に馴染んでいるので、ことさら吟行に出かけなくても、日常生活の中でふっと一人になる瞬間があれば、五七五はやってくる。しかし、同じ五七五を書く人間がそばにいて、同じものを見ている、と思うだけでどうも書きにくい。 〉

作句仲間がいる方が句ができることもあれば、集団では句ができない場合もある。作句方法も個性や習慣に左右されるのだろう。
前掲の『点鐘散歩会』の冊子で徳永政二は「なにもかも忘れて風景と一つになって書くということは、こだわりのある自分より、より大きなものを書くことになる」と述べている。「なりきって書くということには、自分というものが消える心地よさと、なんともいえないさわやかな解放感がある。そして、向こうからやってくる言葉との出会いがあれば、なおさらのよろこびである」(「散歩会を思う」)こういう徳永の感覚は俳句の「写生」の感覚に近いのかも知れない。

「点鐘の会」では散歩会とは別に句会も開いているし、隔月発行の「点鐘」に会員作品が掲載されている。それらの作品をまとめて、毎年、『点鐘雑唱』という句集が発行されている。その2011年版から紹介する。

鈴成りの首の一つが笑ったよ        石川重尾
胎内回帰はじまる 皆既月食        笠嶋恵美子
大阪の水に切手が貼ってある        阪本高士
信長の姪ですという彼岸花         畑山美幸
天部のどなた一弦を掻き鳴らす       平賀胤壽
ここに蝉丸春の吊り橋           本多洋子
繋がりを言えばロバのパン屋も木の椅子も  前田芙巳代
黒猫が喉を見せてる落石注意        森田律子
象追って足の裏まで乾くのよ        吉岡とみえ
我らすでにうそ寒族と呼ばれんか      渡辺隆夫
なつかしい敵なつかしい死亡記事      墨作二郎

2012年3月2日金曜日

神戸文学館の三條東洋樹展

川柳人をテーマに展覧会が開催されることは珍しいが、いま神戸文学館で「川柳作家・三條東洋樹展」が開催されている。
神戸文学館は神戸市の王子動物公園の西隣にある。明治37年(1904)に建てられた関西学院大学のチャペルを改装した赤レンガ造りの由緒ある建物である。平成18年12月に文学館としてリニューアル開館し、島尾敏雄・竹中郁・久坂葉子・陳瞬臣など神戸ゆかりの文学者の展示を行っている。講演会もしばしば開かれている。
さて、三條東洋樹(さんじょう・とよき)は神戸に本社がある「時の川柳社」の創始者である。ポスターには次の句が代表作として掲載されている。開催期間は1月14日(土)~3月4日(日)。水曜日休館・入場料無料。

ひとすじの春は障子の破れから   東洋樹

私はこの展覧会をまだ見ていないので、本来は見てから報告すべきであるが、もうすぐ会期が終了してしまうので、今回取り上げることにさせていただく。幸い神戸文学館のホームページに展覧会のポスターが掲載されており、そこには次のように紹介されている。

兵庫県立神戸商業学校2年生・15歳の時に、川柳をはじめた三條東洋樹。「峰月」から「東洋鬼」へ、そして「東洋樹」へと雅号を改名しましたが、格調ある洗練された作句を目指す姿勢は、最後まで変わりませんでした。
また大正10年代に小柳誌「覆面」を、昭和4年に椙元紋太らと「ふあうすと」を、同32年には「時の川柳」を発刊、そして同42年には「東洋樹川柳賞」を創設、「平易簡明、十七字音、批判精神」を作句の三条件に掲げ、川柳の質的向上につとめました。
彼の原点は、病床で詠んだ句「ひとすじの春」にあります。障子の破れ目からこぼれてくるひとすじの明るい陽射し、明日への希望はそこから湧いてくる―、十七音に希望を託すがゆえに、「カミソリ東洋樹」との異名を得るほどに鋭い社会風刺の作風にもなった東洋樹の作品の数々と、その生涯を紹介します。

「ひとすじの春」とは前掲の「ひとすじの春は障子の破れから」という句を指している。この句がそんなに良いかどうかはひとまず保留するとして、展示内容は次のようになっている。

県商時代の投稿雑誌、東洋鬼時代からの短冊や色紙、小説や講演会用などの自筆原稿、    時計・ポケットチーフ、手帳といった身の回りの小物、「ひとすじの春」(昭和15年発行)をはじめとする自著、句詩「時の川柳」(創刊号~)「昭和川柳百人一句」などの雑誌、冊子や豆本、妻・愛子(雅号・柚香女)の色紙、短冊など。

第一句集『ひとすじの春』、第二句集『ほんとうの私』があるが、私が持っているのは構造社版の川柳全集・第14巻『三條東洋樹』である。私が推薦するのは次の10句。

やましなと二度読み返すひとり旅
灯を消した夫婦で息を盗み合う
さくら百句つくらぬうちに桜散る
薔薇崩れ落ちるが如く女脱ぐ
ズボンはく男の顔はすでにエゴ
かみそりと言われた人の水枕
随筆を書けば学者も人くさし
こがれ死にした人もある墓地の風
意地悪がむらむらと出るアンケート
二番手の馬の心にあるゆとり

「時の川柳」の誌名について、東洋樹は次のように述べている。

「時の川柳の『時』とは現代という意味であって、過去の川柳でも未来の川柳でもなく、今日生きている我々の生命を宿した川柳である。これを作品の傾向から言えば、過去の陳腐なものを捨て、未来派的な難解独善をおましめ、あくまでも現代を生かした大道を歩もうとする意欲の象徴である」

即ち、東洋樹の批判するのは「過去」と「未来」。「過去」とは古川柳の模倣にすぎない作品。未来とは詩性川柳である。この点で、私は東洋樹の川柳観には違和感をもつ。たとえば、次のような文章である。

「近頃、川柳界に詩性を説く声が高まっており、それはそれなりに結構なことであるが、詩性を川柳の本質と誤認してはいけない」「詩性を過信して、現代詩の一部分のような作品や、短詩と何ら区別のつけられぬ一行詩を、新しい川柳として迎え入れている人々は、川柳の本質と詩性を混同しているのではなかろうか」「川柳は歌俳に対して挑戦した文学である。詩性だけでは、歌俳に対して挑戦の資格はない」

そのような川柳観とは別に、東洋樹の作品で私が気になっているのは次の句である。

自殺したろうかと思い淫売街の月と歩く   東洋樹

東洋樹は「川柳は文学か」という文章の中で、自分の作品を3期に分けて説明している。

A期
笑うにも泣くにも袖口へ当て
自転車の稽古大波小波なり

B期
自殺したろうかと思い淫売街の月と歩く
薄の穂われ放浪の旅なれば

C期
ひとすじの春は障子の破れから
子と暮らす月日の中を春惜しむ

A期は川柳を始めた時期で、古川柳の模倣期であり、見るもの聞くものが十七字に置き替わるのが楽しくてならない時期である。
B期は、模倣は恥ずかしい、類想は嫌だと、川柳の三要素に拘束されぬ「詩」を作りたい意欲に燃えた時期である。
C期は「自分は文学をやっている」という自負を持ちつつ、自己と社会をよくしようと願っている時期である。
川柳における序破急を述べたものだろうが、B期を自己否定することによってC期の作品をよしとするのであれば、それがよいとも言い切れぬものを私は感じる。東洋樹の作品にいまも評価できるところがあるとすれば、彼がB期を通過しているからにほかならない。同じ「川柳は文学か」という文章で、東洋樹は「これからの川柳に私が望むものは『人間陶冶の詩』を心底に抱いた、平易な言葉の奥の深いもの―」と述べている。「人間陶冶の詩」?―それは麻生路郎の言葉ではないか。東洋樹と路郎との親近性について、たとえば橘高薫風のこんな文章がある。

「三条東洋樹の川柳生活を顧みて、麻生路郎と相通じるものがあるように思うのは、私だけではあるまい。路郎が番傘の前身である短詩社に属していながら、後に袂を分かち、『川柳雑誌』を創刊したのと同じに、東洋樹は、ふあうすと川柳社から独立して『時の川柳』を主宰した」「路郎が東洋樹に親近感を持ち、東洋樹が路郎の川柳生活に共鳴したであろうことは、容易に想像出来ることだ」(「時の川柳」324「報恩」)

東洋樹の卒業した兵庫県立神戸商業の同級生に鈴木九葉という人がいる。九葉は「三條東洋樹さんへの注文」で次のように書いている。「柳界に於ける地位が高まるにつれて、指導者意識の影響で健実な作句態度に終始し、石橋を叩いて渡る人になったのは人間の常だとはいえ、大切なものを失ってしまったようで、惜しまれてならない」(東野大八『川柳の群像』による)―東洋樹は自己に対する川柳眼をもっていた人であった。次の句はそのことを端的にあらわしている。

ズボンはく男の顔はすでにエゴ    東洋樹

2012年2月24日金曜日

鶴川さんは国際連句の夢を見るか

ベースを共有しながら他者と出会うということが文芸にとって有効であり、刺激的なことでもあろう。そのような他者として、例えば川柳にとっての俳句とか、俳句にとっての短歌とかいう日本文学内部のジャンルが考えられるが、外国語・外国文学との出会いも忘れてはならないことだろう。俳句なら俳句という固有のジャンルが世界文学のなかでどのような普遍性をもっているかが問われるからである。
「現代詩手帖」2月号の特集は「トーマス・トランストロンメルの世界」で、昨年ノーベル文学賞を受賞したスウェーデンの詩人を取り上げている。この詩人は「俳句詩」の書き手としてもよく知られている。

送電線
厳寒の王国の上にのび
あらゆる調べの北にあり

彼の詩集『悲しみのゴンドラ』(思潮社)の増補版もいま書店の店頭に並んでいる。
さて、連句の世界にも国際連句の動きがあって、昨年10月に開催された「国民文化祭・京都」では国際連句の座が2座設けられた。
次に紹介するのは鈴木了斎・捌きの座で巻かれた作品である(『第26回国民文化祭・京都2011連句の祭典・作品集』による)。

the begger
stretches out his hand
among golden leaves / Kai FALKMAN

夜露を集め流れゆく川     鈴木了斎

阿舎の月影多に溢るらん     平林柳下

 In front of the alcove
I place a silk cushion / Allen LEVINS

シャム猫に狂四郎てふ名を付けて   星野焱

 老鶯がふいに鳴き出し       浅賀丁那

ここでは英語で作句する連衆2人、日本語で作句する連衆が4人、計6人で「十二調」という形式で連句を巻いている。掲出したのはその前半部分。カイ・ファルクマンはスウェーデン俳句協会の会長である。ノーベル賞設立110周年を記念して、東京のスウェーデン大使館内に「アルフレッド・ノーベル記念講堂」が作られたそうで、カイはそこでトランストロンメルの俳句について講演するために来日したということだ。「現代詩手帖」の特集にも彼は寄稿している(後述)。ここではスウェーデン語ではなく、英語で作句している。
アレン・ルヴァインズはアメリカから参加。国民文化祭・前夜祭のアトラクションで連句をベースとするパフォーマンスにピアニストとして出演した。連句・俳句の創作もする人である。
当日はもう1座、連句の座が設けられ、こちらの方は日本語・中国語・英語・スペイン語の四カ国連句である。

ケルアックの墓で句を読み麦酒飲み
 昼下がりまで三線を抱く
凪を待つ海をへだてる恋心
 青春枯れて元情人の夢
胃を切って癌と生きるも与話情
 今日は神社に明日はお寺に

Jack Kerouac’s gravesite /reading his haikus /we all drink beer
  holding a Sanshin /until aftarnoon
waiting for the calm /the loving hearts/separated by the sea
young spirits weither away /dreams of last laver
stmach cut/living with cancer/Worldly Empathy
today at the shrine/tomorrow at the temple

凱羅阿克墓前立、辺念俳句喝啤酒
 猶抱三弦響午後
且待風平浪静時、隔海相望恋人心
 春光漸老離人夢
胃癌切除後、共生「与話情」
 今住神社明宿寺

スペイン語版は省略するが、オリジナルの四カ国版で示すと次のようになる。

Jack Kerouac’s gravesite /reading his haikus /we all drink beer ラファエル・デグルトラ
昼下がりまで三線を抱く 井尻香代子
凪を待つ海をへだてる恋心     近藤蕉肝
春光漸老離人夢          鄭民欽
胃を切って癌と生きるも与話情   竹内茂翁
Hoy el hotel es templo. / Manana hotel templo.   アウレリオ・アシアイン

スペイン語のマニャーナという単語はパソコンではうまく出ないが、了解されたい。連衆のうちラファエルはボストンから(ボストン俳句協会会長)、鄭民欽は北京から参加(北京工業大学教授)。アウレリオは京都在住のメキシコ人である(関西外国語大学教授)。オクタビオ・パスの国際連句は比較的知られているが、アウレリオはパスの主宰していた雑誌の編集長をしていた人。
ラファエルの付句に出てくるジャック・ケルアックはビート・ジェネレーションの作家で、『路上』は日本でもよく読まれている。彼は俳句や禅にも関心をもっていた。
捌き手の近藤蕉肝は前掲の「現代詩手帖」の特集のうちカイ・ファルクマン「日本のトランストロンメル」を訳している。カイは次のように書いている。

〈 彼のノーベル賞受賞理由に俳句が含まれていないのは何故かという質問に答えるために、私は選考委員会の「『徐々に小さくなる形式と徐々に深まっていく集中度』へ限りなく近づいて行く傾向がある」という表現を引用した。しかしこれは彼の俳句以外の詩にも当てはまることだ。 〉

R・Hブライスの『世界の風刺詩川柳』以来、川柳も英訳されているが、国際川柳という話はあまり聞かない。かつて近藤蕉肝に「外国語に訳された場合でも失われることがない川柳のエッセンスは何ですか」と問われたことがある。答えにくい問いではあるが、あえて答えるとすれば、批評性とかアイロニーということになるだろう。日本語によって成立している詩形が他の言語と出会い、世界文学のレベルで問い直されるとき、失われるものと残るものとがある。そのとき残るものだけがエッセンスだとも言い切れないと私は思うが、それにしても川柳のエッセンスとは何だろう。

*トランストロンメルのトランはスウェーデン語で鶴、ストロンメルは小川、流れという意味らしい。即ち、鶴川さんである。

2012年2月17日金曜日

石部明は終らない―読みの諸相

今回は1・2月に送っていただいた川柳誌の中から3誌を紹介する。川柳の世界に大きな変化が見られるわけではないが、それぞれのグループが来るべき新しい波を予感しながら胎動をはじめている気配が感じられる。

まず「BSおかやま句会―Field」21号。
「BSおかやま句会」は従来から活動していたが、昨年終刊した「バックストローク」のあとを受けて会誌を充実・刷新し、隔月刊として再スタートするようだ。
石部明の巻頭言に次のようにある。
「『BSおかやま句会』は隔月開催である。その句会報を、21号をもって『BSおかやま句会―Field』とし、誌の体裁と内容の刷新を図ることにした。会員制によって、隔月句会をさらに活性化し、作品発表の場と、作品批評、評論にも力を注ぎ、特に『読み』に重点を置いている本句会の考えを誌面にも反映させていきたい」
会員作品をいくつか紹介する。

傾けた本から滴り落ちる湖      悠とし子
胃の奥の金環食を弄ぶ        滋野さち
空き部屋へ時どき猫と灯をともす   江尻容子
まぼろしのくせにきわどいことを言う きりのきりこ
あらぬこと思って壺を覗き込む    松原典子
白くなり賢くなりもう捨てられる   柴田夕起子
現像液ぼんやり浮いてきたあなた   草地豊子
ハト時計わが家の王位継承権     前田一石
星のかけらか馬小屋の戸がきしむ   石部明

「読み」に重点を置き、誌面に反映させたい、と石部明は言う。その具体的実践として、石部は「作品を読む」を掲載している。たとえば、悠とし子の「傾けた…」の句について、石部はこんなふうに書いている。

「ことばには、日常あり得ない光景を可能にし、世界を表出させる便利さ、自由さがある。たとえば『傾けた』は湖が『滴り落ちる』ための仕掛けになる。『本から滴り落ちる湖』はあり得ない光景だが、あるはずのないものが不意に現れるシュールレアリズムの迫力とか衝撃とは少し違う。悠とし子の、本を読みながらまどろみの世界へしずんでゆくような心地よさが、日常と地続きの『滴り落ちる湖』なのだろう」

このような調子で石部は会員作品の読みを続けてゆく。7ページに渡るその手つきは自在であり、「バックストローク」の「ウインドノーツ」評を書いていたときより、心もち生き生きとしているようだ。
本誌に参加している会員の受け止め方を代表して、草地豊子が「一両のディーゼル車」という文章を書いている。
「『バックストローク』は昨年11月25日36号を後に銀河鉄道の向こうに消えた。そして、一両だけの車両が残された。『BSおかやま句会』である。30人足らずの仲間たちだ。誰も閉じようとは言わなかった。『BSおかやま―Field』とちょっとおめかしをした。自動ドアから新しい仲間が乗り込んで下さった。不安を乗せつつ、年6回『誌』を出す運びとなった」
4月14日(土)には「Field」の主催で「第5回BSおかやま川柳大会」が開催されることになっている。

高知から発行されている「川柳木馬」131号。
巻頭言で清水かおりは創刊以来の木馬作品を振り返っている。

多情狸は花の言葉を聴き洩らす    海地大破  (1979年)
多情狸の深い吐息は落丁で      海地大破
切り株のひとつに悔を残す斧     北村泰章
はらわたのように運河も飢えている  古谷恭一

骨のない魚影巷を漂えり       西川富恵  (1989年)
ふがいない男でござる蟹の泡     古谷恭一

包帯を解いて迷宮入り決まる     西川富恵 (1999年)
蚯蚓腫れした肉塊を呉れてやる    古谷恭一

そして、清水は昭和54年(1979)の句は「個人の価値観を見出そうとする作品」、昭和64年(1989)は「バブル社会の匂い」、1999年は「やや厭世的」と評している。もちろん、これは時代の変遷と同時に作家の年齢変化とも関係があると断ったうえで、清水は「今、私たちは自分が書ける精一杯の作品と格闘するだけなのだ」と述べている。
「川柳木馬」には従来、「作家群像」というコーナーがあったが、本号から「文芸の空」という新企画がスタート。セレクション柳人『松永千秋集』について、小池正博と内田万貴が句集評を書いている。

おとうとが知ってる蝉の誕生日   松永千秋
兄ちゃんは鞍馬天狗を待っている
一族はカバであることひた隠す
すんなりと姉の言葉で返事する
お父さん今も柱の疵ですか

これらの句について、内田はこんなふうに述べている。
「家族、家をテーマにした作品は松永千秋の資質を存分に発揮している。読者にはすでに周りの田園風景や大きな廂の古民家、納屋や土間といったセットが構えられていて、それはぼんやりとした薄暗がりである。一方、人物たちは平明な言葉で描かれている分、いきいきとして、妙に懐かしく、可笑し味もあり、土着の力強さを感じる。山田洋次監督の映画の一コマを見ている感覚だ」
これを機会に、松永千秋の作品が改めて読まれることを期待したい。
あと、「前号句評」のコーナーに、きゅういちが「絵画とイラストと漫画の差ってなんやろ?」という文章を書いている。ただし、このタイトルと句評の中身とは直接関係はない。句評の量は7ページに及んでいる。

青森から発行されている「触光」26号。編集発行人・野沢省悟のインタビューが掲載されている。「川柳は刹那の文学 今の瞬間を描きたい」というのが野沢の川柳観である。野沢はこんなふうに言う。
「言葉が先行している川柳を作っているグループがありますが、川柳はもっと泥臭いものだと思いますね。川柳は今の瞬間を描いていくべきです。川柳は刹那の文学と言って叱られましたが、現在でもその思いは変わっていません。後世に残る句を作ろう、という考えは好きではありませんね」
私は『蕩尽の文芸』で川柳を「蕩尽の文芸」「消える文芸」と述べたことがあるが、野沢の川柳観はそれと一部重なりながら、大きく異なるところがあるように思う。
「触光」は時事川柳にも力を入れていて、「触光的時事川柳」のコーナーを渡辺隆夫が担当している。

ブータンの蝶が置いてく試供品     勝又明城

この句について渡辺は次のように書いている。
「ブータン国王夫妻のさわやかな来日に心洗われた。若い二人が、本当の幸福とは何かを示す試供品のように、蝶のごとく、舞った。本国では、きっと、ブータンシボリアゲハが二人の帰りを待っているだろう」
一方で渡辺は会員作品として次の句を掲載している。

江の島の裸弁天友の会         渡辺隆夫
ニコニコと恵比寿がビール提げてくる
弁天のくねくね踊り最高潮
棒立ちの六福神らほぼ失神
今年も結婚しそうにない弁天

まことに川柳作品も川柳の読みも幅広いものである。

2012年2月10日金曜日

「写生」と「ノイズ」

2月4日(土)に京都私学会館で「愛媛大学写生・写生文研究会」が開催された。
この研究会は愛媛大学教授の佐藤栄作氏が主催し、「役割語」の視点から写生文・写生を研究しようとするものらしい。「役割語」とは金水敏氏が提唱したもので、話者の特定の人物像を想起させる言葉づかいを言うようだ。オネエ言葉やキャラ言語などが含まれるが、これと写生との関係は不明。当日の研究会には俳人・歌人・川柳人などが参加し、活気に満ちたものとなった。

基調報告の竹中宏は個々の写生句ではなくて、その根源にあるものを見すえた報告を行った。竹中は「個々の俳人の具体例を分析していくことにはそれほど興味を感じない、それでは『木を見て森を見ない』ことになってしまう」と述べたあと、波多野爽波の句集『舗道の花』の扉にある「写生の世界は自由闊達の世界である」という言葉を引用した。写生はものを写すのではなくて「自由闊達」な感覚であるということだが、一方で「自由闊達でない俳句」があることが意識されている。逆に言えば「写生でない俳句」では自由闊達は実現できないことになる。「写生でない俳句」(反写生)としてまず思い浮かぶのは、水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」である。人間が自らの意識を自覚的に運用していくという方向とは別に、自己を外の世界に解き放ってゆく感覚を写生派の人々は感じていたのではないかと竹中は言う。
外界は人間の思っているようには動いていない。その外界を閉ざして自閉的な世界を確立することが自由なのかどうかというのが竹中の問題提起である。人間は見たいようにしか外界を見ていない。
また彼は「写生は俳句自体の問題ではなくて、俳句が俳句になる境界のところで生まれる論題」とも述べた。

竹中の基調報告を受けて、パネラーの岩城久治は「写生という言葉がいけなかったのではないか」と述べた。
中田剛は「写生」と「写実」の違いについて述べ、「掴みだしてきたものを言葉で構成する過程があるのではないか」と指摘した。それに対して、竹中は「私が言ったのは創作過程の一歩手前の問題」であり、「写生体験」はそれを現実化していく「言語体験」の中で裏切られてゆくことがあると語った。混沌とした創作体験を語る場合に、「写生体験」と「言語体験」の二段階に分けて説明するのはわかりやすいが、実際には両者は混沌として同時進行するのではないかと思ったりした。
関悦史は竹中の基調報告を受けて、「自分の言いたいことを言おうとするとみんな同じになる。言いたいことを抑圧することによって逆にその作家性が立ち上がってくる」と述べた。
パネラーの実作体験を踏まえた発言はそれぞれ刺激的なものであった。

事前にもらった資料の中で竹中宏は「ノイズ」について書いている(「俳句界」2007年11月号)。
ある合評会で俳人が「すくなくとも、これは写生的といえない。写生には、もっとノイズがふくまれているはずだ」と発言したことに触れて、次のように述べている。

「生きている世界は、無数の生きている事象の巨大な集合であり、事物はそれぞれが生きていることの気配を発散しているのだから、世界はふかいざわめきのもとにある。生きていることのざわめきは、これを今日ふうにいえば、抽象化と数理化の支配にあらがうノイズとして、世界にみちていて、事物から削ぎおとせば、ただの静物だけが残ることになる。写生は、事物を、その内部に包蔵され、表面に滲出し、周囲からそれをくるみこんでいるノイズの網目ごと、そっくりとらえたいのだ」

川柳では「写生」ということはあまり言わない。
もちろん「写生」を唱えた個々の川柳人は存在しており、浅井五葉などの名が思い浮かぶ。

大仏の鐘杉を抜け杉を抜け    五葉

けれども、「写生」の主張が川柳界全体を覆うことはなかったし、論として深められたこともなかった。
もともと、川柳は第三者の立場から社会や人間を風刺するもので、その傍観者性は漱石の「非人情」「余裕派」に通じるところがある。

水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」について言えば、「文芸上の真」の方に共感する川柳人は多いだろう。大多数の川柳は日常的トリヴィアリズムの次元にとどまっているので、そこから抜け出るためには秋桜子の「文芸上の真」は今でも有効なのだ。秋桜子は理想的に構成する世界で、写生とははっきり違う。秋桜子の句集『葛飾』の序に「自己の心を無にして自然に忠実ならんとする態度」「自然を尊びつつも尚お自己の心に愛着をもつ態度」の二つについて、秋桜子は第二の態度をとると述べている。問題は「自己の心」からどのように次に進むかということだろう。

竹中宏の資料として事前に配布された文章に「写生不快」(「青」253号、昭和50年10月号)がある。そこではこんなふうに書かれていた。

「現実にわれわれは、事物や世界のありようについて、あらかじめなんらかの解釈をもったうえで、その既成の解釈の眼鏡をとおして、事物や世界にふれているのだが、写生は、この眼鏡を破砕し、その裂けめから、裸形の存在がつきでる」

その通りだと思われるけれども、川柳の場合は「眼鏡」そのもののおもしろさを生命とするところがある。もちろん常識的解釈という眼鏡はつまらないが、世界に対する独自のものの見方は、レンズが屈折しているからこそ、ユニークな世界を立ち上がらせることがある。いわゆる「川柳眼」である。

当日の竹中宏の発言のひとつに「ことばが『私』の外に半分出てくれるかどうか」というのがあった。竹中は本質的なことしか語らなかったのであり、語りえないものを語ろうとしていた。そのことがとても印象的だった。世界を見る独自の眼をもちながらノイズをもキャッチする方途があるだろうか、そんなことを考えた。

2012年2月3日金曜日

「生きること」と「残ること」―「井泉」1月号から―

今回は短歌誌「井泉」43号(2012年1月)を紹介する。井泉短歌会は名古屋に発行所をおき(編集発行人・竹村紀年子)、春日井建の流れをくむ短歌会である。短詩型の他ジャンルにも好意的で、毎号巻頭の「招待席」には短歌以外に俳句や現代詩などの作品が掲載されている。川柳もときどき招待作品として掲載されるのが注目される。また評論のテーマ設定が興味深く、数号に渡って連続してひとつのテーマを追求し、多彩な論者によってさまざまな角度から論じられている。
「リレー評論」のテーマは昨年、「短歌の『修辞レベルでの武装解除』を考える」だったが、今号から「短歌は生き残ることができるか」に変わった。加藤治郎・彦坂美喜子・山下好美の三人がこのテーマに取り組んでいる。

加藤治郎は伊藤左千夫の「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」を引きながら、短歌は新しい担い手と「場」を獲得してきたから生き残ったと述べている。そして、新聞歌壇から電子・ネット化、ケータイ短歌などへの大きな変化の波に触れながら、「場」の変化とともに作品の変貌は避けられないことを指摘している。

山下好美は短歌を受容する共同体の問題に触れ、世代によって属している共同体が異なることで、お互いの短歌が解らなくなっていると述べている。「結社」「同人誌」「インターネット」「個人誌」などしれぞれの共同体があり、世代の差は共同体を喪失させるほど大きくなっているというのだ。

彦坂美喜子は「生きること」と「残ること」とを区別しながら、こんなふうに述べている。

「短歌が生き残るとは、ただ残るということとは違うのではないか。ただ残るということだけなら、古典のように、伝統的技芸のように残ることはある。しかし、生き残るというとき、短歌は時代の表現として活き活きと時代と拮抗している必要があるだろう。生きるということは、表現の問題であり、残るということはシステムの問題ではないか、ふとそんなことを考えた」

「生きるということ」は表現の問題、「残るということ」はシステムの問題というのは明快な認識である。
川柳の場合でも、川柳は常に時代の新しい表現でなければならないとはよく聞かれる言葉である。ただ、その新しさというものが、流行の言葉や時事的な話題をいち早く句に取り入れるという表層的なレベルにとどまっていることが多く、時代と切り結ぶような本質的な新しさにはめったにお目にかかれない。
システムの問題については、句会システム・新聞柳壇システム・大会システムがそれなりに確立していて、大会動員数も多い。けれども、若い世代の川柳人が一握りしか存在しないので、世代の差による共同体の差というようなものはない。古い共同体が残存するだけで、そのような共同体が高齢化によって崩壊するのは時間の問題だろう。ネット川柳とかケータイ川柳という話も聞かないから、「場」の変質についてもよその話のようだ。歌人の小高賢は高齢者短歌の可能性について、老齢によって短歌作品が訳のわからぬおもしろさに至るケースがあることを指摘しているが、川柳の場合も高齢者川柳の可能性に期待するしかないのかも知れない。
川柳人にとってシステムの問題はけっこう重要なものである。従来の句会システムだけではたぶん川柳はもたない。句集・アンソロジー・批評という他ジャンルでは当然行われているシステムを整備することが必要であり、表現に専念するだけで事足りるというものでもない。
ところで、「表現」の問題について、彦坂は次のように書いている。

「私が考える『短歌が生きる』ということは、作品自体に相反するものを同時に抱え込んでいること。例えば、一般的な価値観と、それを越えようとするものを同時に内包している作品。意味でありながら、同時にノイズでもあることを意図している作品。表現自体が肯定と否定を内在させながら絶えず動いているもの。消費されることを求めながら消費されることを拒むところを持つもの。このような矛盾を抱え持つ表現が、多分今を生きるということと繋がっているのではないか。時代のなかで絶えず自己矛盾にむきあい表現を求めて動き続けているとき、短歌は生きていると言えるように思う」

このような作品を実現するのは至難の業だろうが、特に川柳では難しい。
一般的な価値観にアンチを唱えることは川柳の得意とするところだが、一般的な価値観とその超克を同時に含むことは難しい。消費―非消費についても、「消費」が商品化のことを言うならば、川柳作品にはそもそも市場価値はないのである。
けれども、彦坂のいう「意味でありながらノイズでもある作品」には心ひかれる。それは一句のなかに計算されたノイズを取り入れるということではないだろう。まだ見ぬ川柳の書き手が現れるまで、なお時間がかかりそうだ。

「井泉」の連載で楽しみにしているのは、喜多昭夫の「ガールズ・ポエトリーの現在」である。前号では雪舟えまの歌集『たんぽるぽる』が取り上げられ、今号では御中虫の句集『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』が俎上に上っている。

悪いけど枯芝のやうなをんなぢゃない  御中虫
炎天下処女の倒立すぐかわく
乳房ややさわられながら豆餅食う
きらわれてアイスモナカに依存する
話すでもなく裸になるでもなく