2012年2月17日金曜日

石部明は終らない―読みの諸相

今回は1・2月に送っていただいた川柳誌の中から3誌を紹介する。川柳の世界に大きな変化が見られるわけではないが、それぞれのグループが来るべき新しい波を予感しながら胎動をはじめている気配が感じられる。

まず「BSおかやま句会―Field」21号。
「BSおかやま句会」は従来から活動していたが、昨年終刊した「バックストローク」のあとを受けて会誌を充実・刷新し、隔月刊として再スタートするようだ。
石部明の巻頭言に次のようにある。
「『BSおかやま句会』は隔月開催である。その句会報を、21号をもって『BSおかやま句会―Field』とし、誌の体裁と内容の刷新を図ることにした。会員制によって、隔月句会をさらに活性化し、作品発表の場と、作品批評、評論にも力を注ぎ、特に『読み』に重点を置いている本句会の考えを誌面にも反映させていきたい」
会員作品をいくつか紹介する。

傾けた本から滴り落ちる湖      悠とし子
胃の奥の金環食を弄ぶ        滋野さち
空き部屋へ時どき猫と灯をともす   江尻容子
まぼろしのくせにきわどいことを言う きりのきりこ
あらぬこと思って壺を覗き込む    松原典子
白くなり賢くなりもう捨てられる   柴田夕起子
現像液ぼんやり浮いてきたあなた   草地豊子
ハト時計わが家の王位継承権     前田一石
星のかけらか馬小屋の戸がきしむ   石部明

「読み」に重点を置き、誌面に反映させたい、と石部明は言う。その具体的実践として、石部は「作品を読む」を掲載している。たとえば、悠とし子の「傾けた…」の句について、石部はこんなふうに書いている。

「ことばには、日常あり得ない光景を可能にし、世界を表出させる便利さ、自由さがある。たとえば『傾けた』は湖が『滴り落ちる』ための仕掛けになる。『本から滴り落ちる湖』はあり得ない光景だが、あるはずのないものが不意に現れるシュールレアリズムの迫力とか衝撃とは少し違う。悠とし子の、本を読みながらまどろみの世界へしずんでゆくような心地よさが、日常と地続きの『滴り落ちる湖』なのだろう」

このような調子で石部は会員作品の読みを続けてゆく。7ページに渡るその手つきは自在であり、「バックストローク」の「ウインドノーツ」評を書いていたときより、心もち生き生きとしているようだ。
本誌に参加している会員の受け止め方を代表して、草地豊子が「一両のディーゼル車」という文章を書いている。
「『バックストローク』は昨年11月25日36号を後に銀河鉄道の向こうに消えた。そして、一両だけの車両が残された。『BSおかやま句会』である。30人足らずの仲間たちだ。誰も閉じようとは言わなかった。『BSおかやま―Field』とちょっとおめかしをした。自動ドアから新しい仲間が乗り込んで下さった。不安を乗せつつ、年6回『誌』を出す運びとなった」
4月14日(土)には「Field」の主催で「第5回BSおかやま川柳大会」が開催されることになっている。

高知から発行されている「川柳木馬」131号。
巻頭言で清水かおりは創刊以来の木馬作品を振り返っている。

多情狸は花の言葉を聴き洩らす    海地大破  (1979年)
多情狸の深い吐息は落丁で      海地大破
切り株のひとつに悔を残す斧     北村泰章
はらわたのように運河も飢えている  古谷恭一

骨のない魚影巷を漂えり       西川富恵  (1989年)
ふがいない男でござる蟹の泡     古谷恭一

包帯を解いて迷宮入り決まる     西川富恵 (1999年)
蚯蚓腫れした肉塊を呉れてやる    古谷恭一

そして、清水は昭和54年(1979)の句は「個人の価値観を見出そうとする作品」、昭和64年(1989)は「バブル社会の匂い」、1999年は「やや厭世的」と評している。もちろん、これは時代の変遷と同時に作家の年齢変化とも関係があると断ったうえで、清水は「今、私たちは自分が書ける精一杯の作品と格闘するだけなのだ」と述べている。
「川柳木馬」には従来、「作家群像」というコーナーがあったが、本号から「文芸の空」という新企画がスタート。セレクション柳人『松永千秋集』について、小池正博と内田万貴が句集評を書いている。

おとうとが知ってる蝉の誕生日   松永千秋
兄ちゃんは鞍馬天狗を待っている
一族はカバであることひた隠す
すんなりと姉の言葉で返事する
お父さん今も柱の疵ですか

これらの句について、内田はこんなふうに述べている。
「家族、家をテーマにした作品は松永千秋の資質を存分に発揮している。読者にはすでに周りの田園風景や大きな廂の古民家、納屋や土間といったセットが構えられていて、それはぼんやりとした薄暗がりである。一方、人物たちは平明な言葉で描かれている分、いきいきとして、妙に懐かしく、可笑し味もあり、土着の力強さを感じる。山田洋次監督の映画の一コマを見ている感覚だ」
これを機会に、松永千秋の作品が改めて読まれることを期待したい。
あと、「前号句評」のコーナーに、きゅういちが「絵画とイラストと漫画の差ってなんやろ?」という文章を書いている。ただし、このタイトルと句評の中身とは直接関係はない。句評の量は7ページに及んでいる。

青森から発行されている「触光」26号。編集発行人・野沢省悟のインタビューが掲載されている。「川柳は刹那の文学 今の瞬間を描きたい」というのが野沢の川柳観である。野沢はこんなふうに言う。
「言葉が先行している川柳を作っているグループがありますが、川柳はもっと泥臭いものだと思いますね。川柳は今の瞬間を描いていくべきです。川柳は刹那の文学と言って叱られましたが、現在でもその思いは変わっていません。後世に残る句を作ろう、という考えは好きではありませんね」
私は『蕩尽の文芸』で川柳を「蕩尽の文芸」「消える文芸」と述べたことがあるが、野沢の川柳観はそれと一部重なりながら、大きく異なるところがあるように思う。
「触光」は時事川柳にも力を入れていて、「触光的時事川柳」のコーナーを渡辺隆夫が担当している。

ブータンの蝶が置いてく試供品     勝又明城

この句について渡辺は次のように書いている。
「ブータン国王夫妻のさわやかな来日に心洗われた。若い二人が、本当の幸福とは何かを示す試供品のように、蝶のごとく、舞った。本国では、きっと、ブータンシボリアゲハが二人の帰りを待っているだろう」
一方で渡辺は会員作品として次の句を掲載している。

江の島の裸弁天友の会         渡辺隆夫
ニコニコと恵比寿がビール提げてくる
弁天のくねくね踊り最高潮
棒立ちの六福神らほぼ失神
今年も結婚しそうにない弁天

まことに川柳作品も川柳の読みも幅広いものである。

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