2012年3月2日金曜日

神戸文学館の三條東洋樹展

川柳人をテーマに展覧会が開催されることは珍しいが、いま神戸文学館で「川柳作家・三條東洋樹展」が開催されている。
神戸文学館は神戸市の王子動物公園の西隣にある。明治37年(1904)に建てられた関西学院大学のチャペルを改装した赤レンガ造りの由緒ある建物である。平成18年12月に文学館としてリニューアル開館し、島尾敏雄・竹中郁・久坂葉子・陳瞬臣など神戸ゆかりの文学者の展示を行っている。講演会もしばしば開かれている。
さて、三條東洋樹(さんじょう・とよき)は神戸に本社がある「時の川柳社」の創始者である。ポスターには次の句が代表作として掲載されている。開催期間は1月14日(土)~3月4日(日)。水曜日休館・入場料無料。

ひとすじの春は障子の破れから   東洋樹

私はこの展覧会をまだ見ていないので、本来は見てから報告すべきであるが、もうすぐ会期が終了してしまうので、今回取り上げることにさせていただく。幸い神戸文学館のホームページに展覧会のポスターが掲載されており、そこには次のように紹介されている。

兵庫県立神戸商業学校2年生・15歳の時に、川柳をはじめた三條東洋樹。「峰月」から「東洋鬼」へ、そして「東洋樹」へと雅号を改名しましたが、格調ある洗練された作句を目指す姿勢は、最後まで変わりませんでした。
また大正10年代に小柳誌「覆面」を、昭和4年に椙元紋太らと「ふあうすと」を、同32年には「時の川柳」を発刊、そして同42年には「東洋樹川柳賞」を創設、「平易簡明、十七字音、批判精神」を作句の三条件に掲げ、川柳の質的向上につとめました。
彼の原点は、病床で詠んだ句「ひとすじの春」にあります。障子の破れ目からこぼれてくるひとすじの明るい陽射し、明日への希望はそこから湧いてくる―、十七音に希望を託すがゆえに、「カミソリ東洋樹」との異名を得るほどに鋭い社会風刺の作風にもなった東洋樹の作品の数々と、その生涯を紹介します。

「ひとすじの春」とは前掲の「ひとすじの春は障子の破れから」という句を指している。この句がそんなに良いかどうかはひとまず保留するとして、展示内容は次のようになっている。

県商時代の投稿雑誌、東洋鬼時代からの短冊や色紙、小説や講演会用などの自筆原稿、    時計・ポケットチーフ、手帳といった身の回りの小物、「ひとすじの春」(昭和15年発行)をはじめとする自著、句詩「時の川柳」(創刊号~)「昭和川柳百人一句」などの雑誌、冊子や豆本、妻・愛子(雅号・柚香女)の色紙、短冊など。

第一句集『ひとすじの春』、第二句集『ほんとうの私』があるが、私が持っているのは構造社版の川柳全集・第14巻『三條東洋樹』である。私が推薦するのは次の10句。

やましなと二度読み返すひとり旅
灯を消した夫婦で息を盗み合う
さくら百句つくらぬうちに桜散る
薔薇崩れ落ちるが如く女脱ぐ
ズボンはく男の顔はすでにエゴ
かみそりと言われた人の水枕
随筆を書けば学者も人くさし
こがれ死にした人もある墓地の風
意地悪がむらむらと出るアンケート
二番手の馬の心にあるゆとり

「時の川柳」の誌名について、東洋樹は次のように述べている。

「時の川柳の『時』とは現代という意味であって、過去の川柳でも未来の川柳でもなく、今日生きている我々の生命を宿した川柳である。これを作品の傾向から言えば、過去の陳腐なものを捨て、未来派的な難解独善をおましめ、あくまでも現代を生かした大道を歩もうとする意欲の象徴である」

即ち、東洋樹の批判するのは「過去」と「未来」。「過去」とは古川柳の模倣にすぎない作品。未来とは詩性川柳である。この点で、私は東洋樹の川柳観には違和感をもつ。たとえば、次のような文章である。

「近頃、川柳界に詩性を説く声が高まっており、それはそれなりに結構なことであるが、詩性を川柳の本質と誤認してはいけない」「詩性を過信して、現代詩の一部分のような作品や、短詩と何ら区別のつけられぬ一行詩を、新しい川柳として迎え入れている人々は、川柳の本質と詩性を混同しているのではなかろうか」「川柳は歌俳に対して挑戦した文学である。詩性だけでは、歌俳に対して挑戦の資格はない」

そのような川柳観とは別に、東洋樹の作品で私が気になっているのは次の句である。

自殺したろうかと思い淫売街の月と歩く   東洋樹

東洋樹は「川柳は文学か」という文章の中で、自分の作品を3期に分けて説明している。

A期
笑うにも泣くにも袖口へ当て
自転車の稽古大波小波なり

B期
自殺したろうかと思い淫売街の月と歩く
薄の穂われ放浪の旅なれば

C期
ひとすじの春は障子の破れから
子と暮らす月日の中を春惜しむ

A期は川柳を始めた時期で、古川柳の模倣期であり、見るもの聞くものが十七字に置き替わるのが楽しくてならない時期である。
B期は、模倣は恥ずかしい、類想は嫌だと、川柳の三要素に拘束されぬ「詩」を作りたい意欲に燃えた時期である。
C期は「自分は文学をやっている」という自負を持ちつつ、自己と社会をよくしようと願っている時期である。
川柳における序破急を述べたものだろうが、B期を自己否定することによってC期の作品をよしとするのであれば、それがよいとも言い切れぬものを私は感じる。東洋樹の作品にいまも評価できるところがあるとすれば、彼がB期を通過しているからにほかならない。同じ「川柳は文学か」という文章で、東洋樹は「これからの川柳に私が望むものは『人間陶冶の詩』を心底に抱いた、平易な言葉の奥の深いもの―」と述べている。「人間陶冶の詩」?―それは麻生路郎の言葉ではないか。東洋樹と路郎との親近性について、たとえば橘高薫風のこんな文章がある。

「三条東洋樹の川柳生活を顧みて、麻生路郎と相通じるものがあるように思うのは、私だけではあるまい。路郎が番傘の前身である短詩社に属していながら、後に袂を分かち、『川柳雑誌』を創刊したのと同じに、東洋樹は、ふあうすと川柳社から独立して『時の川柳』を主宰した」「路郎が東洋樹に親近感を持ち、東洋樹が路郎の川柳生活に共鳴したであろうことは、容易に想像出来ることだ」(「時の川柳」324「報恩」)

東洋樹の卒業した兵庫県立神戸商業の同級生に鈴木九葉という人がいる。九葉は「三條東洋樹さんへの注文」で次のように書いている。「柳界に於ける地位が高まるにつれて、指導者意識の影響で健実な作句態度に終始し、石橋を叩いて渡る人になったのは人間の常だとはいえ、大切なものを失ってしまったようで、惜しまれてならない」(東野大八『川柳の群像』による)―東洋樹は自己に対する川柳眼をもっていた人であった。次の句はそのことを端的にあらわしている。

ズボンはく男の顔はすでにエゴ    東洋樹

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