2012年3月9日金曜日

墨作二郎と点鐘散歩会

「船団」92号(3月1日発行)は「俳句と動詞」という特集を組んでいる。何となく俳句は名詞と親和的であり、川柳は動詞と親和的であると思っていたが、そう単純なものでもないようだ。動詞は他の単語と結びついて使われるから動詞本体が隠れることもある(動詞を隠す)ことなど指摘されていて興味深い。
さて、芳賀博子は「船団」に「今日の川柳」を連載しているが、本号では「散歩会」について紹介している。芳賀は次のように書いている。

〈 通称「散歩会」で親しまれる「点鐘散歩会」は、大阪在住の川柳作家・墨作二郎の主宰する「現代川柳・点鐘の会」が毎月催す吟行である。特色は誰でも当日参加OK、そして出句無制限であること。吟行先にもよるが、移動や昼食タイムを除けば二時間ほどでツワモノは六十句、七十句、調子が良ければ百句近くも詠むという。
さらに作句が終われば即、清記、互選。今回の投句も六百を超えたが、選べるのは通常通りのたった十句。この厳選もまた特徴のひとつで、参加人数によっては総数千句にのぼる場合もあるらしい。とにかくこの散歩会、のんびりほがらかな名称とは裏腹に、限界まで読み尽くし読み尽くし選び尽くす、ほとんど川柳の荒行なのである。 〉

川柳にも吟行があるのかと思われる向きもあろう。川柳は句会・大会を主とするから、外へ出て川柳を作るというのは珍しい。点鐘散歩会は平成8年3月にスタートし、今年2月現在で185回を数える。その目的はどういうところにあるのだろうか。散歩会の記録は二冊の冊子にまとめられていて、平成20年4月に発行された二冊目の冊子に、墨作二郎はこんなふうに書いている。

〈 散歩会の考え方は当初と変わりなく「外へ出て書く川柳」で、直接自然の変化や世情の流行や変幻を体感することで、知識の内容を吸収して、今に欠けている川柳のこれからを見出したいのである。芭蕉は旅を通して風雅の心を養い、自己の芸術をより高める方便としている。このことに学んで正岡子規は俳句に写生を提唱し、碧梧桐・虚子らに継承されている。実作の一方法として吟行があるが、これは外へ出て、自然の景物に接し、目の前の景を見て作句する「嘱目」が基本である。 〉

川柳の句会・大会では「題」が出る。句会まわりを続けてゆくと、似たり寄ったりの題が出ることもしばしばである。題(言葉)を前にして机の上で句を作っているだけでは煮詰まってくるのだ。作二郎は俳句の吟行にヒントを得て、「外へ出て書く川柳」を提唱する。それは「類想・類句を絶つ方法」でもある。
芳賀博子は何度か散歩会に参加しているが、このレポートのときは万博記念公園の国立民族学博物館に行ったようだ(第182回、2011年11月)。「点鐘じゃあなる」という句会報が発行されていて、私も手元にもっている。参加者20名。当日は特別展示「アイヌのくらし」展があった。雰囲気を感じていただくために、句会報から何句か紹介する。

遠く遠く誰のものでもないカヌー    北村幸子
体温になるまで仮面はずせない     笠嶋恵美子
不安だった鳥のかたちになるまでは   峯裕見子
人間の匂いを壺に入れておく      本多洋子
うつくしきもののひとつに豆の種    八上桐子
タクシーも来んしラクダにしませんか  芳賀博子
海を拝んだ空を拝んだそんな顔     徳永政二
少し余白があってアイヌの叙情詩は   墨作二郎

嘱目といっても、俳句の写生とは少し違う。対象であるものそのものに向かうというより、ものに触発された内面感情の方をつかみ出そうとしている。
参加者の中にも、「散歩会という方法をとっているのだから、その日その場の句でなければならない」と厳密に考える人と、「嘱目は句作のきっかけであればよく、極端に言えばその場に無いものを詠んでもよい」と考える人もいる。作二郎はその両極を受け入れているようだ。

点鐘散歩会については「五七五定型」4号(2010年4月)に野口裕が「句会探訪記」を書いている。このときはサントリー・ミュージアムの「クリムト・シーレ ウイーン世紀末展」に行ったのだった。野口は次のように言う。

〈 私自身いわゆる吟行、集団で何かを見て五七五を書く経験はほとんどない。問題は「集団で」というところにある。一人で書く習慣に馴染んでいるので、ことさら吟行に出かけなくても、日常生活の中でふっと一人になる瞬間があれば、五七五はやってくる。しかし、同じ五七五を書く人間がそばにいて、同じものを見ている、と思うだけでどうも書きにくい。 〉

作句仲間がいる方が句ができることもあれば、集団では句ができない場合もある。作句方法も個性や習慣に左右されるのだろう。
前掲の『点鐘散歩会』の冊子で徳永政二は「なにもかも忘れて風景と一つになって書くということは、こだわりのある自分より、より大きなものを書くことになる」と述べている。「なりきって書くということには、自分というものが消える心地よさと、なんともいえないさわやかな解放感がある。そして、向こうからやってくる言葉との出会いがあれば、なおさらのよろこびである」(「散歩会を思う」)こういう徳永の感覚は俳句の「写生」の感覚に近いのかも知れない。

「点鐘の会」では散歩会とは別に句会も開いているし、隔月発行の「点鐘」に会員作品が掲載されている。それらの作品をまとめて、毎年、『点鐘雑唱』という句集が発行されている。その2011年版から紹介する。

鈴成りの首の一つが笑ったよ        石川重尾
胎内回帰はじまる 皆既月食        笠嶋恵美子
大阪の水に切手が貼ってある        阪本高士
信長の姪ですという彼岸花         畑山美幸
天部のどなた一弦を掻き鳴らす       平賀胤壽
ここに蝉丸春の吊り橋           本多洋子
繋がりを言えばロバのパン屋も木の椅子も  前田芙巳代
黒猫が喉を見せてる落石注意        森田律子
象追って足の裏まで乾くのよ        吉岡とみえ
我らすでにうそ寒族と呼ばれんか      渡辺隆夫
なつかしい敵なつかしい死亡記事      墨作二郎

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