2021年8月6日金曜日

佐藤文香句集『菊は雪』

「短歌研究」8月号については前回も触れたが、掲載作品のうち佐藤弓生の「はなばなに」は俳句・短歌を詞書にして自作を詠んでいる。その中に現代川柳を引用している一首がある。

  くるうほど凪いで一枚のガラス  八上桐子
しんがりの気泡昇天そののちはどこまでも水平な朝です 佐藤弓生

八上の句は句集『hibi』(港の人)に収録されている。凪の背後には狂暴なものが隠されているのであり、静謐なガラスの内部には何があるのか知れたものではない。佐藤弓生は八上の句の世界を垂直と水平のイメージでとらえ直している。
また、佐藤弓生は「短歌研究」の同号「人生処方歌集」で佐藤文香の『菊は雪』(左右社)を取り上げていて、そこでは菊と雪の取り合わせについて次の歌を連想しているのだった。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花  凡河内躬恒

躬恒では「菊と霜」だが、佐藤文香では「菊は雪」になっている。この「は」という連辞が曲者だ。そもそも現実レベルでは菊は雪ではない。伝統的な和歌の世界でも雪と結びつくのは菊ではなくて花(桜)であった。花吹雪という言葉があるように、花=雪であり、桜=雪というように見立てられる。だから菊=雪と言われると一種の衝撃が生まれるのである。
では「菊は雪」という言葉がどこから来たのか。その言葉の出自については作句工房の秘密であるべきだと私は思う。無から有は生まれないから、その言葉が生まれる契機となるものがあったはずだ。それは存外つまらないことだったり、何でもない些細なことだったりするから、読者は生まれた言葉そのものを楽しめばいいのだろう。

くちびるはむかし平安神宮でした  石田柊馬

この句をはじめて読んだときに衝撃を覚えたが、くちびる=平安神宮という等式をつなぐものとして、たとえば平安神宮の赤い大鳥居を思い浮かべたりすると読みがつまらなくなってしまう。躬恒の歌で霜=菊をつなぐものは白であることに間違いはなく、理屈の歌という面もあるけれど、答えがわかってしまえばそれまでという訳でもないだろう。
菊は雪に変容する。言葉の変容、イメージの変容する気分が表現されている句として、巻頭の次の句が注目される。

みづうみの氷るすべてがそのからだ  佐藤文香

みづうみ→氷る→からだ、というふうに言葉が変容してゆく。自然のイメージではじまったものが最後に人体のイメージに行きついている。

夕立ちよ山は木に選ばれてゐる
間奏や夏をやしなふ左心房
鎌倉や雪のつもりの雨が降る
爽籟や巻貝の身に心あり
月南極の氷すべてをわれに呉れよ

木が山に選ばれるのではなくて、山が木に選ばれるのだという。「左心房」の身体性。雪のつもりで降っている雨。巻貝に心があるのか。俳句形式のなかにときどき表れる私性。この句集の止めの句はこんなふうになっている。

ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪  佐藤文香

刊行記念特典として付いている佐藤文香と太田ユリの対談のペーパーによると、『菊は雪』は「短詩系ユニットguca」の活動を締めくくるものだという。
佐藤は「外向きの仕事を担当する」という役割を果たそうとしてきたと言っている。『15歳の短歌・俳句・川柳②』『俳句を遊べ!』『天の川銀河発電所』など、キュレーターとしての仕事である。俳句だけではなく、『金曜日の川柳』の企画協力にも彼女は関わっている。それが今回は句集というかたちでクリエーターとして自らの作品をまとめた意義は大きい。
対談の中で佐藤の「一番尊敬している同世代の俳句作家たちを信じて、句集を作ろうと思った」という発言が印象に残った。同じことを太田ユリは「これまで外を向いてやってきたけど、俳句の中の人たちをもう一度信頼するという流れ」と言っている。こんなふうに言いきれるのは凄いことだと思う。

左右社からは三田三郎の第二歌集『鬼と踊る』の今月末発行が予告されている。こちらも楽しみだ。

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