2012年11月9日金曜日

モツレクはモーツァルトのレクイエム

音楽、特にクラッシックは私の苦手分野だが、ふとモーツァルトが聴きたくなって、朝晩CDをかけている。また連想は自然に小林秀雄の「モオツァルト」に向かい、何十年ぶりかで読み直してみた。第二章に楽譜がでてくるが、これには当時の批評家が「楽譜なんか入れやがって」と羨望と嫉妬にかられたと言われる。そこにはこんなふうに書かれている。

「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭を一杯にして、犬の様にうろついていたのだろう」

小林の頭の中に鳴り響いたのは、交響曲第40番の第4楽章らしい。いかにも小林らしい文章である。そして、かつてはこのような文章こそ「文学」だったのである。モーツアルトという天才が時代を作った。小林秀雄は批評を文学にし、時代をリードした。小林の文章はとても懐かしく感動をすら覚えるけれども、いまでは「文学」というものに実体はないし、誰もそんなものを信じてはいない。

川柳において英雄待望論が語られることがある。
時代をリードするようなスター性・カリスマ性をもった川柳人が久しく現れないのだ。私は川柳の現状を「過渡の時代」と呼び、そこにむしろ可能性を見出そうとした。だが、過渡の時代に耐え続けることも、それはそれでエネルギーが必要である。
時代を一変させるような個性的な表現者が現れて、川柳の表現領域を切り開き、晴れ晴れとするようなカタルシスを与えてくれないだろうか。そういう漠然とした期待が広がっているのを感じる。けれども、そのような表現者が一体どこにいるというのであろう。思いもよらない場から登場するという期待もロマン主義にすぎず、今いない者がどこかから現れるはずがない。
短詩型文学の世界では、すでにひとりの優れた表現者がひとつの時代を代表するというようなことは起こらないのかも知れない。特定の個人や結社が全体をリードするという状況ではないようだ。
次の世代を育てるということについても、最近よく耳にする。
かつての20代の川柳人がそのまま高齢化し、あとに続く世代が固まりとして育たなかった。
結局、川柳人は伝えるとか残すということに無関心だったと言うほかはない。俳句と比べて、残すことに対する歴然とした意欲の差があるのだ。

11月17日に京都で「第23回現俳協青年部シンポジウム」が開催される。「洛外沸騰」というタイトルで「今、伝えたい俳句、残したい俳句」というサブタイトルが付いている。宣伝のチラシには次のように書かれている。

「今日、情報技術の急速な発達を背景に俳句と俳句以外のものとの出会いが頻繁かつ容易になった。それにつれ、ジャンルを越境した相互的創発の潜在的可能性はかつてなく高まっている。そのとき俳人は俳句にとっての他者に対して俳句の何を、どう伝えたいのか。俳句というジャンルを担ってゆく若者や後世に対して何を、どう残したいのか。俳句でしか伝えられないこと、残せないことはあるのか。千年の王城の地・京都の秋深まる頃、気鋭の若手俳人及び研究者が洛外に会して熱く語りはじめる」

「情報技術の発達」「俳句と俳句以外のものとの出会い」「ジャンル越境」「他者」「俳句でしか伝えられないこと」などのキーワードが並び、俳句が他者と後世に対して何を伝えていくかというメッセージが強く発信されている。
また、「現俳協青年部」のホームページには青木亮人の基調報告要旨が掲載されている。

「多くの俳人は折に触れてある句を傑作と喧伝し、ある作品を後世に残すべき句と称賛してきた。それは明治時代の正岡子規から平成年間の『新撰21』等に至るまで変わることなく続いている。何を傑作と見なすか、どの作品を後世に残したいと願うかは評者の審美観や俳句史観等によって異なるであろう。そこには作品自体の評価のみならず、人脈・俳壇等への配慮が滑りこむこともあろうし、またその時々の自身の関心によって左右されることも少なくない。いずれにしても、どの句を選び、どの句を選ばないかは評者の俳句観が問われる営為であり、従ってここで求められるのは各パネリストに共通する価値観ではなく、互いの主張が幾重にも絡まり、もつれ、途切れては結ばれるその一瞬を追うことで自らの俳句観が拡大していくこと、その体験を味わうことであろう。
これらの討論の基調講演として、過去にどのような俳人が何を伝え、何を残そうとしたか、その例をいくつか報告しておきたい」

読んでいて私は胸をつかれる。
「どの作品を後世に残したいと願うか」という発想は川柳には無縁である。少なくとも、そんなことを言う川柳人を私は知らない。
パネリストは青木のほかに岡田由季・松本てふこ・彌榮浩樹。司会が三木基史。どんな話になるのだろうか。

11月2日(金)に「第64回大阪川柳大会」が開催された。
「川柳塔」「川柳文学コロキュウム」「番傘川柳本社」「川柳天守閣」「川柳瓦版の会」という大阪を代表する柳社の選者を揃えている大会である。けれども、そこに参加したいと思うかどうかは別にして、平日に開催されることによって仕事をもっている現役世代の人間は最初からシャットアウトされることになる。以前は休日に開催されていて、十数年以前に私も一度参加したことがある。休日だと会場が予約しにくいのだろう。それに、無理をして休日に開催したところで、結局は平日開催と同じような参加者になるという予想があるのかも知れない。そこには次代に伝えてゆくという発想は最初からないのである。

毎日聴いているCDの一枚がモーツァルトの「レクイエム」。ラテン語の歌詞なのでよくわからず、インターネットで歌詞を探したが、対照してみてもいっそう分らない。
小林秀雄の「モオツァルト」の末尾は「レクイエム」のエピソードで締めくくられている。少し長いが省略せずに引用しておきたい。

「1791年の7月の或る日、恐ろしく厳粛な顔をした、鼠色の服を着けた背の高い痩せた男が、モオツァルトの許に、署名のない鄭重な依頼状を持って現れ、鎮魂曲の作曲を注文した。モオツァルトは承諾し、完成の期日は約束し兼ねる旨断って、五十ダカットを要求した。数日後、同じ男は、金を持参し、作曲完成の際は更に五十ダカットを支払う事を約し、但し、註文者が誰であるか知ろうとしても無駄であると言い残し、立ち去った。モオツァルトは、この男が冥土の使者である事を堅く信じて、早速作曲にとりかかった。冥土の使者は、モオツァルトの死後、ある貴族の家令に過ぎなかった事が判明したが、実を言えば、何が判明したわけでもない。死は、多年、彼の最上の友であった。彼は、毎晩、床につく度に死んでいた筈である。彼の作品は、その都度、彼の鎮魂曲であり、彼は、その都度、決意を新たにしてきた。最上の友が、今更、使者となって現れる筈はあるまい。では、使者は何処からやって来たか。これが、モオツァルトを見舞った最後の最大の偶然であった。
彼は、作曲の完成まで生きていられなかった。作曲は弟子のジュッスマイヤアが完成した。だが、確実に彼の手になる最初の部分を聞いた人には、音楽が音楽に袂別する異様な辛い音を聞き分けるであろう。そして、それが壊滅して行くモオツァルトの肉体を模倣している様をまざまざと見るであろう」

小林は一時期、骨董の世界に憑かれていた。形がすべてという世界である。それは「無常という事」の中の次のような発言につながってゆく。

「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

小林の言うとおりかもしれない。けれども、私たちは不定形な動物的生を生きながら、じたばたと迷い続けるほかはないのである。望むらくはモーツァルトの音楽のように軽快に悩みたいものである。悲しみのアレグロはやがて転調するはずだから。

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