「伝統」と「前衛」の対立軸が無効になって久しい。
俳句では「伝統と前衛」と言われるが、同じ構図を川柳では「伝統と革新」と呼んでいた。いずれにせよ、このような図式が崩れたあと、現在の短詩型文学の状況はどうなっているだろうか。筑紫磐井著『伝統の探究〈題詠文学論〉』(ウエップ)は俳句フィールドにおける「伝統」の問題を追及していて、とても興味深い。筑紫はこんなふうに書いている。
「しかし、『伝統と前衛』が対となったものである以上、前衛が姿を消したとしたら伝統がどのようになったのかは確認しておく必要があるであろう。前衛が衰退したのならば、伝統が俳句を支えているのでなければ、理屈に合わないからである」
「しかし、今眺めてみると、前衛と伝統の対立の時代に、疑問もなく『伝統』と呼んできたものが一体何であるのか、頗る分かりにくくなっていることに気付かされた」
このような問題意識から筑紫は子規のつくった近代の句会に遡り、「題詠」に行き着くのである。
昭和45年ごろに書かれた「伝統」再評価の評論に草間時彦「伝統の黄昏」や能村登四郎「伝統の流れの端に立って」がある。前者について筑紫は、草間の敵は前衛俳句ではなかったと述べて、次のように指摘している。
「では、草間の真の敵は何かというと『わたしが憎むのは、伝統の危機をまったく感じていない楽天的な俳人達や結社である。…愚かな人々に怒りの眼を向けても仕方がない』。要するに有季定型に安住してしまって、特段の問題意識を持っていない人間こそ自分に一番遠いところにいるというのだ」
『 』の部分は草間の文章の引用なので、念のため。また、能村登四郎の次の文も引用されている。
「真の伝統作家というものは明日への創造をなし得る人であって、明日への方策のない者は真の伝統作家とは呼べない」
このような言葉に私は当時の俳人たちの本物の俳句精神を感じるが、さらに興味深いのは筑紫が江戸の句会と明治の句会の差異を論じているところである。近代に入って句会のどこが変わったのだろうか。
「江戸時代にあった発句の会は、『月次句合』であった。一言で言ってしまえば、不特定多数の詠草を集めて行う宗匠選の発表会である。催主は著名な宗匠に選者を依頼する。選は無記名で行うが、選をできるのは宗匠だけであり、一般大衆は選を行えないということである」
これに対して、子規が始めたのが互選句会である。全員が選をし、全員が批評しあうという句会形式は近代になって生れたものである。
このような視点で見ると、川柳の句会は前近代をひきずっていると言える。互選句会・句評会は句の読みへの第一歩であり、川柳において批評が成立しないのはふだんの句会で読みが鍛えられていないことに一因があるのだろう。筑紫の本は川柳人にとっても刺激的である。
11月17日(土)、京都の知恩院・和順会館で「第23回現代俳句協会青年部シンポジウム」が開催された。
このシンポジウムは東京で開催されることが多く、京都で開催されるのは10年ぶりである。前回は2002年6月に京都駅前のぱるるプラザ京都で開催された。そのときの司会は江里昭彦、パネラーは堺谷真人・浦川聡子など。懇親会で鈴木六林男・村木佐紀夫の姿を見かけたことを覚えている。
今回のテーマは「洛外沸騰―今、伝えたい俳句、残したい俳句」である。
以前にも紹介したことがあるが、宣伝チラシには「俳人は俳句にとっての他者に対して俳句の何を、どう伝えたいのか。俳句というジャンルを担ってゆく若者や後世に対して何を、どう残したいのか。俳句でしか伝えられないこと、残せないことはあるのか」とある。
総合司会の杉浦圭祐は「伝えたい俳句は水平軸として同時代に伝えたい俳句」「残したい俳句は垂直軸として後世に残したい俳句」と説明した。
基調報告の青木亮人は「選ぶ」行為の裏側には「選ばない」行為があり、「選ぶ/選ばない」によって価値観が発生することを具体的に説明した。
まず取り上げられたのは、「ホトトギス」第4巻7号で、巻頭には「蕪村句集講義」が掲載されている。ここには芭蕉に対して蕪村を称揚するという「アンチ芭蕉」の価値観が見て取れる。次の例は大正年間の「ホトトギス」で、虚子が雑詠欄で蛇笏を取り上げているのは、「アンチ碧梧桐」という価値観から。三つ目の例は「俳句研究」1977年3月号で「特集・新俳壇の展望Ⅲ」と「特集 後藤夜半研究」が並んでいる。意外な組み合わせだが、編集者・高柳重信の価値観があるのだろう。以上、グループであれ、結社の主宰であれ、俳誌の編集者であれ、それぞれの価値観によって残すべき俳句を発信していることになる。以上が青木の基調報告の概略である。
パネルディスカッションは司会・三木基史、パネラーが青木亮人・岡田由季・松本てふこ・彌栄浩樹。
「俳句と関わりはじめたきっかけ」「なぜ俳句とかかわり続けているのか」について、彌栄は電車にのっているときふと自分にも俳句を作りうることに気づき、今では「人生で大切なことは俳句から学んだ」という。彌栄が評論「一%の俳句」で群像新人賞を受賞したことは記憶に新しい。松本は大学で最初参加していたサークルと同じ部室を使用していたのが俳句研究会で、俳句を作ること・読むこと・俳句に関して文章を書くことが楽しく、「楽しくなくなったら俳句をやめる」と言いきる。岡田は何か新しいことを始めたいと思ったとき母の勧めで俳句を始め、特に「句会」が好きだから続けているという。青木は俳句研究者で、愛媛大学教育学部の准教授。高校生のときに『猿蓑』を読んだのがきっかけで、俳句に関心をもち、現在は子規を中心に研究している。他の三人の実作者に対して、彼の研究者の視点からの発言は議論の内容を相対化し、より広い文脈でとらえる役割を果たしていた。
パネルディスカッションの前半は結社と主宰の話であった。
俳人はなぜこんなに結社や主宰の話が好きなのだろう。
「新撰21」の竟宴の際に、アンソロジーに出す百句を主宰に事前に見てもらったかどうかがとても重大なこととして話題になったときにも私は違和感を持った。
「俳句」は個々の「俳人」によって人から人へ伝わるという面がある。主宰に向かって投句を続ける(主宰の選を受ける)なかで俳句精神を会得するということもよくわかる。存在感のある主宰のエピソードにはそれなりの面白さがあるのも事実である。しかし、正直言って、私はこの種の話が苦手である。俳壇ギルドの徒弟修業の話ならば、何もシンポジウムを開く必要はないのだ。
俳句を俳壇の枠を越えて作品・テクストとして発信するには、具体的な句そのものを語るほかない。シンポジウムの後半は「伝えたい俳句・残したい俳句」についてレジュメに従って進行した。このレジュメの中には「次の人々に向けてあなたなら具体的にどんな句を伝えますか」という質問にパネラーが答えている部分がある。「日本のことを知らない外国人に」「俳句を知らない小学6年生の子どもに」「恋をしている人に」「ここ一番の勝負を迎えている人に」などの相手が想定されている。
たとえば、「芭蕉に」「子規に」では次のような句が挙げられている。
Q 芭蕉に
青木(選) 桐一葉日当りながら落ちにけり 高浜虚子
岡田(選) 向日葵のその正面に誰も居ず 津川絵理子
松本(選) 柿の蔕みたいな字やろ俺(わい)の字や 永田耕衣
Q 子規に
青木 香を聞くすがたかさなり春氷 宇佐美魚目
岡田 かき氷この世の用のすぐ終る 西原天気
松本 船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな 高柳重信
パネラーがなぜその句を選んだか、しかも相手(読者)を想定したときにどの句を選ぶか、という点にそれぞれの俳句観が顕在化してくる。この部分は興味深かったので、もうひとつ紹介しておこう。
Q 俳句に興味が無い若者世代に 例えば大島優子(AKB)に
青木 じゃんけんに負けて蛍に生まれたの 池田澄子
岡田 頭の中で白い夏野となっている 高屋窓秋
松本 ふはふはのふくろふの子のふかれをり 小澤實
彌栄 ひるがほに電流かよひゐはせぬか 三橋鷹女
懇親会が終わったころには激しかった雨もやや小降りになっていた。知恩院の三門がライトアップされて闇に浮かび上がっている。
俳句も川柳もそれぞれに前近代の残滓を引きずっている。
この日のシンポジウムに「他者」は存在したのだろうか。雨の知恩院で繰り返し問わずにはいられなかった。
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