2011年2月25日金曜日

『魚命魚辞』はライトかヘビーか

渡辺隆夫川柳句集『魚命魚辞』(邑書林)が上梓された。第五句集になる。タイトルはもちろん「御名御璽」をもじったもの。話の順序として第一句集から第四句集までを振り返ってみよう。

カラフルに国家が来ますピピッピピッ 『宅配の馬』
都鳥男は京に長居せず        『都鳥』
国歌として青い山脈唄いたい     『亀れおん』
介護犬の最期を看取るロボット犬   『黄泉蛙』

第一句集の国家批判、第二句集の京都批判を経て、第三句集では4句1セットによるテーマ詠によって批判対象が多様化し、第四句集では自ら作り出したキャラを風刺対象として批判するというキャラクター川柳の手法を編み出した。句集の題が哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類と変化しているのは隆夫一流の諧謔である。そして今回は魚類。巻頭の句は次のようなものである。

ブリューゲル父が魚の腹を裂く

フランドルの画家ピーター・ブリューゲル(父)には、「大きな魚は小さな魚を食う」という有名な版画がある。大きな魚の口には小さな魚が、小さな魚の口からもっと小さな魚が…その連鎖がおびただしく続いている。ブリューゲルには父と子がおり、またピーターとヤンがいて紛らわしい。従って掲出句は「ブリューゲル/父が魚の腹を裂く」と切れるのではなく(もちろんそう読んでもかまわないが)、「ブリューゲル父が/魚の腹を裂く」と読むのがいいようだ。版画に戻ると、画面には鋸ナイフで大魚の腹を裂く人物が描かれている。裂いた魚の腹からも小さな魚がこぼれ落ち、その魚もやはり口に小さな魚をくわえている。ナイフを持った男は帽子を被っていて表情が見えないが、もし彼が帽子をとって振り返ったとしたら、きっと渡辺隆夫の顔をしているに違いない。堺利彦はこの句集の解説で掲出句について「これからブリューゲル(父)の絵のように、小魚(句)が腹(句集)から溢れ出てくることへの読者に対する〈挨拶〉」と述べている。

『魚命魚辞』は『亀れおん』の場合のように四句で1セットになっているわけではないが、中には見開きページでモチーフが決まっている場合も散見される。

春の葬軍歌も出たり屁も出たり
夏は京鱧の骨切るアルバイト
硬直の紡錘体が秋の魚
冬川が冬の男と擦れ違う

ビルの上足高々と古賀春江
高熱の小夜子ヤマグチ夏の月
アンジェラ・アキたとえば夜の黒椿
頬被りてめえ松方弘樹だな

春夏秋冬とか固有名詞をモチーフとして、作句されている。
新機軸を出しているのは、「フレンチカンカン」「出羽三山」の章で、海外詠、旅行詠に挑戦している。

昔からネッシーなんて興味ないんだ
羽黒山現世は歩く杉である

ところで、これまで渡辺隆夫の川柳はさまざまなものを風刺し笑いのめしてきたのであるが、『魚命魚辞』における風刺対象はどのようになっているだろうか。

佐世保より現川狂各位に告ぐ
原潜VS現川 決着の時きたる
盧溝橋から始まる男の一生
全山これ昭和桜でありしかな
ヤマト轟沈さぁ竜宮だ乙姫だ
鳥帰るあらまテポドンどこ行くの
テポドンに紅の豚ぶちかまし
選挙と介護どっち大事かバカ息子
横綱の品格ヒール狒つ狒っ狒

風刺対象はさまざまだが、「テポドン」はすでに『亀れおん』で詠まれているし、現代川柳は原潜と対決するほどのパワーなど持ち合わせてはいないのだ。「現川狂」は「日川協」と「現俳協」をミックスしたイメージかも知れない。思う存分風刺できるような確固とした権威そのものが現代ではとても成立しにくくなっている。そのような情況の中でなお風刺対象を求め続ける渡辺隆夫の営為は一種の悲壮感をすら感じさせる。
かつて社会性川柳というものがあった。社会性を詠むことがストレートに川柳表現たりえた時代があったのである。けれども、現在、社会性を詠むことは大仰で時代錯誤を伴うものになってしまいがちである。渡辺隆夫の表現は当然屈折したものになってゆく。

『魚命魚辞』は渡辺隆夫の川柳の集大成である。
集大成であるだけに、それほどフレッシュではない部分も混在している。「おーい亀だれの葬儀だモシモシ」など、急に『亀れおん』に戻ったかのような感じがする。

序文を書いている森田緑郎は神奈川県現代俳句協会会長で「海程」の同人である。森田はこんなふうに述べている。

《俳壇では平成十年十年前後に「重くれ」と「軽さ・形式」についての対立論争があった。ここでいう「重くれ」とは〈作者の生き方や志向性〉といった思いの深さを指し、「軽さ」については〈軽妙、洒脱、平明〉を力点においた、形式と言葉の調和をねらった句の味である》
《要するに戦後派を中心とした主体的な生き方や存在者としての志向的な思いである。それに対して最短定型詩という鮮明な形式への復活とその形式が生み出す言葉の透明性、しなやかさにあろう》

森田はこのように述べたあと、渡辺隆夫の川柳は「ライトバース」というよりむしろ「ヘビーバース」であると言う。(俳誌「雲」46号〈「軽み」をどうとらえるか―これからの俳句のために―〉でも森田緑郎はライトバースについて言及している。)
渡辺がかつて同人だった「ぶるうまりん」6号(2007年5月)では「重くれと軽み」という特集をしている。渡辺は〈川柳に見る「重くれと軽み」〉という文章を書いて、新興川柳・革新川柳・現代女流川柳の三期のそれぞれにおける「重くれ派」と「軽み派」を挙げている。新興川柳期の重くれ派は田中五呂八、軽み派は鶴彬。革新川柳期の重くれ派は河野春三、軽み派は中村冨二。現代女流川柳の重くれ派は樋口由紀子、軽み派は広瀬ちえみ、という独断と偏見を述べたあと、渡辺はこんなふうに言う。

〈長年、重くれに親しんだ人から見れば、軽みは屁のようなものだし、軽み派人生を歩んできた人にとっては、重くれは本当にウットウシイ。重くれにしては軽い「重かる」とか、軽みにして重くれる「軽おも」といったものがありそうに思うのだが、次句はどうであろうか。
  湯殿より人死にながら山を見る   吉岡実
  大晩春泥ん泥泥どろ泥ん      永田耕衣〉

ちなみに『魚命魚辞』には「森敦に月山 吉岡実には湯殿山」の句も収録されている。
さて、渡辺の句集は「重かる」であろうか、「軽おも」であろうか。
川柳の武器のひとつである批評性は価値の多様化した現代ではきわめて発揮しにくい。その中で重いテーマを軽薄な形で表現し続けている渡辺の仕事はきわめて孤独なものだというのがかねてからの私の見方である。

第五句集で脊椎動物シリーズが終わったので、これがラスト句集になるのではと心配していたが、あとがきに「さて、『魚命魚辞』を読んで、代り映えしないとオナゲキの皆さまには、次回こそ、必ずオッタマゲルゾと予告して、ごあいさつに代えます」とあるのを読んで安心した。生物学者でもある隆夫のことだから、昆虫類をはじめとしていくらでもタイトル名には事欠かないだろう。

昭和史を他山の石とはせぬぞ、御意
魚命魚辞、また勅語かと朕びびる

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