2011年2月4日金曜日

「難解」問題は権力闘争だったのか

「バックストローク」33号(2011年1月25日)が発行された。9年目を迎えて表紙を一新し、あらたなスタートを切っている。読みどころはいろいろあるが、注目すべきは関悦史が〈「難解」な川柳が読みたい〉を書いていることである。これには以下のような経緯がある。
昨年の「俳句界」7月号の特集「この俳句さっぱりわからん?」に関は「在ることは謎、謎は魅惑」という文章を執筆している。その中で彼は次のように述べている。
「俳句に限ったことではないが、最終的に大きな謎へと開けていない作品など一度接すれば事足りてしまう。古典と化す作品とは長期に渡り魅惑的なわからなさを産出し続ける作品に他ならない」
関悦史はまたウェブマガジン「週刊俳句」の「俳句時評」(2010年8月15日)で、難解句について「昨日の難解が今日の平易というのは俳句に限ったことではない」「それよりも気にかかるのは詩(俳句)は一義的に理解されるものでなければならない、されるのが当然であるという前提が無意識にあるようだということだ」と書いて、そもそも「難解」という言葉が批評用語として意味を持つのかを問いかけている。
また彼はネットの「閑中俳句日記(別館)」(2010年8月18日)でも「バックストローク」29号(第3回BSおかやま川柳大会特集)に触れて、「川柳の方も“難解”問題があるようだ」として、石部明の次の発言を引用している。

《個性のありそうな新人の何人かに注目していても、結局は個性のない、しかし大会などではよく抜ける平凡な書き手になってしまう。これは受け皿の問題でしょう。少し個性的な句を書き始めると「そんな独りよがりの句では、バックストロークで評価されても大会では通用しませんよ」とか自分たちの世界に引き戻してしまう。》(発行人石部明の大会での発言)

そして関悦史は次のようにコメントしている。

〈“難解”が排されると驚異的なもの、綺想的なものはその居場所を失ってしまうので、読む側としてはいささか興が失せる〉
〈川柳作品の場合は特に、『優雅に叱責する自転車』等のエドワード・ゴーリーの不条理絵本や稲垣足穂の「一千一秒物語」、あるいはある時期以降の眉村卓のSFショートショート(『ポケットのABC』『ポケットのXYZ』『最後のポケット』『ふつうの家族』)みたいに変な状況、奇妙なイメージが合理的説明や物語性に回収されずにそのまま投げ出されていてその解放感を楽しむような作品と同列に享受すればいいのではないかと思うのだが〉

これらの文章をふまえて、「バックストローク」編集部から「現代川柳は難解か」というテーマで関に原稿依頼をしたのであった。
関は「セレクション柳人」シリーズに目を通したうえで、「ことさら難解と呼ばなければならないような読解不能な作品はほとんど見当たらなかった」と述べている。川柳界で「難解」と見なされている作品が、短詩型の別のジャンルから見れば難解でも何でもないということは、いったい何を意味するのであろうか。

「難解」に関しては、川柳側の事情というものもある。
たとえば、木津川計の『人生としての川柳』(角川学芸ブックス)には「難解」に関して次のような記述がある。
木津川が紹介しているのは新家完司が「川柳マガジン」2008年9月号で述べた難解句についての考察である。以下は新家完司の意見である。
まず「読み手の責任」として新家は次の2点を挙げる。
①読み解く力が足りない。
②感性から生まれた句を理詰めで解こうとしている。
次に「作者の責任」としては、次の諸点である。
①伝達性を無視している。
②難しい句の方が上等だと思っている。
③想いも言葉も整理できていない句をだしている。
④二物衝撃の取り合わせが離れすぎている。
新家も、新家を引用している木津川も「難解句」を頭から否定しているわけではないが、川柳界の一般的雰囲気を代表しているだろう。
「川柳が近付く事の出来ない別世界であってはならない」(椙元紋太)とか「佳句佳吟一読明快いつの世も」(近江砂人)などに共感を覚える川柳人は現在でも多いはずである。
そのような川柳界の雰囲気に対して、関悦史の外部からの眼差しは十分衝撃的でありうる。

問題は関のいう「難解」とは何かということに尽きる。
彼は川柳について、〈メッセージのレベルで何を言っているのかがわからなければ鑑賞できないと考える読者は、俳句・短歌よりも多いのではないか。その結果、隠喩や寓意的表現のいちいちを散文的、合理的な意味性に一対一対応させようとし、無理な深読みが発生することになる〉と指摘している。このことは、「難解」と言われる川柳作品を、「いや、難解ではなくて、こういう意味なんだよ」と解説しようとするときに、陥りやすい陥穽である。

ところで、関悦史の文章を受けて、西原天気は「週刊俳句」第197号(2011年1月30日)の【柳誌を読む】のコーナーで「バックストローク」33号に触れ、〈「難解」をめぐる権力闘争〉という文章を書いている。西原がまず反応したのは、関悦史の文章の次のような部分である。

〈俳句も川柳も読者の大部分が実作者と思われるが、川柳作家たちの中にも川柳はわかりやすくなければならないという通念を根強く持つ人たちが少なからずおり、詩的テクストとしての高度化を目指す句に対し違和感を表明する。そしてそれがしばしば鑑賞者個人の読解力が及ばないというだけにとどまらず、こういうものは川柳(俳句)の本道ではないというセンタリング、価値判断に直結することになる。/この場合「難解」だという表明、難解さの指弾とそれへの反論はひとつの権力闘争なのだ。川柳は「文学」になりたいのかなりたくないのかといいう、ジャンル内の無意識的相克が発現する場に立ちあらわれる言葉が「難解」の一語なのである〉

うーむ、「難解」問題は「権力闘争」だったのか。確かにそのような言い方をすることもできるが、川柳界では従来、句をきちんと読むという習慣に乏しく、句評もあまり発達していない。従って、「読み」を充実させ、批評を確立すれば、「難解」問題はある程度解消するのではないかと思っていたのだが、「権力闘争」であれば勢力の力学に従うことになってしまう。
そもそも西原は川柳に対する次のような疑問を以前から抱いていたという。

〈難解な句と「誰にもわかる」句のあいだの溝は、俳句にもある。しかし、俳句の場合、その両極は、溝があるとはいえ、まだ地続きのようにも思える。いわゆる前衛的な作風(関は九堂夜想を例として挙げている)の句群と、例えば「おーいお茶」俳句とは、細い線ではあっても、まだ繋がりを見出せるように思うのだ。溝はあっても、決定的に断絶しているわけではない〉〈ところが、川柳の場合、この「バックストローク」誌に掲載された川柳と、例えばサラリーマン川柳とのあいだには、俳句の場合よりもはるかに深くて広い溝があるように思える〉〈それならば、「難解な川柳」だけが、川柳全体から隔絶し、離れ小島のように存在すると見ればいいのか〉

以上が「難解川柳」に対する、西原天気の情況分析である。いや、川柳にはそのような溝はないのだ、と言いたいところだが、そのための材料を持ち合わせていない。時系列によって順次発生してきたはずの様々な川柳が、現時点において同時並行的に存在しているのだ。

さて、本稿の冒頭近くで引用した関のいう「長期に渡り魅惑的なわからなさを産出し続ける作品」について、私は高柳重信の言った「誤解を生む力」のことを思い出す。言語表現は多彩で多様な「誤解」(「俗解」ではない)を生み出すことによって創造性を発揮する、というのだ。逆に、「俗解」にからめとられるような作品は「二流の作品」である。

落日をゆく落日をゆく真赤(あか)い中隊    富澤赤黄男
賑やかな骨牌の裏面(うら)のさみしい絵

これらの作品は「俗解」を生みやすく、人気のある句になりそうなのを嫌って、赤黄男は『天の狼』には収録しなかったのだ、と重信は言う。
川柳の「一読明快」は「俗解」であることが多い。意味性による川柳の解釈は無理な深読みに陥りがちである。「平明で深みのある作品」を書くことはむつかしい。それらの困難や陥穽を越えて真の意味の「難解な川柳」が実現するときを待ちたい。

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