2011年1月28日金曜日

川柳における選句基準など 

このコーナーではいつも「短詩型文学全体の中での川柳」というスタンスで書くことが多いが、今回は川柳界内部の話題をいくつかひろってみたい。何冊かの柳誌を読みながら、特に、現代川柳における選句の基準について考えさせられることが多かった。

1月の柳誌の中でまず注目すべきは、「第15回杉野十佐一賞」が掲載されている「おかじょうき」(発行人・むさし、編集人・Sin)である。杉野十佐一(すぎの・とさいち)は青森県の川柳人。昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立、昭和54年に没するまで同社の代表をつとめた。
さて、今年の選者5人が選んだ特選句をまず紹介する。兼題は「音」である。

なかはられいこ選  親戚が来たビニールの音立てて    坂井冬子  
樋口由紀子選    音たてず托鉢ひとりを羽交じめ    岡崎一也
広瀬ちえみ選   「不協和音ですか」エー出汁が取れます 能田勝利
高瀬霜石選     唇の動きはたぶんさようなら     赤平くみこ
むさし選      からっぽになってきれいな音がする  ながたまみ

点数制によって〈「不協和音ですか」エー出汁が取れます〉が大賞を受賞した。
興味深いのはそれぞれの選者の特選句に対する選評である。
なかはられいこは〈「ビニール」と「親戚」を結びつけた言語センスのすばらしさ〉を評価し、樋口由紀子は「思いをうまく言葉にした川柳よりも言葉の持っている力を発揮した川柳の方に惹かれる」と述べている。広瀬ちえみは「読みをひろげれば、人間だっていろいろな性格が集まっていい集団になれるかもしれない。でもこれはなかなか難しいものが含まれてもいるのだが」「ひとつの作品が世界をひろげてくれ、なんといっても『不協和音』と『出汁』の組み合わせは驚異である」と書いている。高瀬霜石も「不協和音」の句に触れて、「エー」の部分は関西弁の「よい」という意味にも取れるが、「エー、そのココロは」というふうに落語的オチと読んでもおもしろいのではないかという。また霜石は「唇の動きは」の句について、「特選の句は、心に滲みた」「僕にとってはどっしりと重く、かつ救われる句でもあった」と述べている。むさしは「からっぽに」の句を「シンプルでありながらも深い感動を誘う句」であり「17音のどこにも難しい言葉が出て来ない、それでいながら読む者の心を強く揺さぶる」と評価している。
以上、それぞれの選者の川柳観の違いが垣間見えるものとなっている。「共感と驚異」という二分法で言えば、「共感」の方に重点をおくか、「驚異」の方に評価基準をおくか、ということになるだろうが、両者が混在することもありうる。「言葉」に注目する場合でも、「言語センス」「言葉の力」「組み合わせ」と微妙にそのニュアンスは異なっている。
杉野十佐一賞は現代川柳の動向を知る上で重要な賞であり、現在の川柳状況を端的に反映している点でも興味深い。

「風」(編集発行・佐藤美文)は休刊中と聞いていたが、今回81号が「十四字詩誌上大会発表号」として刊行された。
短句・七七形式の川柳は武玉川調とも呼ばれ、川柳界の一部で愛好されてきた。現在は「十四字」または「十四字詩」という名称で定着しつつある。埼玉の清水美江(しみず・びこう)はこの形式を愛用し、「風」誌の佐藤美文はその系譜をひいている。
巻頭、『誹諧武玉川』の作品が掲載されているので、何句か引用する。

雫の伝ふさほ鹿の角       『誹諧武玉川』
取付安い顔へ相談
夜ハ蛍にとぼされる草
利口になって飛ばぬ清水
おどりが済で人くさい風

さて誌上大会の兼題「メール」から。

時効のメール灰へ変身      藤田誠
メール開けると化粧濃くなる   原名幸雄
依存症かな肌身離さず      菊田啓子
メール集めて機を織ります    茂木かをる
メールで遊ぶボクじゃない僕   清水香代子
木偶のメールを風がさらった   加藤孤太郎

十四字は一句屹立させるのがむつかしいが、五七五定型よりさらに短い詩形として可能性のある分野である。

「ふらすこてん」(発行人・筒井祥文、編集人・兵頭全郎)が創刊3年目に入った。
13号の巻頭言に筒井祥文はこんなふうに書いている。
〈既に、伝統か革新かなどと悠長をいっている場合ではないのです。その前に作っているものが「川柳」なのか「川柳もどき」なのかの色分けをしなければならない時代に突入しているのです〉
文言だけを見ると「俳句」と「俳句に似たもの」論争と同じように受け取れるかも知れないが、祥文の真意は非伝統的な作品を排除しようというのではなく、伝統川柳を自称するものがすでに「川柳」ですらないほど崩壊しているという危機感にあるだろう。
「石の上にも3年」とは古い諺だが、一誌を立ち上げて3年目を見すえながら、祥文は次の一手を考えているのだろう。同人作品から。

世の中に門は三個と決められる      兵頭全郎
ネジ山へ薄き少女に手をひかれ      吉澤久良
懊悩に歯間刷子は行きつ戻りつ      上野勝彦
〈自問樹〉の実が爆ぜました乱とでました きゅういち
入国のカニの水虫検査せよ        壺内半酔
胴長の虫ドボンから這い上がる      くんじろう
壬申の乱を問診票に書く         井上一筒
天気図の中の人魚は溺れている      富山やよい
さっきから停車するのは同じ駅      山田ゆみ葉
梟の明るい爪を我慢する         筒井祥文

『川柳木馬』126・127合併号は昨年9月に開催された「第2回木馬川柳大会」の発表誌である。ここでは事前投句「ひらく」をめぐって、林嗣夫・石田柊馬・吉澤久良の三者による合評を取り上げる。特に、次の2句をめぐるやり取りは、三者の読みの差異を際立たせていて興味深い。

モーゼの海を渡りゆく思惟 一羽
切開部分から出たのは液体の姉

「モーゼの海」について、吉澤は映画「十戒」にふれつつ、一般に抽象語を使うのは難しく、抽象語だけが浮き上がってしまう傾向があるが、この句では「思惟」という抽象語がモーゼの人物像と共鳴しあうことによって、そのような欠点から免れていると述べた。また、一字空けによって、視線が海の平面から空高く飛ぶ一羽の一点に集中すると評価した。林も「ひらく」という題からモーゼの海を着想した点を認め、イスラエルの民の道行きを「渡りゆく思惟」と的確な表現をしているが、「私の生活」から遠かったので取れなかったと述べた。石田は、思惟している一羽(ひとりの人間)がモーゼと同じようなことを考えようとしていると読むが、そこにナルシシズムを感じて取らなかったと言う。吉澤はこれに反論して、自分から離れてゆく虚構であってもまったくかまわない、問題となるのは一句の構造であり、「一羽」は作者自身ではなく、作者は「一羽」を外から(別の視点から)見ているのだと述べた。
次に、「切開部分」について、林は「川柳という言葉の領域を押し広げようとする意欲的な実験的な作品」と評価しつつも、「液体の姉」と書いて何が表現されるのだろうと疑義を呈した。石田はこの句に対して「川柳的な意表」を書いたものとし、こんな意表のつき方をしなくてもいいんじゃないかと述べた。これに対して、吉澤は「言葉と言葉の関係性」から言えば「液体の姉」は詩的であると評価した。

各選者の特選句を抜き出してみよう。ここでは選句基準を問題にしているので、作者名は書かず、選者名のみを表示する。

病める貝ひらけば真珠宿りたり   林嗣夫特選
本開くやさしい睡魔呼びたくて   石田柊馬特選
モーゼの海を渡りゆく思惟 一羽  吉澤久良特選

三人の選句基準には共通点もある、「私が私ではないものに出会った時の驚き」「意外性」(林嗣夫)、「言葉と言葉との関係性」「一句の虚構性」(吉澤久良)、「作品がどのように私の知らない世界を教えてくれるか」(石田柊馬)など。けれども具体的な選句においては差異が明らかになってゆく。「意表」「意外性」についても、「破壊するだけでは意味がない」という吉澤と「類句を怖れてはいけない」という林とではニュアンスが異なる。
もっともペシミスティックなのが石田柊馬である。彼の第一基準にあてはまる作品がないから、第二基準「言葉と言葉との関係性」によって選をするという。
「意表」をめぐって、言葉の破壊のみを目的とした意表をつくだけの作品なのか、それとも真に詩的飛躍に成功した作品なのか、その見極めが問われるところとなっている。

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