2011年1月21日金曜日

「私性」をめぐる若干の議論

短歌誌「ES」が創刊10年を迎え、第20号(2010年12月15日)を発行した。
編集発行人・加藤英彦、同人に天草季紅・江田浩司・桜井健司・山田消児などの気鋭のメンバーをそろえている。「ES」という誌名のあとに毎号異なる言葉を添え、たとえば19号は「ESそらみみ」、20号は「ESコア」である。
今回の20号の特集「現代短歌との闘争」では7本の評論をそろえていて、とても刺激的である。ここでは短歌の「私性」をめぐって、加藤英彦と山田消児の文章を取り上げてみたい。
加藤英彦の「幻の筆者への覚え書き―実在の作者から非在の筆者へ―」は次のような問いから始まっている。
「人はものを書くとき、なぜ筆名を用いるのか」
加藤は複数の筆名をもつ作家や寺山修司、覆面作家などの例を挙げながら、次のように述べている。

「実作者Aが、まったく別の人物として作家名Bを名のることは許されないのだろうか。生年詐称や性別詐称というとき「詐称」という言葉の裏には、実作者と作家名の一体性への抜きがたい信頼がある。筆名は許容するが、それは同一人である作者の実在を前提とした上での話なのだ。しかし、ひとりの人間が文学的虚構としてまったく別のもう一人を誕生させるなら、それを詐称とは呼ばないだろう。つまり、実在の作者=筆名の作家という等号を最初から外してしまうのだから、そこでは詐称されるべき実在自体が存在しない。このすべてを〈虚〉に帰結させようとする地点。本名も年齢も、性別も経歴も、いや自らの肉体すらも〈私〉の属性に過ぎないのであって、それは〈私〉そのものではないという場所。そんな場所があってもよいようにぼくには思える」

加藤はそのような例のひとつとして、1989年に「短歌研究」新人賞を受賞した久木田真紀のことを紹介している。「時間(クロノス)の矢に始めはあるか」30首の作者は、モスクワ生まれ、オーストリア在住の18歳の少女ということだった。やがて、この少女が実在しないという噂が流れ、少女の写真も偽物だったという。久木田真紀は歌壇から消えていった。8年後の1997年、雁書館から歌集『時間の矢に始まりはあるか』が出版された。作者名は藤沢螢となっていた。これもまた本名ではない。作者の氏名も性別も年齢も〈虚〉であったのだ。
いくつかの具体例を挙げながら、加藤は再び問う、「筆者とは誰か」と。

〈短歌は一人称の文学であると言われるが、これは作中の「われ」が作者である〈私〉の反映であるという近代以降の約束事であった。この作者である〈私〉は、筆名A=実作者Bという構図から、現実の作者と作中の「われ」とは同一であるという前提によって導かれたものである〉

この同一性を覆したのが前衛短歌であった。

〈作中の「われ」は必ずしも作者自身であるとは限らないし、ときにその「われ」が皇帝ネロであってもよいではないかという虚構への振幅のふれ具合が、表現の可能性を大きく広げたのだ〉〈それは作中の「われ」=実作者という一人称神話への対立軸として、積極的に虚構を導入しようとするものであった〉

ここには二つの短歌観が短歌史に即して要約されている。
前者から後者への移行はスムーズに行われたのではなく、「われ」という一人称を役者が役を演じる場合のような役割詩(「われ」が皇帝ネロというような場合)の段階をいったん挟まなければならなかった。
加藤の評論に戻ると、そもそも〈作中の「われ」=実作者〉という図式は本当なのか、と加藤は問う。「境涯詠」では〈作中の「われ」〉は現在でも作者自身と考えられている。作者も読者そう思っているのだ。けれども、加藤は「作中主体は実作者の無意識が描いた虚像」ではないかという立場から、次のように述べる。

「それは、鏡に映った〈私〉を自らの投影であると信じるか、それは私そのものではないと思うかの違いのようにもみえる。無数の鏡にうつるこの夥しい〈私〉の変容。ぼくは鏡に映った〈私〉とは作品化されたひとつの像であって、私そのものではないと思うのだが、〈私〉の投影であると考える人たちがいても不思議ではない。ただ、そうであるならばその無数の〈私〉を統御している存在とはいったい何なのか」

これは短歌のみならず短詩型文学の「私性」と「作者」をめぐる本質的な問いである。
山田消児の〈「僕」が「私」であること―短歌における当事者性と普遍性〉は加藤とも共通する問題意識を実作者としての立場によりひきつけて論じている。
山田の第二歌集『アンドロイドK』の歌の解釈をめぐって山田は語りはじめている。

まだ終わりそうもないから僕らは撃つ壁にかならず追いつめてから   山田消児
はじめてだったからいくたびもいくたびも生き返らないように殺した

これらの歌をめぐってなされた、時代のメタファーとか抑圧される少年像の代弁者、成り代わりなどの解釈に対して、山田はある違和感を表明している。〈作者が「僕」に成り代わっている〉とか〈作者が少年の代弁をする〉というのではなく、〈これらの歌の中にいる「僕」はそれでも私自身なのだ〉〈彼は自分かもしれない〉という感覚である。ことは作者と作中主体との関係にかかわっている。
山田が挙げているもう一つの具体例は、次のような歌をめぐるものである。

奪われてしまうものならばはじめからいらないたとえば祖国朝鮮  野樹かずみ
そんなこと忘れていたが父母はかつて日本の国民だった
それも遺品のひとつとなりし押捺の母の指紋が眠る引出し

この歌について、作者は在日朝鮮人だとして、その当事者性を評価する批評があった。けれども、作者は日本人であり、作中の「私」は当然「虚構の私」であると思っていたのだった。その一連の経緯を紹介したあとで、山田は次のように述べている。

「作者の素生や体験や人となりが作歌の段階で何らかの形で作品に影響を与えることは間違いないと思うし、本格的な歌人論を書く際にそこまでを視野に入れるアプローチのし方は大いにありうるだろう。だが、作品と読者との最初の出会いの時点においては、作者や作歌の背景に関する情報は、読みを歪ませるよけいな雑音でしかない。もし、個人情報抜きには鑑賞が成り立たない歌があったとすれば、それは文学作品以前の代物ということになるのではないか」

以上、短歌誌「ES」を読みながら、短歌における「私性」と「作者」の問題を瞥見してみた。では、俳句や川柳では、「私性」の問題はどのようにとらえられているのだろう。

まず、俳句では「超新撰21」竟宴の第2部で「私性」が少し話題になったことが思い浮かぶ。上田信治が提出した資料では、「新撰」「超新撰」世代の150句が「過去志向」「超越志向」「表面性」「私性」「空項」の五つに分類されている。その第4項〈私性=ノーバディな私による「私」語り〉には次のような句が挙げられていた。

 蝸牛やごはん残さず人殺めず      小川軽舟
 コンビにのおでんが好きで星きれい   神野紗希
 空は晴れて自転車を磨く布はないのだ  山田耕司
 円山町に飛雪私はモンスター      柴田千晶
 梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど 外山一機
 冬の金魚家は安全だと思う       越智友亮

俳句では「作者主体」と「作中主体」との区別が話題になることはあまりない。主語が書かれていない場合は、主語は作者であるという前提で読むのが暗黙の了解であろう。引用した句においても、おおむねそれで間違いなさそうだが、ここでは強烈な「私性」というものは感じとれず、上田が〈ノーバディな私による「私」語り〉の呼んだのもそのためだろう。
ただ、柴田千晶の句だけは虚構意識が濃厚である。作中主体が作者自身ではなくて、東電OLになっているのだ。「私」は柴田千晶ではなくて、「円山町」という地名の連想から東電OLだという読みになるだろう。「私はモンスター」というフレーズもそうでなければ意味をなさない。東電OL事件が起こったとき、多くの女性が「東電OLは私だ」と感じたという。ここには前述の山田消児の「彼は自分かもしれないという感覚」と共通するものがありそうだ。

翻って、川柳においては「私性」の問題はどのように考えられているのだろうか。
「バックストロークin大阪」(2009年9月)で〈「私」のいる川柳/「私」のいない川柳〉というシンポジウムが開催されたあと、川柳における「私性」の問題はそれほど深められてはいない。
山田消児は『短歌が人を騙すとき』(彩流社)に収録されている〈「私」に関する三つの小感〉で川柳についてこんなふうに書いている。

〈「私性」と言ったときに、短歌と川柳では意味するものが微妙にずれるのだろうかとも思う。より短い川柳では人一人の思いを十分に述べることがそもそも困難だという物理的制約も、その差を生み出す要因のひとつになっているのかもしれない〉
〈川柳作家たちが川柳について書いた文章には、「私性」のほかに「詩性」「社会性」といった言葉もしばしば登場する。おそらく、作家による個人差や時代による潮流の変化の中で、それらがせめぎ合い混じり合いながら現在の川柳状況が形作られてきたというのが実際のところなのだろう〉

このような短歌の視線を意識しながら、ここでは広瀬ちえみの作品を取り上げておきたい。

流れ着くワカメ、コンブを巻きつけて   広瀬ちえみ
爪切ってもらう檻から手を出して
ニワトリの声で電話に出てしまう

これらの句では主語が省略されている。では、作中主体は「私」であろうか。主語が省略されている場合は「私」を補って読む―そのような読み方がここでは必ずしも通用するとは限らない。広瀬ちえみの川柳において、作中主体は「私」であると同時に「私」を越えた存在でもあるという多義性をもっている。作中主体を意識的に隠すことによって多彩な実存のイメージが喚起されるのだ。

最後にもう一度、山田消児の文章から引用する。

「短歌における〈私〉とは、第一義的には、その作中限りにおける〈私〉だと、私は思っている。したがって、作者がもし自己の内面なり体験なりを、私的な告白ではなく文学として表現したいと思うなら、作中で一人歩きする〈私〉にどこまで自分を反映させていけるかに成否は懸かってくることになる。加えて、作中の〈私〉が、読者をもまた当事者として内部に取り込むだけの吸引力を持つ存在たりえたなら、歌はさらに凝縮された内実を具えることになるだろう。そのとき、〈私〉は、作中の〈私〉であると同時に、作者でもあり、また読者でもある複合的な〈私〉に変身しているはずだ」

実作者の経験に裏づけられた言説であり、その射程距離は深い。
短詩型文学の諸形式における「私性」の問題。その問題意識を共有しながら、実作者はそれぞれの表現領域で自らの作品世界を切り開こうとしているのである。

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