2010年12月17日金曜日

『超新撰21』を読む

かねて予告されていた『超新撰21』(邑書林)がこのほど発行された。昨年話題になった『新撰21』に続いて、「セレクション俳人」に二冊目の「プラス」が付くことになった。短詩型文学に関心をもつ者にとっては、年末を飾る話題の一冊と言うべきであろう。

巻頭、種田スガルの自由律俳句は、玉石混淆で平凡な句もあるが、とてもおもしろかった。「俳号の種田は高祖母の兄であった種田山頭火から」とあるように、山頭火の血縁にあたる人らしい。けれども、DNAだけで作品が書けるわけもないから、サムシング・エルスの持ち主なのだろう。高山れおなの小論によると、たまたま手にした『新撰21』の北大路翼の作品に触発されて句作をしてみたというのだから、ユニークである。他の作者が顔写真を公開しているのに、「薔薇」の花を掲載しているところ、かつて「豈」で上野遊馬が自分の写真の代わりに「馬」の写真を掲載したときと同じような爽快さを感じる。「薔薇」を持っている指が写っているが、この指だけが種田スガルのものなのだろう。
アンチ定型の自由律は「一人一律」「一句一律」を標榜する。定型に乗せてうたうのではなく、句の内容によってリズムが変わるのである。

母の慈愛降り積もりて 発狂する多摩川べり
開け放つ繊細な谷間に 無毒の侵入りこむところ
伊達メガネ越し 異空間に脳内恋愛す

これらの句の一字空けは川柳人にとっても馴染みのあるものだ。俳句の切れの変わりに、一字空けによって飛躍する。
一方で、発想の平凡を感じさせるのは次のような句である。

終わり方知らぬ堕落の途
無人駅にころがるつぶれたランドセルの記憶
格子路地艶めく京の春の宵
親孝行にしばしの逃避旅行

普遍性によりかかった常識的な発想であったり、安易に定型に近づいてしまったりする。「無人駅のランドセル」という陳腐な風景を私たちはこれまでどれほど見せられてきたことだろう。この人のベースにあるのはエレクトラ・コンプレックスではないのかという気がしないでもない。
けれども、そのような失敗作にも関わらず、この作者には「可能性としての自由律」を感じさせる何かがある。
山村祐はかつて「一呼吸の詩」ということを唱えた。一呼吸の長さによって、句の長さが決定される。呼吸の長さは作者の個性である。ここから短律派と長律派が分かれる。種田スガルの一呼吸はそれほど長くはない。適度の長さといえば良いだろうか。

結合の相性で決まるペンギンの飛距離
猶予を何に賭しはてる

後者は100句の中でただひとつの短律作品である。

事前に発表されていた21人の作者と小論の論者のラインアップを眺めながら、最も期待していたのは山田耕司と四ツ谷龍の組合せである。作品、小論ともに期待を裏切らないものであった。
山田耕司は桐生高校の俳句クラブで今泉康弘とともに俳句を始めた。現在は「円錐」の同人である。

少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ
木と生まれ俎板となる地獄かな
狼よ誰より借りし傘だらう
一生にまぶた一枚玉椿
春の夜に釘たつぷりとこぼしけり

100句の中に「長岡裕一郎の急逝の報に接し李白の詩一編により 十三句」が含まれている。

浮雲に定型は無しただ往けり
行く春やゆくならちやんと手を渾れよ

連想するのは「豈」47号に今泉康弘が寄稿した「ミモザの天蓋―長岡裕一郎評伝―」である。長岡は2008年、アルコール依存症の果に肝硬変で亡くなった。句集『花文字館』が残されたが、長岡は「豈」のほかに「円錐」にも句を発表していた。長岡裕一郎の追悼文の中で今泉の文章を越えるものを寡聞にして知らない。
さて、山田耕司についての小論を四ッ谷龍は次のように書き始めている。

「精神の自由を保つということは、人にとりもっとも大切な価値の一つである。とくに創作者にとっては、世間の束縛を受けず自由を維持するという意思は重要なものである」

「常に本質を語れ」というのが批評の要諦であるにもかかわらず、本質論から語り始める批評家はいまどき多くはない。この一節こそ『超新撰21』の白眉であろう。

21人のトリを飾るのが川柳人・清水かおりである。

眦の深き奴隷に一礼す
相似形だから荒縄で縛るよ
想念の檻 かたちとして桔梗
エリジウム踵を削る音がする
手探りでビスマスを塗る青い部屋
落ちたのは海 一瞥の林檎よ

小論は堺谷真人が書いている。堺谷は「収斂進化」について述べている。

「異種の生物が同様の生態学的環境に置かれたとき、身体的特徴が似てくることがある。モグラとケラの前足、魚類とイルカの背鰭などがその好例だ。起源の異なる器官が、互いによく似た機能と構造を持つに至る」

このような観点から、堺谷は清水かおりの作品と昭和30年代の前衛俳句との類似を言挙げする。
他ジャンルと接するときの態度は難しいものである。「川柳」という「他者」を理解しようとするときに、俳人は「俳句」ジャンルにおける類似したものを通路として理解しようとする。それが「前衛俳句」である。
たとえば「俳句」ジャンルにおいて「詩」を表現しようとするときに、「俳句」は「俳句」なのだから、「詩」を表現したければ「詩」ジャンルに行けばよい、という立場がある。以前、堺谷の話を聞いた時に、彼は「詩の場で詩を表現するのではなくて、俳句の場で詩を表現したいのであれば、それも認められるべきだ」というようなことを言っていた。賢明な堺谷は「川柳」に対しても同様のスタンスをとっている。
俳句・短歌を中心とする表現史の中に川柳が加わっていく場合、従来のコンセプトの中で何がしかの位置づけをされることは避けられないかもしれない。「川柳」は「無季俳句」の一種だとか、「俳句ニューウェイヴ」の亜流だとかいう言説を私たちはどれほど聞かされてきたことだろう。
「収斂進化」という捉え方は、従来の柳俳交流史のなかで一歩前進と言えるかもしれない。清水かおりの作品は前衛俳句とは何の関係もないが、彼女の作品が俳句のセレクションの中で遜色なく言葉の力を発揮しているとすれば、それは新たな対話がはじまる契機となるに違いない。

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