2026年10月16日金曜日

伊賀上野「芭蕉祭」と三重県の連句

芭蕉の忌日は旧暦10月12日だが、芭蕉忌をいつ行うかについては二通りの考え方がある。新暦の10月開催と旧暦10月(新暦の11月)開催である。伊賀上野の芭蕉祭は前者の日程で、今年は10月12日(日)に式典が行われた。愛染院での墓前式典に続き上野市(忍者市)駅前での献花のあと、上野公園俳聖殿前にて式典。芭蕉翁献詠俳句が募集され、結果はホームページで発表されている。連句の募集もあって、特選1巻、入選15巻。伊賀上野の芭蕉祭は今年が第80回になる。
関連行事がいろいろ行われ、芭蕉翁記念館では特別展「芭蕉顕彰の歩み」が開催されている。12日にはハイトピア伊賀で「ふるさと連句会」が開催され、私も出席した。 発句を芭蕉さんにするか高虎さんにするか迷ったが、芭蕉祭なのでやはり芭蕉さんに。

秋麗翁の像の立ち姿

会場のハイトピア伊賀の五階から上野城天守閣がきれいに見える。四年前に伊賀を訪れたときライトアップされた天守閣の光景が印象に残っている。いま大河ドラマで話題になっている豊臣秀長のゆかりの地が大和郡山。金魚の産地としても有名だが、ブームで観光客も増えているようだ。秀長の家臣で築城の名手と言われたのが藤堂高虎。伊賀上野城は高虎が修築した城である。
2年前の2024年度俳文学会の全国大会もハイトピア伊賀で開催された。私は参加していないが、大会プログラムによると、「伊賀の芭蕉とその時代」という公開座談会が開かれている。
ここで三重県の連句について振り返っておきたい。
国民文化祭が三重県で開催されたのは1994年のこと。「第9回国民文化祭・みえ94」ですでに32年前のことだ。手元にある「三重県連句協会十年史」によると、国文祭の2年前、平成4年に「三重県連句協会」が設立され、翌平成5年にはプレ国民文化祭文芸大会が伊勢市観光文化会館で開催されている。本番の第9回国民文化祭みえ94連句大会は10月23日に津市勤労者福祉会館で開催され、全国から217人の連句人が集まった。前日の22日は伊勢神宮参拝のあと神宮会館で前夜祭が行われ、168人が参加した。三重県連句協会の方々の努力の結果であるが、このころは連句復興の最盛期で、振り返ってみると今昔の感がある。
国文祭後に三重県で開催された主なイベントを拾っておくと、「曽良を偲ぶ連句会」(平成9年5月)、「荒木田守武没後450年記念連句大会」(平成11年8月、いせトピア)、「片岡白華を偲ぶ連句会」(平成12年2月、四日市市文化会館)などのほか「みえ県民文化祭連句大会」、「しぐれ忌連句大会」(上野天満宮、上野市栄楽館)が毎年開催されている。また『三重県連句作品集』が平成13年までに5冊発行されている。
『三重県連句協会十年史』は平成15年の発行だが、このとき三重県には16の連句グループがあった。その多くはいま活動を続けていない。三重県は荒木田守武、松尾芭蕉のほか伊勢派俳諧の拠点であったが、明治以降には旧派の俳諧は衰えていった。それが国民文化祭を契機として2000年代前後に盛り上がりを見せた。伊賀連句会はその系譜につらなっているが、「芭蕉祭」を契機として伊賀の連衆と交流できたのは貴重な経験だった。
連句会の終了後、ひとり菅原神社(上野天満宮)に参拝した。ここは若き芭蕉が江戸に立つ前に『貝おほひ』を奉納したところである。もうすぐはじまる秋祭にはだんじりが集結することでも有名だ(ユネスコの無形文化遺産)。そういえば昼食に入ったレストランで酒瓶に9基のだんじりのラベルが貼ってあるのを見た。 街を歩いていると芭蕉句碑に出会った。芭蕉が故郷に帰ったときの句である。

 さまざまの事思ひ出す桜かな  芭蕉

2026年9月25日金曜日

曾根毅句集『十翼』

曾根毅の第二句集『十翼』(東京四季出版)が発行された。
曾根とはけっこう以前から交流があって、俳句・川柳の合同句会である「北の句会」でよく顔を合わせたし、私の主催する「大阪連句懇話会」(第10回、2014年6月)にもゲストとして来てもらったことがある。「現代俳句と現代連句との交流」というテーマで、ちょうど彼が芝不器男俳句新人賞を受賞したところだったので話をしてもらった。「ロータス」「光芒」などの俳誌で彼の句はちらちらと眺めていた。彼が短歌を作りはじめたときは驚いたが、歌人としても実績を重ねている。
第一句集『花修』(2015年7月、深夜叢書社)が手元にあるので、何句か引用しておこう。

玉虫や思想のふちを這いまわり
桐一葉ここにもマイクロシーベルト
山の蟻路上の蟻と親しまず
永き日や獣の鬱を持ち帰り
梅に種あれば舟歌恋しけれ

東日本大震災のときに、曾根は仕事で仙台にいたので、当時の状況を体験している。
次に第二句集『十翼』から。

爆撃の直後の藁の匂いかな(「聲」)
僧兵の骨の見えたる蓮かな(「焼身」)
沈黙の傘で見に行く花氷(「氷」)
花であることを忘れし液体よ(「華」)
ただ黒い輪郭のあるダリアの夜(「輪郭」)

「後記」によると、コロナ流行時の外出自粛を追い風と捉えて想望俳句や連作に取り組んだという。引用句のあとに連作のタイトルを添えておいた。連作全体を読めば、より興味深く受け取れると思う。
「句集名は、孔子が著したとされる易経の解説署名を拝借しました」「また、心理学者のユングがシンクロニティ(共時性)を提唱するきっかけになったのが易経であることを知り、客観的な表現が己を離れ得ないということに興味を持ちました。本当の自分は、自己を離れてもどうしようもなく残るもの。意識的に自己を抜きにして、例えば偶然目にした言葉や文献、写真などを詠んでも、そこに通底している無意識のオリジナリティを大切にしています」(後記)
第一句集『花修』は世阿弥の『風姿花伝』から、今度の句集名は易経関係とは手がこんでいる。「易」を解説する十編の注釈書は鳥が翼を広げて本体をささえるようなイメージで、なかでも『繋辞伝』が有名。
曾根は短歌も書くが、短歌と俳句は相容れないところがあって、マルチ的な才能の持ち主は別として、両形式を実作する表現者は珍しい。「翔臨」116号(編集発行・竹中宏)に曾根は「短歌と俳句、定型と我について」という文章を掲載している。句集とあわせて読むと興味深い。
曾根は2018年より短歌を始めたが、俳句と比較したとき、短歌の暗黙のセオリーは次のようなものだという。「短歌は『三十一文字以外は自由』と言いながらも、共通認識として『我(われ)を詠うものである』ということが強固にあるということです」
「俳句における創作は意識的な自己表現ではなく、無意識や言語化できないような深層に触れる原体験や身体的な衝動に端を発するものが本来ではないかと思うのです。意識や意図は、既知の言葉や、他者からどう見えるかというような物語に依存します。しかし、俳句定型という強引な型に無意識をぶつけることで、作者自身が驚くような、文脈を超えたところにある未知の何かが表現されます」
断片的な引用では曾根の真意が伝わらないので、できれば発表誌をお読みいただきたい。句集の後記に書かれていたことが、より詳しく論じられているので、曾根の現在の俳句観が立ち上がってくる。
同じ素材を用いた俳句と短歌の実作が挙げられているので、最後に紹介しておきたい。

  焼身
漆黒の数珠ガソリンを滴らせ
漆黒の数珠の艶めくガソリンの十リットルが滴るばかり

2026年9月11日金曜日

『鏡像事変』

「川柳スパイラル」27号はゲスト作品として南雲ゆゆ、水埜青磁、空野つみき、加那屋こあ、馬場叶羽の句をそれぞれ10句掲載している。1句ずつ紹介する。

この儒艮、マーク・ロスコの黙示では?  南雲ゆゆ
いっけな~い!で建立されしプラクラや  水埜青磁
人形に青信号を塗る 剥がす       空野つみき
ホワイトノイズ混ざらない蝶もいる    加那屋こあ
そうだわと言って気球に乗っている    馬場叶羽

前の三人が川柳人、あとの二人が俳人である。
南雲ゆゆには句集『姉の胚』があり、第二句集『揶揄の¨』(やゆのうむらうと)』も10月に発行予定だという。水埜青磁、空野つみきとは今年3月の「らくだ忌第5回川柳大会」で出合い、作品を依頼した。加那屋こあは「俳句四季」の新人賞を受賞。「朝日新聞」8月5日付夕刊の「あるきだす言葉たち」に「ひかりのまま」12句が掲載されている(「ブローティガン読む夏掛にくるまって」)。馬場叶羽とは奈良の「わかくさ連句会」で知りあって、5月の「関西連句を楽しむ会in須磨」にも出席してもらった。
さて、いまネットを中心に精力的に川柳を発信している表現者にnesがいる。nesは「アイリス句会」を主催するネット系の若手川柳人だが、関西の幾つかのリアル句会にもときどき顔をみせている。彼が最近公開した「かんたん句会」はアカウント登録なしで川柳・俳句の句会を開催できるサービスで、頻繁に利用されているようだ。
nesが5月に発行した『鏡像事変~現代川柳アンソロジー』にはネット系の若手川柳人の作品が掲載されているので、「川柳スパイラル」のゲストと重なる作者を中心に紹介しておきたい。

くちづける度に瓦は落ちていく  下野みかも
花鋏 めぐりあってやってもいい 水埜青磁
バス停に人魚を棄ててずっと雨  空野つみき
数えるといつも奇数のこどもたち 桜庭紀子
地図をかく私がいない国のこと  野に咲くお花

下野は恋句を中心に30句をそろえている。現代川柳で恋の句はもっと書かれてもいいと思っている。ステレオタイプの表現ではなく、深化した現代的な恋の句が現れてほしい。
水埜の句、題詠ではないだろうが、「花鋏」が題(発想の起点)のような役割を果たしていて、そこからどのような方向に飛躍するかというのが読みどころだ。このような方法は雑排の冠句にもあって、「羊飼い まさか俺が狼とは」「宝石箱 いちどに春がこぼれ出る」などの例がある。「羊飼い」「宝石箱」が冠題。
空野の句、「バス停」は川柳でよく詠まれる場所だが、そこに人魚を棄てるという。端正で安定した句作だ。
桜庭の句、「川柳スパイラル」の句会でも高得点を集めた作品。新奇なことばは何も使われていないが、改めて言われると不思議な現実が表現されている。
野に咲くお花は「鱗kokera川柳賞」で平岡直子の目にとまったことで注目されたが、「かわいい」というコンセプトを中心にした日常詠が持ち味である。
「川柳スパイラル」27号では特集「現代川柳と私」のコーナーに水城鉄茶、下野みかも、桜庭紀子、野に咲くお花、森砂季のエッセイを掲載している。短詩型文学の場合は、作者のことがある程度わかっている方が作品を鑑賞しやすい。もちろん作者と作品を安易に結びつけた解釈は避けなければならず、作品の背後に作者の実人生を貼りつけたり、作者と作中主体を混同するような読みとは私も距離を置いてきたつもりだ。ただ、リアルで会ったことのない作者の創作環境を知ることで、その作者への関心が深まることも事実である。川柳を書き続けてゆくモチベーションを維持することが大切だ。

2026年9月4日金曜日

泉淳夫の戯作

8月のNHK文化センター梅田教室「はじめまして現代川柳」で「ふあうすと」系の作者、大山竹二と泉淳夫の作品を取り上げた。大山竹二については「大山竹二における人間の探求」という文章を書いたことがあり、『蕩尽の文芸』にも収録されている。また泉淳夫については、石田柊馬の『LPの森/道化師からの伝言』に「病涯」として淳夫の『風祷』が紹介されている。そこでは次のような句が引用されていた。

たぐり寄せては小面の紐に泣かれる  泉淳夫
すすき原狂い小袖のひらひら翔つ
浮草や水の狼藉はじまりぬ

「『風祷』(1987年)は病んで声を失い弱ってゆく自分を見つめる孤影の句集である。病んでいる、病は不治のものであろう。老いの自覚もある。普遍の悲しみとはいえ、それをどのように書くか。どのように対峙するか。病老死の認識がしっかり確かに自分のものとなったときの、未知の言語空間はどのように泉淳夫にあったのだろう。世に病涯を書いた名句は多い」と石田柊馬は書いている。
『風祷』は晩年の泉淳夫の句境を表わすが、そこに至るまでの彼の歩みをまず見ておきたい。

つばくらめ都会の河は濁りゆく(『平日』)
如月の街 まぼろしの鶴吹かれ(『風話』)
雪の深さに沈める壺が音もたず
童女ひとり風と遊びてきりもなし
終着駅 枯野に椅子が一つある
凧絵師の一生賭けてきた軽さ
夢のなか絶えて会わざる馬立てり(『風祷』)
わが死後の二月よ蒼いランプを吊れ
萩の寺 小面通す 萩ざかり

『平日』は家族詠を含めた日常詠、『風話』にはそこから脱皮した粒よりの句が多い。『風祷』は柊馬のいうような病涯句。泉淳夫の句集には二系列あって、『平日』『風話』『風祷』が句集、『女絵師』『楽屋酒』『博多祭時記』が戯作と称されている。前者は泉淳夫のおもての顔、後者が淳夫のもうひとつの顔とも見えるが、どちらも同じ淳夫の顔とも言える。泉淳夫の芸の幅であり、以下、後者の戯作の方を紹介していこう。(『平日』『風話』のあと『市街逍遥』が出ているが、作者のあとがきには、第三句集と呼ぶべきものではなく、『楽屋酒』からの展開を句会作品主体に集めたものとあり、微妙な位置にある句集である。)
『女絵師』はご覧になる機会がないと思うので、多めに引用しておく。『平日』発刊を機に出された江戸情緒あふれた百句を集めた小句集である。

伊勢講にして今日を出る若旦那
突出しの姉の店知る角兵衛獅子
宿下り継母の化粧を白く見る <
両国の灯へ年隠す蛇使い
女絵師根岸の寮へ出入する
焼香の順姐さんの目が険し
検校のひとり笑いが噛む小判
三度笠江戸をぷっつり口にせず
丸山を踏絵の夜からひとり消え
広重の雨雲助の尻を打ち

一読してわかるように、江戸の市井を題材として、川柳によって過去の一時代を構築している。戯作と称しているが、遊戯的なものではなく、句の作り方はしっかりしている。『平日』の最後に「課題一郭」の章があり、たとえば「雁(森鷗外作より)」として「飴細工おとがい細い娘に育ち」「寝返りの向きも娘の住む無縁坂」「風邪気味の父を案じて二日くる」などの句が詠まれている。鷗外の小説を素材とした題詠なのである。同様に『女絵師』も江戸をテーマにした連作となる。この方法は次の『楽屋酒』『博多祭時記』でも踏襲されている。

鳥追のふるいつかせる括り顎(『楽屋酒』)
十五夜の寮に呼ばれてくる笛師
江戸中を白い夜にする芒売り
鐘紡の塀に陽がある昼の酒(『博多祭時記』)
中洲出て中洲に戻る舟遊び
博多時間何時もの顔が二人来ず

泉淳夫は博多生まれの博多っ子であった。後に小倉に転居したが、小倉には違和感を感じたようだ。『博多祭時記』はいまや過ぎ去った時代の博多の風物を川柳作品として再現しようとした句集である。「博多の町々にはその頃(大正末期~昭和初期)、こころの触れ合いを持つ善き隣人たちが、倚り合うように生活していて、その人たちの描く日々の哀歓には何とも云えない潤いと艶やかさがあった」(あとがき)
『博多祭時記』の終章「博多往来」の句を紹介しておこう。

珈琲が匂うレーロの昼下がり(東中洲)
バッテン館間奏楽に眼をつむり
鐘紡の塀道行のように添い
常盤館馬賊藝妓を丸抱え(花街)
濱新地矢野サーカスが吹き鳴らし
トロ食いに新道折れる玉屋ずし(町筋)
川端ぜんざい博多の下戸の顔が合い(店舗)
夢の久作のごたーる養子連れてくる(人物)

2026年8月28日金曜日

寺田寅彦の連句

今年の国民文化(よさこい高知文化祭2026)は高知県で開催される。「川柳の祭典」は11月1日(日)四万十市しまんとぴあ、「連句の祭典」は11月15日(日)にオーテピア高知図書館で行われ、私は連句の祭典の方に参加予定である。ちなみに高知ゆかりの連句人に寺田寅彦がいて、寅彦が4歳から19歳まですごしていた邸宅を復元した寺田寅彦記念館もある。
8月9日の大阪連句懇話会では国文祭にちなんで、寅彦の連句実作と連句論をとりあげた。寅彦の連句作品は松根東洋城の「渋柿」に49巻掲載されている。連衆は寅日子(寺田寅彦)・東洋城・蓬里雨(小宮豊隆)である。次に挙げるのが「渋柿」に掲載された最初の歌仙で、大正14年10月に掲載されている。このとき小宮豊隆はドイツに留学中だったので、東洋城との両吟になっている。オモテ六句のみ引用する。

水団扇鵜飼の絵なる篝かな  東洋城
 旅の話の更けて涼しき   寅日子
縁柱すがるところに瘤ありて   城
 半分とけしあと解けぬ謎    子
吸物をあとから出した月の宴   城
 庭のすすきに風渡る頃     子

寅彦・東洋城・豊隆の三人は近代連句史に大きな役割を果たしていて、『連句辞典』(東京堂出版)の人名篇のページには三人とも名前が掲載されている。小宮豊隆は漱石研究や俳諧研究で知られ、俳文学会の初代会長をつとめた。次の歌仙は、小宮が東北帝国大学の教授として仙台に赴任する際に巻かれたもの(昭和2年2月「渋柿」掲載)。

送別
あすよりはみちのく人や春の雨 東洋城
 まだ雪のこる西側の山    蓬里雨
沈丁花こぼるる里に移り来て  寅日子

以下省略。昭和10年、東洋城の新居落成のときに巻かれたのが歌仙「冬空や」の巻(昭和10年6月「渋柿」掲載)。こういうときは客が発句を詠んで新居をほめ、亭主が脇で挨拶をかえすのが普通だが、この歌仙では東洋城自身が自祝の発句を詠んでいる。これも東洋城の性格であろうか。

草庵棟上
冬空や白木の柱押し立てて  東洋城
 心静まる石上の霜     寅日子
半日の損得客に量るらむ     城

途中省略して、名残りの表の7句目から。

ままならぬものを譬はば針のめど 寅日子
 無き柄をすげる縁のさまたげ  東洋城
もののふの矢竹心に恋ひわたり    城
 内侍に化けし狐うつくし      子
濁り江の雨を醸して月の暈      子
 水嵩見ゆる野菊溝萩        城

矢竹心(やたけごころ)は勇猛心。昭和10年に寅彦は亡くなっているから、晩年の彼は連句に打ち込んでいたことになる。
寅彦は連句評論もいくつか書いていて、「連句雑俎」(「渋柿」昭和6年3月~12月)は代表的なもの。連句の独自性・連句と音楽・連句と合奏・連句の心理と夢の心理・連句心理の諸現象・月花の定座の意義・短歌の連作と連句など多岐に渡って連句を論じている。
「俳諧の本質的概論」もよく知られている。能勢朝次の『連句芸術の性格』にも「尊敬する先覚者」として寺田寅彦の名が挙げられ、「俳諧の本質的概論」が引用されている。エイゼンシュテインの映画などの影響でモンタージュ理論が喧伝され、俳句の取合せにも応用された時期だった。
「近頃映画芸術の理論で云うところのモンタージュはやはり取合せの芸術である。二つのものを衝き合わせることによって、二つの各々とはちがった全く別ないわゆる倍音或いは綜合音ともいうべきものを発生する」「常に俳諧に親しんで其の潜在意識的連想の活動に馴らされたものから見ると、たとえば定家や西行の短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方が顕わであり過ぎるっような気がするのを如何ともすることが出来ない。斎藤茂吉氏の「赤光」の歌が吾々を喜ばせたのは其の歌の潜在的暗示に富む為であった」「潜在的である故にまた俳諧の無心所着的な取合せ方は夢の現象における物象の取合せに類似する」
映画と連句の関係については、「映画芸術」のうち「映画と連句」の項がわかりやすい。
「あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろう」「発句はそれ自身の中にすでに若干の心像のモンタージュ的構成を備えているが、歌仙連句の中の付け句の一つ一つはそれぞれが一つのモンタージュビルドであり、その細胞である」「識閾の上層だけでつながったものは、つまり一つの静的な像である。いわゆる付き過ぎた連句は、結局一句を二つに分けただけで『歩み』はない」
寅彦は歌仙のほかに「三つ物」「二枚折」「二つ折」「二枚屏風」「トルソー」などの形式を試みている。詳しいことは寺田寅彦全集を参照していただきたいが、ここではRONDO(ロンド)という形式をとりあげる。10句形式で発句は長句のものと短句のものの二通りあるが、ここでは短句ではじまる作品を紹介しておく。

 氷を砕く音も短夜     寅日子
さまざまに心尽しの花の鉢    子
 娘をよんで本を読ませる  蓬里雨
蝿打の糸のほつれに秋見えて   子
 黍の葉にさす日も斜なる    雨
客曳の塩辛声もなつかっしく   子
 ををこで行李をぶらさげて行く 雨
時々は村の公事にも口利きて   子
 色のやけたる紋の桐の葉    雨
五月雨の匂ひ籠れる薬局に    子
 氷を砕く………………

挙句が発句に戻って回ってゆくのでロンドというわけだ。
俳諧接心の岡本星女は寺田寅彦から刺激を受けて、発句が短句からはじまる「R」という形式を試みた。旧聞に属するが『連句年鑑』(2002年版)からR「トレモロを」の巻を紹介する。

 トレモロをもて星の呼び合う  岡本 星女
耕すやイーハトーブの大地をば  葦生はてを
 サフランライスほんのりと黄  星野 焱
孔明に初恋のひとありしならん      星
 バンドネオンがジェラシーに哭く    を
伴天連の秘宝のありか刺青に       焱
 水神祭を河童祭と           星
実柘榴のからくれないに笑みこぼれ    お
 螻蛄放屁虫百足虫鬼の子        焱
大阪のあきない妹の嫁入りとは      星
 琥珀の化生素心蝋梅          お
サザビーズにチャーチル手沢のスキットル 焱

2026年8月13日木曜日

「あつたの杜」連句まつりと三河の俳諧

「あつたの杜」連句まつりは今年で7回目を迎え、8月2日にイーブルなごやで開催された。6座36人の参加があり、当日の連句作品は熱田神宮に奉納されることになっている。イーブルなごやには川柳の会で行ったことがあるが、連句会に参加するのははじめてである。JR名古屋駅のホームできしめんの店に入る。専門店で食べるより手ごろだ。金山までJRで行き、東別院まで歩く。東別院付近の以前入ったことのある喫茶店で連句会開始までの時間待ちをする。
連句会は盛会で、東京、横浜、松山など各地からの参加者があって交流できた。私の座には三河の俳諧について詳しい方がいて刺激を受けた。愛知は尾張と三河に分かれるが、尾張の俳諧については芭蕉の『冬の日』により蕉風発祥の地としてよく知られており、2016年の愛知国民文化祭の際には熱田や鳴海の俳諧めぐりもしたが、三河の俳諧については知識がなかった。
帰宅後、『東海の俳諧史』(さるみの会編)で調べてみると「三河蕉門」の項目があった。三河蕉門には西三河の岡崎と東三河の新城(しんしろ)という二つの中心地がある。元禄時代が全盛期で、享保にはいると凋落したという。荷兮編『曠野後集』には岡崎俳人も入集している。

にぎやかな中にしづけし盆の月  秋冬
いなづまに又くりかへす噺かな  鶴声
藤たれて光ありけり砂の色    霰艇

岡崎蕉門は完全には尾張から独立していなくて、尾張の影響下にあったようだ。当時、三河蕉門を代表する俳人と見られていたのが鶴声。鶴声が編者となった『柱暦(はしらごよみ)』から二句抜いておく。

白魚や銀をもて鋳る西施     鶴声
曲水や花の波行く小さかづき

『柱暦』から歌仙のオモテも引用しておこう。

活計をあらしにさする桜かな   釣眠
  もやすく渡る水の暖      秋冬
蚊帳のきれ田うちの食に打きせて 鶴声
  迦す仲戸を軒下へ出す      眠
名月も正直いはば内がよし     冬
  毛脚の露を鼻紙でふく      声

三河蕉門のもう一つの中心地、東三河の新城のリーダーだったのが太田白雪。元禄四年十月、白雪は自宅に芭蕉を迎えている。白雪は新城の庄屋・太田金衛門で、14歳の長男・重英と11歳の次男・孝知に芭蕉はそれぞれ「桃先」「桃後」の号を与えた。そのとき詠まれたのが次の発句である。

 その匂ひ桃より白し水仙花   芭蕉

少年たちの純粋な詩心を水仙にたとえ、「私」=「桃青」より清らかだという挨拶である。その後の白雪父子の句を挙げておく。

 刈りしほの麦吹く風や鳴海潟  白雪
 行き暮れて蚊の声すごし羅生門 桃先
 しがみついて砂に流るる蛙かな 桃後

やがて享保年間に入り、三河蕉門は静かに終焉を迎えることになる。
尾張俳壇は横井也有や加藤暁台などの活動が続くが、天保期に入って井上士朗の門人によって三河俳壇がやや活況を取り戻すことになる。『東海の俳諧史』の「天保俳諧」のページには三河について次のように書かれている。
「士朗門の逸材で、天保まで生きながらえて、その衣鉢を十分に伝え、岡崎正風を提唱したのが岡崎の青々処鶴田卓池だ。この人あるによって三河の俳界は統一せられている。彼はいまの菅生町辺に住んでいた紺屋の主人」「士朗在世中からよく旅に同行してるし、一人立ちしてからは門葉をつれて遠方まで俳行脚している。その為広く顔が売れていた」
『化政天保俳諧集』(古典俳文学大系16)に『青々処句集』が収録されているので、卓池の句を紹介していこう。

   正月十二日朱芳亭句会
 梅の気力ひらくばかりになりにけり
   水竹別荘
 蚊ひとつに夕ぐれを知るさくらかな
   朱樹翁十三回忌の追福をいとなむ日
 今日こゝにちなみわすれず閑古鳥

朱芳は士朗門の俳人。水竹は卓池の門人である。ちなみに水竹、塞馬、蓬宇が卓池門の三羽烏である。朱樹翁は士朗の号。士郎十三回忌に卓池は『安居鐘』を編んでいる。
卓池の俳諧行脚は各地に及んでいて、旅吟も多いので抜き出しておく。

 月仏信濃へ花のころに来て    (善光寺)
 目にさはるさくらいやしやわかの浦(和歌浦)
 しら川やこゝろとむればなく水鶏 (白河の関)
 朱鷺の羽に日影さしけり皐月雨  (新潟)
 橋だてやすゞみながらの人通り  (天橋立)
 とかくして芦に日の入るわかれ哉 (浪花・玉造)

『青々処句集』は水竹の序、塞馬の跋で卓池の七回忌追善として刊行された。塞馬の跋文には卓池の人柄が次のように書かれている。 「其性温順敦厚にしてよく人を究る故に、風雅を以て来訪する門人遊客日々に十を以て算ふ。其の盛莚思ふべし」

 春の雪ゆきの遠山見えて降る   卓池

2026年2月27日金曜日

連句の諸形式

国民文化祭・長崎(ながさきピース文化祭2025)「連句の祭典」の入選作品集が届いたので紹介しておきたい。形式は半歌仙で、485巻の応募があった。一般の部、文部科学大臣賞は半歌仙「潮騒」の巻(奈良県、捌・嵯峨澤衣谷)。

潮騒も静寂となりぬ憂国忌  嵯峨澤衣谷
 紅葉挟んだ読みかけの本  春野 彼方
窓を開け名残りの月を眺むらん   衣谷
 微かに揺れる軒の鳥籠      彼方
 (以下略)

五人の選者のうち二人が特選に選んでいる。
高尾秀四郎は選の観点として、次の六点を挙げている。
①発句の訴求力、完成度
②オモテ六句のオモテぶり
③ウラに入る転じの上手さとその後の暴れぶり
④琴線に触れるような情のある恋の場面展開
⑤味わいの佳句の有無
⑥見事で爽やかなエンディング
また、鈴木千惠子は半歌仙のあり方について、一花二月で構成されるが、応募作のなかには正花が二つ詠まれているもの・月が面ごとに一つずつが守られていないものがあり、許容できない。また応募作全体について、発句に一巻の牽引力があり、表六句が穏やかでありながら魅力的なものに惹かれる。月・花・恋の句にも注目、付けと転じの妙が大切、半歌仙を十八歩と考え一歩も後に帰る心のないものを選んだと述べている。
国民文化祭実行委員会会長賞は半歌仙「ゆゆゆ」の巻(愛知県、捌・瀧村小奈生)

光ゆゆ風もゆゆゆの猫柳      瀧村小奈生
 くすぐつたくて笑ふ山々     清水ましろ
トラックの荷ほどきの声うららかに 金子 ユリ
 地図を片手に歩く路地裏       小奈生
  (以下略)
「発句や付句の感覚がおもしろく、フィーリング付という感じ」(小池正博の選評)
選者によって連句観は異なるとしても、連句評価の基準はそれほど違わないと思われるが、基準を適用するするときの感覚の差はどうしても表れてしまうようだ。

徳島の連句グループ「花音」(はなおと)から連句集『花音』第十二集が届いた。
「花が開く時、人の耳には聴こえなくても、きっと小さな小さな音がしているのではないか。それを聴いてみたいものである」(三輪和「はじめに」)
新形式「花音」は「箙」(六・六・六・六の二十四句形式)を基本とするが、各面に花と音、正花は一つ、月は二としている。

パワハラがスポーツ界に蔓延し
 自然の秩序守り月冴ゆ
蝋梅は一斉に咲き香り立ち
 写真撮影フラッシュを焚く
ルンルンの婚前旅行ハワイへと
 泡のごとく消ゆるときめき

三句目が正花ではない花、四句目が音になっている。
これをさらに発展させて、最後に二句のコーダを付けたり、一連の句数を六句から四句へとコンパクトにするなどの試みをしているのは興味深い。

徳島県連句協会からは「ロータス」No.22が届いた。ここにはさまざまな連句形式が掲載されていて、半歌仙、二十韻のほか花音、非懐紙、山茶花、賜餐、オン座六句、ソネット、獅子など新形式を実作する際に参考になる。

最後に、「第27回大分県民文化祭連句大会実作作品集」について。昨年11月に大分県の中津市(中津文化会館)で開催された連句大会の記録である。中津は福沢諭吉のよかりの地で、中津城もあり、鱧料理でも有名。連句会の前の講演「中津の食と文学散歩」は興味深いものだった。

冬の城朝の光を浴びて建つ
 再訪するは紅葉散るころ
料亭の来歴長く記されて

座の文芸としての連句は、各地で開催されているのだ。

2026年2月22日日曜日

ココシュカ「風の花嫁」

マーラーの交響曲はちゃんと聞いたことがないが、「大地の歌」だけはレコードを持っていて繰り返し聞いている。私が持っているのはワルターの指揮ではなくて、バーンスタイン指揮、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団、フィッシャー・ディースカウのバリトン。第6楽章「告別」の最後はこんなふうに終っている。

春になれば
愛する大地は再びいたるところ花が咲き乱れ
樹々は緑に覆われて
永遠に、世界の遠き果てまでも青々と輝きわたる
永遠に… 永遠に…(ewig…)

マーラーはベートーベンなどが第9交響曲まで書いて死んだことを恐れて、彼の9番目の交響曲には番号を付けずに「大地の歌」としたという。また彼は『カラマーゾフの兄弟』を愛読していて、イワンとアリョーシャのどちらが正しいのだろうかと繰返し言っていたそうだ。
私が「大地の歌」を聞くのはこのようなマーラーの文学的イメージからなので、福永武彦も「告別」という小説の末尾で「大地の歌」を用いている。
さて、このマーラーの妻がアルマ・マーラーで、彼女は21歳のときにマーラーと結婚し、31歳で死別している。二人の最初の出会いは1901年で、アルマはこんなふうに書いている。
「1901年の11月のある午後のこと、友だちと環状通りを歩いていた私は、たまたまツッゲルカンドル夫妻に出会った。こおのツッケルカンドルという人は、すぐれた解剖学者であると同時に、洗練された趣味を持ち、ユーモアのセンスに富んだ人だった。
『今日マーラーがわが家に来るんですよ。いらっしゃいませんか』
私はお断わりだった。マーラーなどに会いたくなかった。実際のところその夏は、私は故意に、しかも、マーラーと顔を合わせる機会を避けてきたのであった。というのは、彼の評判が悪かったからである」(『グスタフ・マーラー 愛と苦悩の回想』)
その一週間後、再度誘われたアルマはマーラーと会う。マーラーは彼女に関心を示し、ふたりは結婚する。アルマは21歳、マーラーは39歳。マーラーはウイーン王立オペラ劇場(現在の国立歌劇場)の指揮者だった。
アルマはたいへん魅力的な女性だったらしく、31歳でマーラーと死別したあと、バウハウスの巨匠として有名な建築家のグロピウスと再婚、グロピウスと離婚したあと作家で詩人のフランツ・ウェルフェルと結婚、ナチスから逃れてアメリカに亡命する。恋人も多く、画家のココシュカが描いた「風の花嫁」はアルマをモデルにしたと言われる。彼女は音楽家、建築家、作家、画家をそれぞれとりこにした運命の女性である。
ココシュカはドイツ表現主義の画家で、「風の花嫁」は1914年の作。現在はバーゼルの美術館が所蔵している。船の中に男女が横たわっていて、女の方は眼をつぶっている。この絵は「風の花嫁」とも「突風」とも呼ばれていて、なぜタイトルが二つもあるのか不思議に思っていたが、ドイツ語の原題は「Windsbraut」で突風という意味になるが、WindとBrautに分けると「風の花嫁」になる。
ドイツの詩人で若くして死んだゲオルク・トラークルに「夜」という詩がある。トラークルはウイーンの滞在中、しばしばココシュカの仕事場を訪れて、この作品を見る機会があったという。「夜」はこんな詩だ(吉村博次訳)。

おまえ、荒あらしい裂け目をぼくは歌う、
夜の嵐のなかに
高くそそりたつ山脈を。
灰色をしたおまえたちの塔は
氾濫している、地獄の悪童どもで、
火をふく獣たちで、
ささくれた羊歯や唐檜で、
水晶のような花花で。
(中略)
黒ずんだ断崖をこえて
灼熱した突風が
氷河の
青い波が
死に酔ってなだれ落ち、
そして谷間では、鐘の音が
ごうごうと鳴りわたるー

(後略)

アルマはココシュカの七歳上。アルマとの生活をココシュカは「思い出すのも嫌な、落ち着きのなかった日々」と語っている。突風と結婚することはできない、ただ描くことができるだけだ、と言われるが、うなずけるところである。
さて、笹川諒の歌集『眠りの市場にて』(書肆侃侃房)に「風の花嫁」を詠んだ歌があるので、最後に紹介しておく。

ココシュカの《風の花嫁》を飾るだろう死後の白くて無音の部屋に 笹川諒

2026年2月13日金曜日

須磨における芭蕉と放哉

「関西連句懇話会」は偶数月の第一日曜に大阪・上本町で開催している。今月2月で第51回になった。5月に須磨寺で連句のイベントを予定していて、その予習を兼ねて、芭蕉の「笈の小文」の須磨の部分と、須磨寺の大師堂で堂守をしていた尾崎放哉について報告をした。
須磨は文学的イメージの濃厚な地で、在原行平の流謫(光源氏の須磨流離譚のモデルと言われる)、『平家物語』の平敦盛の悲話など歴史的エピソードに事欠かない。
『笈の小文』は『野ざらし紀行』『おくのほそ道』とともに芭蕉の三大紀行文だが、須磨の場面で終っている。4月19日、芭蕉は尼崎から船で兵庫に着き、清盛の遺跡などを見たあと兵庫に一泊。翌20日に須磨寺周辺を訪れ、須磨に一泊。21日には布引の滝を経て京都へ向っている。

  須磨
月はあれど留守のやう也須磨の夏
月見ても物たらはずや須磨の夏

「須磨にはいとど心づくしの秋風に~」(『源氏物語』須磨)とあるように、須磨といえば秋のイメージだが、芭蕉が須磨を訪れたのは卯月(旧暦四月・初夏)だった。月は出ているけれど、留守のようだというのである。ここでは現実の風景をありにままに見るのではなくて、文学的伝統や本説と重ねあわせて眺められている。しかし、月はあるけれど留守のようだというのは違和感のある表現である。芭蕉の真蹟懐紙では「夏はあれど留守のやう也須磨の月」となっていて、この方が理屈には合うが、いずれにしてもおもしろい句ではない。とにかく須磨ではまず月を出したかったのだろうし、伝統的なイメージと現実との落差そのものが俳諧なのだろう。

  明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月

艘七宛の芭蕉書簡には「あかしより須磨に帰りて泊る」とあるから、明石夜泊は虚構で、実際には須磨に泊まっている。「おくのほそ道」でも曾良の随行日記と照らし合わせると虚構が見られるのと同様の操作である。詠まれているのは蛸壺で、明石では二千年前(弥生時代)から蛸が獲られていたという。蛸といえば明石なのだ。「須磨夜泊」ではイメージが合わないし、須磨の月はすでに本文では前に出ている。
須磨寺では「須磨寺やふかぬ笛きく木下闇」の句が詠まれていて、句碑になっている。いったい須磨寺には句碑・文学碑が多い。山本周五郎の『須磨寺付近』の文学碑もあって、この小説は時代小説とは異なる周五郎の一面をうかがうことができる。

尾崎放哉は一時期、須磨寺の大師堂で堂守をしていたことがある。放哉の句集『大空』(放哉没後、荻原井泉水が編んだ遺稿集)の「須磨寺にて」の章には「大正十三年六月より十四年三月まで、兵庫須磨寺内大師堂の堂守として住み、五月若狭国小浜常高寺に移り、七月京都に来る」とある。放哉は『層雲』の荻原井泉水に師事していたが、須磨寺に入ってから月に30句ほど投句していて、彼の転機となった。

あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める
一日物云はず蝶の影さす
雨の日は御灯ともし一人居る
井戸の暗さにわが顔を見出す
沈黙の池に亀一つ浮き上る
鐘ついて去る鐘の余韻の中
たつた一人になりきつて夕空
蟻を殺す殺すつぎから出てくる
小さい時の自分が居つた写真を突き出される
こんなよい月を一人で見て寝る (この句が句碑になっている)

須磨寺での生活は食事と住むところの心配はないが、社会との交流は限られる。句材となるのは小動物と自己の内面である。須磨寺を出たあと放哉は小浜、そして小豆島へ行くことになる。小豆島の南郷庵での生活は吉村昭の小説『海は暮れきる』に描かれている。

さて、5月17日に須磨寺の青葉殿で「第三回関西連句を楽しむ会」を開催する。薩摩琵琶「敦盛」の演奏があり、連句の実作も楽しめる。ご興味のある方はご予定いただきたい。

2026年2月6日金曜日

「オルガン」の10年

「オルガン」42号に宮本佳世乃が「2015年に『オルガン』を創刊してから、十年が経った」と書いているのを読んだ。もうそんなになるのかと驚いた。「オルガン」はそれぞれのメンバーが結社とは別に自由な個人として集まっている同人誌だ。俳句では「豆の木」、短歌では「外出」など、「オルガン」と同じような表現者のつながり方に共感するところがある。 手元に「オルガン」1号がある。2015年4月20日発行。メンバーは次の四人。「俳句がする、4つのオルガン」である。

白梅にして遠空を担ひけり    生駒大祐
記号うつくし空港の通路を蝶   田島健一
ぶらんこの鎖が空にまつすぐに  鴇田智哉
風船に入る空気のちとぎくしやく 宮本佳世乃

佐藤文香『君に目があり見開かれ』を読む座談会が掲載されている。
以後、俳句、座談会、テーマ詠という構成で、春夏秋冬の年四回の発行となる。
3号から福田若之が加わった。

うなずくからどんなに遠い滝だろう 福田若之

やがて生駒大祐が退会し、「オルガン」は四人で続けられる。宮崎莉々香が加わった時期もあるが、途中休会し、現在は復帰している。
私はこの時評でけっこう「オルガン」について書いていて、2015年7月31日、2017年1月27日、2018年7月7日などで紹介している。
2018年7月の記事は、「オルガン」の五人が大阪にやって来る、というもので、次のように書いている。
〈俳誌「オルガン」の宮本佳世乃・鴇田智哉・田島健一・福田若之・宮﨑莉々香の五人が大阪にやってくる。7月21日(土)に関西現俳協青年部勉強会「句集はどこへ行くのか」、22日(日)には梅田蔦屋書店で公開句会が開催される。21日の勉強会では、「オルガン」のメンバーのほかに久留島元や牛隆介、川柳人の八上桐子、五七五作家の野口裕が話題提供者として参加するのも興味深いところだ〉

「オルガン」のメンバーはそれぞれ句集を出しているので、句集から紹介しよう。

凍蝶の模様が水の面になりぬ     鴇田智哉『こゑふたつ』
こゑふたつ同じこゑなる竹の秋
人参を並べておけば分かるなり    鴇田智哉『凧と円柱』 
円柱の蟬のきこえる側にゐる
かなかなといふ菱形のつらなれり   鴇田智哉『エレメンツ』
いうれいは給水塔を見て育つ

二人ゐて一人は冬の耳となる     宮本佳世乃『鳥飛ぶ仕組み』
郭公の森に二人となりにけり
空港に歩いてゆける勾玉屋      宮本佳世乃『三〇一号室』
いちはつの花にさはれば文字の見ゆ

ふくろうの軸足にいる女の子     田島健一『ただならぬぽ』
鶴が見たいぞ泥になるまで人間は
見えているものみな鏡なる鯨
なにもない雪のみなみへつれてゆく

さくら、ひら つながりのよわいぼくたち  福田若之『自生地』
ヒヤシンスしあわせがどうしてもいる    
突堤で五歳で蟹に挟まれる
ひきがえるありとあらゆらない君だ

宮﨑莉々香については、「オルガン」から次の二句を挙げておく。

かもめすぐ春になりきれないからだ     宮﨑莉々香(「オルガン」9号)
ほたるかごみえないものがすべてこゑ         (「オルガン」10号)

「オルガン」にはときどき連句も掲載される。38号から脇起歌仙「ながい坂」の巻、のオモテ六句を引用する(捌・浅沼璞)。

ながい坂みぢかい草の春の夢   冬野 虹
 里に野原に頬白の声      四ッ谷龍
うらゝかに弁当のふた光らせて  浅沼 璞
 棚から古き新聞をとる     宮本佳世乃
宵闇のはるかな意識との出会   鴇田智哉
 そして九月の水たばこの香   福田若之

さて、「オルガン」42号では新メンバーに岩田奎を迎えた。宮本は次のように書いている。「同人誌といっても、同じような俳句を目指しているわけではない。各人がそれぞれのスタイルと俳句観を持ち寄っている。私にとってはメンバーの数だけ頂点があるような感覚だ。奎さんを迎えた今、オルガンは正六角形になった」

颱風の去りゆく裾に触るるのみ  岩田奎

2026年1月30日金曜日

四ッ谷龍の横井也有研究

四ッ谷龍の編集発行している「むしめがね」26号が届いた。田中裕明をめぐる論考と横井也有についての講演が収録されていて、100ページに及ぶ充実した内容になっている。ここでは也有と連句の方を紹介しよう。
横井也有は俳文『鶉衣』で知られる江戸時代、名古屋の俳人。「百蟲譜」などが有名である。『連句年鑑』(令和7年版)に四ッ谷龍は「横井也有と連句」を寄稿している。連句の座でよく巻かれるのは歌仙(36句形式)で、時間のないときは半歌仙(18句形式)となるが、美濃派では短歌行(24句形式)が使われ、国民文化祭岐阜でも短歌行が募集された。横井也有は美濃派の俳諧文化圏にいたようだが、二十八宿(28句形式)を創始した。四ツ谷の評論ではその理由をこんなふうに紹介している(也有の原文の現代語訳)。
「即興で連句を巻く場合、歌仙は句数が多いのが面倒くさがられるので、最近では短歌行の新形式が導入され、少人数の集いには役立っている。ただそれでも、短歌行では月や花を詠み季を当てはめるのに追われて、好句ができにくいという難点がある。そこで春と秋は二句で捨てる新ルールも行われているという。これは、三句連続の雑の句を作れるようにするためであろう。しかるに、二十八宿は春秋三句という古来のルールを守ったままで、雑を四句多く詠めるのである」
「それだけではなく、短歌行は表に月が出ないのが残念である。表に月が入らず、裏に月と花を押し込めるよりも、裏には花の美があるのだから、五句目の月は表としたほうが、月と花をじっくり賞玩する本来の意図に叶うのではないか。二十八宿では表は六句にして月を入れて歌仙同様とする。裏は八句で、裏に月がないのは百韻形式の四の折に例が見られるから問題ない」
短歌行はオモテ4句・ウラ8句・名残りのオモテ8句・名残りのウラ4句で二花二月。二十八宿は6句・8句・8句・6句で二花二月。短歌行ではオモテに月がでないので、二十八宿ではオモテ6句にして月を出している。
次は二十八宿の実作。オモテ六句のみ引用する。

夢も見じ鹿聞までは肱枕    也有
 月も居待を過て遅き夜    三止
こゝろなき竿稲舟に指捨て   也陪
 さてもわらぢに道はこねたり 文樵
元服の顔に商人見そこなひ   三止
 朝日に簾掛る西側      也有

『鶉衣』についても触れられている。也有には出版の意図はなかったが、大田南畝(蜀山人)が写本を目にして、その面白さに驚き、蔦屋重三郎のところに持ち込んで刊行したということだ。

2025年6月14日に愛西市佐織公民館で横井也有顕彰会主催のイベントがあり、四ッ谷龍が講演をした。「むしめがね」に掲載されているのはその記録である。四ツ谷はまず横井也有伝説から語りはじめている。現代語訳で引用する(原文・饗庭篁村)。
「隠棲した知雨亭からは東に美しい山なみが見えるので、それを眺める窓を設けたのだが、ふだんはこの窓に錠をおろしていた。人からその理由を聞かれると也有はほほえみながら『どんなにうまいものでも毎日食べていれば飽きる。美しい景色も同様で、あまり目が慣れてしまうと面白くなくなるので、たまにしか窓を開けて眺めないのだ』と答えたという」
この話を枕として、坪内逍遥、尾崎紅葉、川上眉山、永井荷風、落合太郎、石川淳、司馬遼太郎、杉本秀太郎、高遠弘美と也有を愛した文人たちのことが語られる。詳細は「むしめがね」誌をご覧いただきたいが、四ツ谷はこれらの文人たちを、明治の小説家たちとフランス文学者たちの大きく二通りに分けているのは興味深い。
講演記録の最後のページに『連句年鑑』(令和7年版)の宣伝まで掲載していただいているのはありがたい。『連句年鑑』は残部僅少だが、日本連句協会のホームページからも購入申し込みいただける。
昨年11月8日には横井也有顕彰会の主催で春日井・多治見方面のバス旅行があり、地元のボランティアによる内津村の歴史や神社についての説明もあったようだ。

夢も見じ鹿聞までは肱枕   也有
ひえびえと枕の中を瀬音かな  龍

2026年1月23日金曜日

宮井いずみ句集『理数系のティーポット』

1月12日、「文鳥散歩会」主催で宮井いずみ句集『理数系のティーポット』(青磁社)を読む会が大阪・梅田で開催された。司会・まつりぺきん。最初に八上桐子の挨拶があった。「川柳スパイラル」25号に八上桐子は『理数系のティーポット』の句集評を書いている。八上は①リズム感②固有名詞の多さ③取り合わせ、三つの切り口を設定している。それぞれ次のような例句が挙げられている。

 熱帯夜熱帯夜ボレロボレロボレロ
 抱きつきモンキーシャッフェンベルク式
 幽霊の足かもボーカロイドかも

「伝統川柳を入口に、現代川柳は私性川柳から革新川柳まで多彩な場で活動してしてきただけあり、書き方のバリエーションも豊富で、句風も広い」と八上は書いている。また読書会で八上は、句集の各章の独立性に触れ、多声的で断片的な世界を表現していると指摘した。
この会では参加者に事前のアンケートをとっていて、前半は「わたしの感想」、後半は「作者への質問」というかたちで進行した。司会のぺきんはアンケートにもとづいて、参加者それぞれに句集の感想を聞いていった。細かいメモはとっていないが、特徴的な名詞の使用について、「ことばの博物館」とか、食物関係の語がよく出てくるとか、名詞から句を作っていくのではないか、選ぶワードに世代感があるが句になると違う効果がある、などの感想が述べられた。
最後まで読み通せない句集もあるが、この句集は停滞なく読めたという感想もあり、全体のテーマとか強い主張がなく、根底に流れるものを垣間見るような句もほしいという意見もあった。各章が独立していて、句の配列も作句年代順ではなくて、再構成されているようだ。章のタイトルも、その章を統一するようものではなく、またその章の中の一句から取られたものでもない。収録句とは無関係な言葉をタイトルにしているが、このタイトルがけっこうおもしろい。
私がいいと思った句を一句挙げると、次の句になる。

うっかりの連鎖いもうとまで消える

作者自身が挙げた「宇宙の門ひらく葉月のピラミッド」も、あとで読み返してみておもしろいと思った。「心象句はあまり出したくない」という宮井の発言も印象に残った。句集の装幀についても話題になって、表紙絵は鯨のように見えるが、帯を外すと足があって歩いている。装幀は濱崎実幸。

第30回杉野十佐一賞が発表された。杉野十佐一は昭和26年に「おかじょうき川柳社」を設立。川上三太郎と親交が深かったことでも知られる。杉野草兵は彼の長男。
今回の題は「相」。大賞作品は

とんかつソースこぼれたみたいな寝相やな  木下香苗

入選作品から、五句挙げておく。詳しいことは「おかじょうき川柳社」のページから読める。

マチュピチュになんて相応しいくちびる  八上桐子
相談というより玉蜀黍のひげ       宮井いずみ
相談をすれば卵が孵るかも        笠嶋恵美子
色相環 黄色にすわる人の負け      桜庭紀子
もう鶴の相談は聞かないだろう      nes

2026年1月16日金曜日

夏目漱石『行人』の周辺

1月11日、和歌山城ホールにて「第23回わかやま連句会」開催。今年の初句会である。折から寒波来襲で雪のちらつく一日となった。
まず行きつけの和歌山ラーメン店で昼食。しょうゆラーメンが美味い。寒いので散策はやめて会場に直行する。和歌山城ホールの4階からお濠をはさんで天守閣が見える。
毎回、連句実作の前に和歌山にちなんだ話題をとりあげていて、この日は会員の青木さんが〈夏目漱石『行人』の周辺〉について報告。漱石は明治44年8月に和歌山で「現代日本の開化」の講演をした。これは漱石の文明論のうちでも代表的なもの。
朝日新聞主催の講演旅行で、漱石は和歌山、堺、大阪で三つの講演を行った。堺では「中味と形式」、大阪では「文芸と道徳」と内容を変えている。修善寺の大患後の仕事である。
「現代日本の開化」で漱石はこんなふうに言っている。
「私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレヴェーターが宿の裏から小高い石山の巓へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。実は私も動物園の熊のようにあの鉄の格子の檻の中に入って山の上へ上げられた一人であります」
8月14日、漱石は和歌の浦の望海楼に泊まり日本初と言われる屋外用エレベーターに乗っている。旅館裏の奠供山の上から和歌の浦を一望したあと紀三井寺も訪れた。
翌15日は東照宮、片男波などを見たあと、県議会議事堂で「近代日本の開化」の講演。会場は現在の和歌山中央郵便局のあたりで、現在この建物は移築されて根来寺境内にあり、重要文化財になっている。
『行人』では語り手の二郎と兄の一郎がエレベーターに乗る場面がある。(このエレベーターは客足が伸びなかったためか数年後に廃止) 「二人は浴衣掛けで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方位のもので、中に五六人這入ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事の出来ない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に鬱陶しい感じを起した」
その後、二人は静かな場所を求めて権現様(東照宮)に行き、重要な話をする。
漱石は講演終了後、近くの風月庵での慰労会に出席したが、折からの台風で風雨が激しくなり、富士屋旅館に宿泊する。この体験も『行人』に生かされ、二郎と兄嫁の直は風雨で母や兄がいる和歌の浦に帰れなくなり、和歌山で一泊することになる。

「正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですか、又嫌いなんですか」
「二郎さん」
「ええ」
「貴方何の必要があってそんな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾(わたし)が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」

講演旅行の経験が実に巧みに小説に利用されている。小説を読んでいて疑問に思ったのは、和歌の浦から和歌山中心部(和歌山城周辺)へ行くのを「和歌山へ行く」と言っていることだ。県外の人間の感覚では和歌の浦も和歌山ではないのか。これは当時、和歌の浦から和歌山市街までは電車が通っていて(現在はバス路線)、「和歌山」行きという感覚だったことが、現地での話を聞くと納得される。和歌山にも路面電車が走っていた時代があったのだ。
和歌山での漱石の俳句を『漱石全集』第十七巻「俳句・詩歌」から紹介する。

涼しさや蚊帳の中より和歌の浦
四国路の方へなだれぬ雲の峰

漱石は和歌山のあと、堺、大阪と講演が続いて、大阪講演のあと血を吐いて大阪の湯川胃腸病院に入院する。そのときの俳句も挙げておこう。

   三階の隅の病室に臥して
稲妻に近くて眠り安からず
灯を消せば涼しき星や窓に入る

『行人』では「友達」の章で、二郎の友人の三沢が胃腸の不調で入院する。ここでも漱石の実体験が小説に利用されている。
和歌山城の天守閣を窓外に眺めながら、漱石『行人』の話を聞くのは貴重な経験で、地元ならではの地理感覚も実感できた。当日はときどき雪がちらついたり、風花が激しく舞ったりして、刻々と風景の表情が変わっていくのを連句会の間ずっとながめていた。記憶に残る天守閣の姿であった。
さて、当日は半歌仙「ふたたびの開化」を巻いた。発句だけ挙げておく。

ふたたびの開化はありや春隣   宏

2026年1月9日金曜日

批評の現在性と歴史性

元日や晴てすゞめのものがたり 嵐雪

2026年の新春を迎えた。昨年、深川の「芭蕉記念館」に出かけたときに嵐雪ゆかりの要津寺に立ち寄った。元禄四年、駒込より移転して、雪中庵一門の拠点となった寺である。境内に嵐雪墓、雪中庵供養塔、芭蕉百回忌発句塚がある。芭蕉の江戸の弟子のうち其角についてはある程度親しんできたが、嵐雪については「蒲団着て寝たる姿や東山」「梅一輪一輪ほどの暖かさ」くらいしか知らなかった。『蕉門名句選』(岩波文庫)を読んでみると、おもしろい句がいくつもある。

正月も身は泥(ひぢりこ)のうなぎ哉  嵐雪

『荘子』の「秋水篇」には泥のなかに尾をひく亀のことが出てくるが、この句では自らを泥中の鰻だと言っている。「泥」に「ヒヂリコ」とルビがついている。亀であれ鰻であれ、年頭に当たって身につまされる句だ。
「芭蕉記念館」では「収蔵資料からみる昭和の俳人」の展示があって、次の句がもっとも印象に残った。

凧何もて死なむあがるべし  中村苑子

「凧」には「いかのぼり」のルビ。中村苑子の句集『水妖詞館』では「翁かの桃の遊びをせむと言ふ」「春の夜やあの世この世と馬車を駆り」などが思い浮かぶ。
このところ俳句よりは短歌を読む機会が多い。川柳や連句に関心をもつ表現者は俳人よりも歌人の方に多いからだ。けれども、年末年始、久しぶりに何冊か句集を開いてみた。
年末12月28日の朝日新聞朝刊「俳句時評」に岸本尚毅が「二つの六林男論」を書いていた。川名大の『昭和俳句史』と高橋修宏の『暗闇の眼玉』を取り上げ、「川名の俳句史は、表現史と俳壇史を包括したところに妙味がある」「高橋の六林男論は、時代的背景も踏まえつつ、六林男という俳人を『個』として深く掘り下げた」と評している。高橋の六林男論は手元にあったので読んでみたし、句集も開いてみたが、一番印象的だったのが次の句である。

数え日の『三冊子』また『去来抄』  鈴木六林男

「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」もいいが、六林男には『去来抄』の句もあったのだと気づいた。

三木清がどこかで「批評の現在性」ということを言っている。批評は現在と向かい合わないといけないということだろう。けれども、現代川柳の先端部分が多様に展開しはじめていて、フォローするだけのモチベーションが保てない。
「現代短歌新聞」に昨年8月から「現代川柳散策」の連載をしていて、これまで石田柊馬、渡辺隆夫、桜庭紀子、佐藤みさ子、飯田良祐を取り上げた。今年の1月号には「新年の川柳」について書いている。本欄の「週刊川柳時評」の方は川柳に限らずに、その時々に関心をもったことを自由に書いてみたいと思っている。もともとこの欄には川柳以外のことも書いてきたのだが、時評は現在と向かい合うべきだという観念に縛られてしまうと停滞してしまうので、過去のことも振り返りつつ歩いてゆければいいと思っている。

2025年12月27日土曜日

2025年回顧(川柳篇)

2010年にこの時評をはじめたときは、時評の対象となるような川柳作品、川柳句集、イベントなどが少なくて苦労したが、近年は川柳の句集が多く出るようになって、逆にそのスピードに追いつかない。管見に入ったものだけになるが、今年の主な出来事を振り返っておきたい。
今年、川柳のフィールドで最も発信力が強かったのが暮田真名である。9月に発行されたエッセイ『死んでいるのに、おしゃべりしている』(柏書房)は依然、話題になっているし、このところ暮田の名を文芸誌などで見かけない月はない。まず「文学界」11月号の特集「あなたはAIと何を話していますか」にエッセイ「ねりちゃんとひとりきり」を書いている。「すばる」11月号のシンポジウムには川柳側のパネリストとして神野紗希、堀田季何らと参加。このシンポジウムは詩歌文学館で開催されたものの記録で、ユーチューブでも期間限定で視聴することができる。あと「芸術新潮」12月号にも「GOAT」とのコラボで名前が出ている。
ここで取り上げておきたいのは「鱗kokera川柳賞」についてである。先日、第1回鱗kokera川柳賞が発表され、暮田真名・なかはられいこ・平岡直子による審査結果が公開された。 大賞は伊野こうの「口からアスパラガス」、暮田真名賞は島崎の「地上波」、なかはられいこ賞は八上桐子「きのう」、平岡直子賞は野に咲くお花「わたしのワンピース」である。

共通の話題が手術台の上      島崎
股ぐらをひらいてひろいひろい昼  八上桐子
楽しいな。わたしお荷物だったから 野に咲くお花

「文学界」2026年1月号に水城鉄茶が詩「ストレスとスイング」とエッセイを発表している。水城はいま現代詩に注力しているようだが、彼の詩行のなかには川柳としても読める要素が含まれていると思う。
今年は川柳句集の発行も続いた。管見に入ったものだけ挙げておく。兵頭全郎『白騎士』(私家本工房、1月)、西田雅子『そらいろの空』(ふらんす堂、3月)、川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』(書肆侃侃房、5月)、宮井いずみ『理数系のティーポット』(青磁社、8月)。また、投稿連作アンソロジーとして『川柳EXPO 2025』の存在も見逃せない。

白騎士の匂い黙ってくれたまえ     兵頭全郎
雨ばかり降る窓の位置かえてみる    西田雅子
フーダニットの針が挿さってゆく水風船 川合大祐
理恵ちゃんが捨てたんだって熱帯魚   宮井いずみ

歌集も三冊挙げておきたい。山中千瀬『死なない猫を継ぐ』(典典堂、1月)、上川涼子『水と自由』(現代短歌社、8月)、笹川諒『眠りの市場にて』(書肆侃侃房、8月)。山中には川柳も作った時期があり、歌集にも収録されている。

宇宙服を脱がないでここは夜じゃない部屋じゃない物語を続けて 山中千瀬
どの言葉を捨てたか捨てたから言えない            山中千瀬
目をひらき夢の廃墟となるからだ 夢にからだの性別がない   上川涼子
ココシュカの《風の花嫁》を飾るだろう死後の白くて無音の部屋に 笹川諒

川柳の評論集では『LPの森/道化師からの伝言』(石田柊馬作品集、書肆侃侃房、4月)がもっと読まれてもいいと思っている。石田は現代川柳を牽引してきたひとりで、彼の仕事の上に立って、現代川柳をさらに展開させていく必要があるからだ。
 キャラクターだから支流も本流も  石田柊馬
 その森にLP廻っておりますか
瀬戸夏子は石田柊馬作品集の帯に「含羞のダンディズムに導かれてわたしたちは現代川柳の真髄を知ることになる」とメッセージを書いている。瀬戸が「女人短歌」についてまとめた一書が『をとめよ素晴らしき人生を得よ』(柏書房、8月)。

早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ  葛原妙子

「水脈」が終刊になり、現代川柳の時代が終わりつつあり、2020年代後半はこれまでとは違った光景が見られるようになるかも知れない。かつて私は句会・大会で消費され消えてゆく川柳を「蕩尽の文芸」と呼んだことがあった。句会だけでなく、ネット句会でも同様の現象が起きているが、日々生産されるおびただしい数の中から記憶にのこる川柳作品が現れるのを待ちたいと思う。

2025年12月19日金曜日

2025年回顧(連句篇)

ある連句人の一年を日記ふうに紹介する。

2025年1月5日(日)
第17回わかやま連句会。和歌山城ホールにて開催。出席者8人。 「国民文化祭わかやま」のあと2022年に発足した連句会で、奇数月の第一日曜に和歌山市で開催されている。毎回、和歌山ゆかりの文学者・文化人についての話があり、そのあと連句実作を行っている。この日は初句会なので、連句のルールについて確認をした。
  新しき海へ漕ぎ出す日記始    宏
(ちなみに3月以降の例会では、高野聖、祇園南海、「小梅日記」、浜口梧陵、佐藤春夫の『車塵集』を取り上げた。)

1月13日(月・祝)
京都府連句協会新年会。京都府連句会は古都連句会、ふたば会、三金会、千代の会の4グループがあるが、全体会として新年会のほか春の陣(3月)、五山送り火連句大会及びみやこの陣・夏の陣(8月)が開催されている。

2月2日(日)
第48回大阪連句懇話会。京都・旧三井下鴨別邸にて開催。下鴨神社近くの雰囲気のある建物の二階で、連衆15名。この会場はなかなか予約がとりにくいが、たまたま冬の時期に予約できた。実作はすらすらと歌仙一巻を満尾。
  春隣糺の森に集いけり  正博
終了後、賀茂川と高野川の合流地点の三角公園で時間を調整したあと、懇親会。

2月15日(土)
わかくさ連句会。JR奈良駅前の「はぐくみ文化センター」にて開催。奈良県連句協会では「わかくさ連句会」「あしべ連句会」が開催されているが、私は「わかくさ連句会」の方に時々参加している。連句会の前に猿沢の池の前にある喫茶店で珈琲を飲むのも楽しみのひとつ。

   隠国の長谷の青空山芽吹く 
   名残の雪の細き街道   

3月9日(日)
「連句海岸」開催。2023年から年に2回程度、明石の林崎松江海岸「CURRY HOUSE Babbulkund」にて開催されている連句会。当日は3座にわかれて連句実作。「連句海岸」については門野優氏のnoteに記事が掲載されているので検索してください。
連句会終了後、明石の魚の棚に繰り出して懇親会。

3月23日(日)
日本連句協会総会・全国大会。深川の芭蕉記念館にて開催。総会のあと7座にわかれて連句実作。
(日本連句協会発行の「会報 連句」8月号に記録が掲載されている。)

5月15日(日)
第二回関西連句を楽しむ会。大阪上本町・たかつガーデンにて開催。
1990年代から2000年代にかけて、近松寿子(茨の会)・岡本星女(俳諧接心)・品川鈴子(ひよどり・ぐろっけ)・澁谷道(紫薇)の四氏によって「関西連句を楽しむ会」が運営されていたが、2006年を最後に中断。以後、関西の連句グループはそれぞれ独自の歩みを続けているが、昨年「第二次関西連句を楽しむ会」として再出発した。第二回の今回は、ゲストに鈴木千惠子氏(「猫蓑会」会長)を迎えて「式目の研究」のトーク。途中から、門野優・山中広海・相田えぬ・綿山憩など若手連句人が対話に参加した。
若葉風吹くや西から東から   正博
来年の第三回目は会場を須磨寺に移して5月17日に開催予定。

7月27日(日)
義仲寺にて同人連句会開催。毎月第四日曜日に開催されている。
私は年に2回程度参加。歌仙を巻く貴重な機会で、膝送りが多く、付句の練習になる。

8月18日(月)
みやこの陣・夏の陣、開催。五山送り火連句会の方には参加できなかったが、各地の連句人が京都に連泊して連句を楽しんでいる。私は日帰りで参加。

10月4日(土)
第35回さきたま連句会。川口市メディアセブンにて開催。この連句大会にははじめて参加する。いささか旧聞に属するが、川口市は映画「キューポラのある街」で有名だ。駅周辺を散策。
  爽涼やベッドタウンの東口  正博

10月13日(月祝)
第19回浪速の芭蕉祭。大阪天満宮・梅香会館にて開催。
浪速の芭蕉祭は2007年にスタート。創始者は岡本星女。第二回以降、二年に一回、形式自由の作品募吟を行ったが、募吟は第10回で終了。以後は、ゲストとの対談と連句実作というかたちをとっている。 当日は12時半から本殿参拝の予定だったが、参拝者が立て込んでいて少し遅れる。祝詞や巫女の舞う神楽などがあり、私は例年、玉串奉納をしているが、はじめて参加する方には新鮮な経験だろう。「技芸上達」の絵馬を所定の場所に掛ける。今回はゲストに、まつりぺきん氏を迎えて「ネットを利用した作品の募集と発信」について対談。連句ではネットを利用した発信がまだ弱いようだ。
  繁盛亭月はどっちに出ているか  正博

11月21日(金)
大分県民芸術文化祭「連句大会」。中津市民文化会館にて開催。
大分県の中津は福沢諭吉ゆかりの地として知られている。はじめて訪れたので、大会開催までの時間に街中を散策。早朝なので福沢諭吉記念館はまだ開いておらず、中津城も外観だけ眺めることができた。天守がちょうど東を向いて立っているのが印象的だった。
  冬の城朝の光を浴びて建つ  正博

12月13日(土)
文京区民センターにて草門会。このところ参加できていなかったが、翌日の俳諧時雨忌とあわせて東京に二泊三日する。今年最後の連句三昧。途中までだった歌仙の続きを巻き上げたあと、捌きをするよう言われたので、非懐紙を巻く。
  歳末や胸に飾りをつけながら  正博
『野ざらし紀行』の「年暮ぬ笠きて草鞋はきながら」を踏まえたつもり。
ふだんやらない「季移り」の句が出て勉強になった。

12月14日(日)
俳諧時雨忌。芭蕉記念館にて開催。長年、草門会が主催してきた歴史のある連句会だが、昨年から日本連句協会の主催となった。宿泊した両国から芭蕉記念館まで徒歩で移動。あいにくの雨だが、この日は討ち入りの日である。吉良邸のあたりに義士会のテントが出ている。途中、要津寺に立ちよる。ここは嵐雪一門の拠点で、嵐雪墓、雪中庵供養碑などがある。 連句会では旧知の人たちと一座できて、雑談しながら楽しく歌仙を巻くことができた。連句は座の文芸なので、一巻を巻くと同時に、各地の連句人との交流が大切になる。旧交をあたためるだけではなく、新しい人との出会いもあるのが共同制作の魅力である。

2025年9月19日金曜日

文学フリマ大阪13

9月14日(日)に文学フリマ大阪が南港のインテックス大阪で開催された。主催者発表によると、6877人 (出店者:1868人・一般来場者:5009人) の来場があったという。会場近くの夢洲では関西万博が開催中であり、地下鉄中央線は混雑しているので、私はニュートラムを利用して会場に向かった。昨年までの京橋・OMMビルに比べて広い会場だが、ブースの前が見本誌コーナーで、ブースの前を通る人の流れがやや少なくて残念だった。今年は川柳関係のブースが4つ横並びで(1店舗は出店者が欠席で実際には3ブース)、現代川柳の存在感を多少示すことができたかもしれない。
当日手に入れた冊子・雑誌から紹介する。
まず、大阪の人間による大阪アンソロジー『わりかしワンダーランド03』。谷じゃこ・なべとびすこの編集発行で3号目。日本一うるさい街の「音」特集だという。短歌・俳句・川柳などの諸形式の作品と文章が掲載されている。

怒られている人だけ標準語  パスカ
半分が燻製の鈍行列車   中山奈々
電飾の菊人形が攻めてくる まつりぺきん
隠れても述語はふるさとの話 兵頭全郎
ちょっと魔法ほたるぶくろの裏へ姉 木田智美
虫よりも人がこわいと言えないで渦中の虫をひろうざら紙  仲内ひより

連句のブースも出ていて「蔦連句会」の「連句ZINE 蔦」。最近は同人誌ではなくて、ZINE(Magazineのzine)という個人が自由に発信する冊子が好まれているようだ。連句作品、十二調「秋高し」(捌・門野優)から。

秋高し都市の隙間に伸びる影      門野優
 十六夜を待つ階段の裏        榊陽子
暇つぶしちゃらちゃら鍵を鳴らしては 山中広海
 小豆洗いと会釈をかわす      相田えぬ
藍染の浴衣を着れば母に似て     八上桐子
 転生してはまたも初恋         広海
ピアス穴奏でてみればソのシャープ   綿山憩

8句目以降は省略するが、十二調という形式は歌仙のようなオモテ、ウラがなく、式目も比較的自由である。

短歌同人誌「波長」3号を購入。昨年12月の発行だが、上川涼子の歌集『水と自由』を読んで印象に残っていた短歌が掲載されているので、紹介する。「把手」には「ノブ」とルビが付いている。

同じ川に二度は入れず真鍮のちひさき把手を引きてもどれり  上川涼子

「外出」と交流があるらしく、「外出波長無線」のページがある。平岡直子と上川涼子の付合いの部分を引用する。

北口が光ってるしばらくしゃがむ  平岡
何曜日?キッチンに林檎摺る    上川

筑紫口 マスクの中で息をする   上川
火曜日は温泉を隠すの       平岡

「外出」4号の「外出無線」の「波長」版だという。ちなみに「外出無線」は外出同人が2020年6月22日から9月9日まで、自分のいる場所から575と77の応答を繰り返したもの。次はその一部分。

平岡 東京は空中にあり年を取る
染野 乗るよ梅田の大観覧車
内山 柏木公園見上げても梢あるばかり
花山 さざなみがゆく目黒川の面

最後に「外出」14号より。

蛍からそっと光を抜きとって蛍を食べたあの夏のこと  染野太朗
二十四時間不動のままの壁の蛾の体内のはげしさに会いにゆく 内山晶太
これはあと何年くらいやるのかな 顔を塗る 今のところ楽しい 平岡直子
一方的な父からのメールも交通事故のあとは途絶えて  花山周子

2025年8月29日金曜日

瀬戸夏子『をとめよ素晴らしき人生を得よ』

7月に十勝・帯広方面に旅行した。ジンギスカンや豚丼などのグルメに走ったが、帯広は中城ふみ子の出身地である。帯広市図書館の2階に中城ふみ子資料室があったので、のぞいてみた。こじんまりしたスペースで、パネルや展示を見ると彼女の短歌の世界がよくわかった。中城の短歌には彼女の実人生や物語のイメージがまとわりついているので(映画にもなった)、これまでやや敬遠していたが、現地の展示に接して彼女の歌の迫力にうたれた。『乳房喪失』の「冬の海」から五首引いておく。

灯台もかもめも我より遠のきて心痛まぬ夕ぐれは来る  中城ふみ子
主張なきわれは折々かなしみて沈む海と河との間
冬の皺寄せゐる海よ今少し生きて己れの無残を見むか
帰り来て手に嗅ぐ魚の生臭き酷似するもの持ちて怖るる
傷みやすくなりしこころか自らの頑きうろこを剥がしたるのち

帯広市内には中城の歌碑が緑ケ丘公園と護国神社にある。歌碑を見る時間はなかったが、「冬の皺」の歌碑が護国神社にあるそうだ。「己れの無残」が衝撃的だ。

中城は「女人短歌」の会員だったこともあるが、瀬戸夏子の『をとめよ素晴らしき人生を得よ』(柏書房)は「女人短歌」とその周辺の歌人たちを描いている。以前、web連載されやものに書下ろしを加えた一冊で、「女人短歌のレジスタンス」という副題がついている。webのときも好評で、私も愛読していた。この時評(2020年7月10日)にこんなふうに書いている。

〈瀬戸夏子が柏書房のwebマガジンに連載している「そしてあなたたちはいなくなった」からは多くの刺激を受けているが、特に「女人短歌」の創刊をめぐって、北見志保子と川上小夜子について書かれた文章は興味深かった。
「彼女たちはなんども試みた。当然のようにそれは厳しい戦いだった。彼女たちの最後の賭けが『女人短歌』だった」
こういう文章が瀬戸の魅力だが、ひるがえって川柳における女性作家、女性川柳はどうだったかと考えたときに、まず思い浮かぶのは井上信子の存在である〉

川柳についてはさておいて、本書は大西民子と北沢郁子のシスターフッドの物語から始まる。芥川龍之介の『或る阿呆の一生』「越し人」に登場する片山廣子、二・二六事件とともに語られることの多い齋藤史と続き、いよいよ「女人短歌」を立ち上げた北見志保子と川上小夜子の話になる。それぞれの章が物語風に語られていて、読みやすい。
「女人短歌」の創刊は1949年9月。「彼女たちはなんども試みた」と瀬戸が言うのは、それまで大西と北沢が「草の実」「月光」などの女性短歌誌を試みた経緯をさしている。
「しかしながら『女人短歌』は現在からその詳細を振り返ると必ずしも女性歌人たちが完全に独立して経営できていた組織とは言えない」と瀬戸は書いている。折口信夫の「女流の歌を閉塞したもの」というバックボーンがあったし、主催した「女人短歌文化土曜講座」の講師陣の多くは男性だったという。「けれど人間ができることには、常に時代や運という制約があり、人は永遠には生きられない。そのうえでわたしが考えることはそれでも『女人短歌』があってよかった、そのことに尽きる」
女性だけの短歌誌を作ることにどんな意味があるのか。本書では長沢美津の章で先鋭化したかたちで語られている。そこでは五島美代子の回想が引用されている。
「女だけの歌の雑誌など、わざわざ別にもつ必要はない……という批判が当時圧倒的であった。私自身そうした疑問をもって、女だけの集まりはレベルの低くなる怖れがありはしまいか。少なくとも私は、何といっても一歩も二歩も先んじられている男性作家の間でもまれてこそ精進したいのにと思った」(五島美代子「女人短歌」50号)
そのとき、長沢美津が次のように言ったという。「あなたは男ですか、女ですか。女なら認められない多くの女歌人のために、自分だけのことを考えないで仲間入りするのが当然ではありませんか」
五島は長沢の言葉に圧倒されて、「女人短歌」に参加することになった。
女性の表現者の置かれている状況は時代や環境によって変化する。男女の区別をことさら言い立てなくてもよい状況が理想だろうが、そこに到達するまでの道のりに先人たちの努力がある。「ほんとうは、女性だけの短歌誌など存在しないほうがいいのかもしれない。『女性』というジェンダー/セックスでのお線引きは、現在ではかなり危ういものだ」と瀬戸は書いていて、こういう認識を持ちつつ「女人短歌」の果たした役割を本書は改めて問いかけている。
ウェブ連載のときとタイトルを変えたのはなぜかなと思っていたが、最後の方に葛原妙子の次の歌が引かれていた。「そしてあなたたちはいなくなった」は一種のアイロニーだったが、今回の本書のタイトルには一歩すすめた希望的メッセージが読みとれる。

早春のレモンに深くナイフ立つるをとめよ素晴らしき人生を得よ  葛原妙子

付録として本書で取り上げられた歌人たちの作品のアンソロジーが掲載されている。

2025年8月15日金曜日

「水脈」終刊号

「水脈」が70号で終刊した(2025年8月)。現代川柳の同人誌がまたひとつなくなったことになる。
浪越靖政が69号・70号に「『水脈』終刊にあたって-70号を振り返る-」を書いているので、それに従ってまとめてみよう。
浪越も書いているように、「水脈」のルーツは飯尾麻佐子の「魚」である。女性川柳誌として出発した「魚」は時代を先取りした理念をもっていた。浪越は次のように書いている。「1978年11月創刊の機関誌で参加は女性のみであった。男性優先の川柳界にあって、女性みずからの視点で創作活動を目指すというのが発行理念で、のちに男性川柳人も加わり、活発に活動し発信して存在感があった。しかし、その後『魚』は麻佐子の体調不良もあって95年8月発行のNo.63で終刊を迎える」
私は飯尾麻佐子の「魚」を高く評価しているし、紹介する文章も書いているが(「女性川柳」とはもう言わない、「川柳スパイラル」12号)、残念なのは、創刊号に掲載された作品募集には「女性に限ります」とあるのに、やがて男性川柳人の文章と作品も掲載されるようになったことだ。女性だけの川柳誌を維持するのは困難だったのだろう。
その後、飯尾麻佐子は1997年7月に「あんぐる」を創刊し、一戸涼子、酒井麗水、佐々木久枝、岡崎守、浪越靖政などが参加した。「あんぐる」は2002年2月に終刊となり、新たに「水脈」が創刊された。川柳誌の系譜としては、「魚」「あんぐる」「水脈」と受け継がれてきたのである。
さて、2002年8月に編集人・浪越靖政、事務局・一戸涼子でスタートした。第1号の同人作品を紹介する。

苗移植してほうら性善説という   明星敦子
新緑に囲まれ埴輪が声を出す    一戸涼子
ペン先の陰にこぼれた花の種    伊藤ひかり
ビルがふるえている いのちの尻尾 岡崎守
水脈の受胎へ愛のほとばしり    酒井麗水
K点の水脈を君は知るや      佐々木久枝
何に飢え喉乾干涸びる列島潮干   沢出こうさく
触れないで魚が泳いでいる背中   城村美津枝
立ち上がったところに時計が置いてある 田村あすか
温暖化のシナリオ 消えた尾骶骨  浪越靖政
母の小指へ流れる糸に癒される   平井詔子
汚辱/包む/サランラップ      松原ゆきえ
あなたかも私かもパブロフの犬   鈴木厚子
渾身の微笑(ギャグ)を魔王の宮殿で 西田順治
仮面を剥ぐと無機質な男たち    濱下光男

「水脈」では創連、川原という連詩的方法の試みやイメージ吟、合評会など、さまざまな実験が行われた。70号(終刊号)には野沢省悟が作品評「熱い水脈」を書いていて、こんなふうに言っている。「おそらく水脈が終刊することによって、残念ながら北海道における田中五呂八以来の川柳革新の流れは、跡絶える状況になるような気がする」
一方で野沢は「インターネットの出現によって、若い人達が、川柳という文芸の可能性に気づきはじめてきた。革新川柳(新たな川柳)をめざす若い人達も出てきた」と述べているから、今後生まれる川柳の熱い水脈の流れに期待しているようだ。
あと「水脈」関係の句集から、二冊紹介しておく。まず、西田順治『空の魚』から。

家族日誌吹雪の夜に繙かれ  西田順治
闇を出てまた闇に棲む獣かな
乾電池ごろり 無用の犬ごろり
目を閉じて半魚はさらに深海へ
少年に戻りたそうな空の魚
おはようと死んでこんばんはと生まれ

もう一冊、落合魯忠『オンコリンカス』から。

躊躇する旅立つ雑魚と行き来して  落合魯忠
納得のいくはずのない沖に出る
吹きすさぶ月下の海の鼻曲がり
海一枚めむれば裸婦の深呼吸
モナリザの右手はきっとサイボーグ

浪越靖政は「『水脈』終刊にあたって」で次のように述べている。
「飯尾麻佐子の『魚』から始まり、『あんぐる』、そして『水脈』と続いてきた一つの流れが終焉を迎えるのは残念なことだが、終刊予告で書いたとおり、編集人をはじめ同人の高齢化が進んでいるのは明白で、第1号を発行したのが2002年4月、本年8月で23年を経過して、それだけ年齢を重ねたということなのだ。次世代へのバトンタッチを考えたが、川柳誌の発行形態もウェブ化の進展等により様変わりしてきており、幕引きを決断した」「『水脈』は終刊すっるが、我々の活動の場は多いので、ともにがんばっていきたいと思う」
最後に「出発点としての終刊」の一戸涼子の句を挙げておく。

千年も経てばまたぞろ詩を書きに  一戸涼子

2025年8月9日土曜日

「川柳スパイラル」24号 句集の時代

「川柳スパイラル」24号の特集は「句集の時代」である。
かつて石田柊馬は「読みの時代」の次に「句集の時代」「アンソロジーの時代」が来ると言った。予言的な発言で、近年、現代川柳の句集が続々と発行されている。 石田柊馬作品集『LPの森/道化師からの伝言』ではこんなふうに書かれている。
「個人の句集、あるいは集団の合同句集がいま続々と発刊されている。これはただ印刷器機などの簡易化だけが要因ではない。その上に立った消費行動のひとつではあるが、消費活動としてその中に自己を自己として確認できるなにか、なのである。新しく買った衣服を身につけた鏡の中に、自分の存在を見るように。川柳は句集の時代に入ったのかもしれない」
2000年4月に「オール川柳」に発表された文章である。樋口由紀子の『容顔』が1999年4月に発行され、2000年7月にはアンソロジー『現代川柳の精鋭たち』が出ている。書店にまとまったかたちで現代川柳の句集が並ぶようになったのは、2005年のセレクション柳人シリーズの刊行あたりからだろう。「句集は墓碑銘」と言われた時代に比べると、川柳句集の発行はずいぶんハードルが低くなった。
さて、「川柳スパイラル」の特集では、兵頭全郎『白騎士』について雨月茄子春が、川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』について柳本々々が、『川柳EXPO2025』については編者・まつりぺきん、『LPの森/道化師からの伝言』について小池正博がそれぞれ書いている。
兵頭全郎の第二句集『白騎士』は今年1月に発行された。評者の雨月茄子春はこんなふうに書いている。
「季語や七七を持たないうえに前句を失ってしまった川柳は、必然的にその読みの手がかりを読み手の想像によって補わせる。結果として、僕たちは川柳を真相からかけ離れたところで恣意的に推理し、推理それ自体をゲーム化して楽しんでいる。意味ありげで、文脈を読み取れそうなふてぶてしい態度をしている全郎の句は、読みのゲーム愛好家たちにとって絶好の推理披露会場だろう。しかし、そこ広げられる推理は全くの見当違いだ。なぜならそこには意味も文脈も存在しないからである。そこには徹底してロジックがない。犯人が示されたあとも推理は続く。全郎は空転する読みのゲームを、『意味や文脈を持たない前句の復元』という形でさらに混沌化させ、現代川柳にテロルを引き起こした」(「兵頭全郎のテロル))
川合大祐の第三句集『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』の刊行は今年5月。句集を編むのに協力した柳本々々は「ぼくがかわいさんから教えてもらっているのは、定型っていうのは生きることにいつも巻き込まれている。でもその巻き込まれ方もふくめてあなたにてがみとしてとどく。それが定型詩であり川柳なんだよ、と」(「しんだりいきたり」)と述べている。
『川柳EXPO2025』上下2冊は4月発行。まつりぺきんは「三年目の『川柳EXPO』」で「裾野の広がり」「他ジャンルへの影響」「様々な川柳の交流」の三項目をあげて、「少なくとも「川柳の連作を投稿する」行為へのハードルが下がり、裾野が広がってきていることは感じられます」「技術の進歩により、「どのように」表現するかというツールはどんどん充実してきています。誰でも表現者になれる時代です。その中で「何を」表現するのか、だと思います」「川柳観、川柳歴、年齢層、作品の発表方法といった垣根が取り払われつつある印象を、個人的には受けています」などと述べている。
『LPの森/道化師からの伝言』(石田柊馬作品集)については編者の小池正博が紹介している。前半が川柳句集、後半は川柳評論。柊馬の川柳評論は多くの人に読んでほしいが、ここでは句集から4句挙げておく。

高齢者と呼ばれナスカの地上絵よ  石田柊馬
少年もコンビニも美しい突起
キャラクターだから支流も本流も
その森にLP廻っておりますか

同人のエッセイでは「作らないことをやめる、まで」(小沢史)、「句集」(宮井いずみ)、「ハイブリッド系のひとりごと」(石川聡)がそれぞれ川柳との向き合い方がうかがえて興味深い。
ゲスト作品は俳人の相田えぬと若手川柳人のnes。相田は現俳協の会員で、連句にも関心をもち5月の「関西連句を楽しむ会」にもゲストとして参加した。nes はネットで川柳句会アイリスを主宰しているが、リアルの句会でもときどき顔をあわせることがある。

冷房をつけて世界は横たわる  相田えぬ
VRChatの毛蟹 病んでいるの? nes

あと同人作品からも紹介しておこう。

展翅する揚羽紋白十二指腸  小沢史
隕石落ちる恐竜絶えるごめん  猫田千恵子
コカ・コーラ旅団壊れ明るい部屋  川合大祐
吐き出せぬ語から夜毎に冬虫夏草  石川聡
いつも絵を捨てる知らない駐車場  西脇祥貴
表紙には雪に寝転ぶ棄民の子  まつりぺきん
徴兵を終えオナニーの手が余る  湊圭伍
ヤバイっすそうすちわっすコイントス  宮井いずみ
倦怠期知性改善しませんか   小池正博 
中指の一人歩きの午前二時   浪越靖政
「きっと」も「しっぽ」も「もっと」もひとりぼっち 畑美樹
現身と影が重なるその瞬間  悠とし子
葉桜が濃いというならるすにする  兵頭全郎
夏近しあなたの荒れを見て過ごす  清水かおり
落雷にシュガー滅びゆくまで    林やは

9月14日に文学フリマ大阪が開催され、「川柳スパイラル」もブースをだして、川柳と連句の本と冊子を販売する。翌日の9月15日は「川柳スパイラル」大阪句会。お目にかかれれば嬉しい。