2026年1月9日金曜日

批評の現在性と歴史性

元日や晴てすゞめのものがたり 嵐雪

2026年の新春を迎えた。昨年、深川の「芭蕉記念館」に出かけたときに嵐雪ゆかりの要津寺に立ち寄った。元禄四年、駒込より移転して、雪中庵一門の拠点となった寺である。境内に嵐雪墓、雪中庵供養塔、芭蕉百回忌発句塚がある。芭蕉の江戸の弟子のうち其角についてはある程度親しんできたが、嵐雪については「蒲団着て寝たる姿や東山」「梅一輪一輪ほどの暖かさ」くらいしか知らなかった。『蕉門名句選』(岩波文庫)を読んでみると、おもしろい句がいくつもある。

正月も身は泥(ひぢりこ)のうなぎ哉  嵐雪

『荘子』の「秋水篇」には泥のなかに尾をひく亀のことが出てくるが、この句では自らを泥中の鰻だと言っている。「泥」に「ヒヂリコ」とルビがついている。亀であれ鰻であれ、年頭に当たって身につまされる句だ。
「芭蕉記念館」では「収蔵資料からみる昭和の俳人」の展示があって、次の句がもっとも印象に残った。

凧何もて死なむあがるべし  中村苑子

「凧」には「いかのぼり」のルビ。中村苑子の句集『水妖詞館』では「翁かの桃の遊びをせむと言ふ」「春の夜やあの世この世と馬車を駆り」などが思い浮かぶ。
このところ俳句よりは短歌を読む機会が多い。川柳や連句に関心をもつ表現者は俳人よりも歌人の方に多いからだ。けれども、年末年始、久しぶりに何冊か句集を開いてみた。
年末12月28日の朝日新聞朝刊「俳句時評」に岸本尚毅が「二つの六林男論」を書いていた。川名大の『昭和俳句史』と高橋修宏の『暗闇の眼玉』を取り上げ、「川名の俳句史は、表現史と俳壇史を包括したところに妙味がある」「高橋の六林男論は、時代的背景も踏まえつつ、六林男という俳人を『個』として深く掘り下げた」と評している。高橋の六林男論は手元にあったので読んでみたし、句集も開いてみたが、一番印象的だったのが次の句である。

数え日の『三冊子』また『去来抄』  鈴木六林男

「遺品あり岩波文庫『阿部一族』」もいいが、六林男には『去来抄』の句もあったのだと気づいた。

三木清がどこかで「批評の現在性」ということを言っている。批評は現在と向かい合わないといけないということだろう。けれども、現代川柳の先端部分が多様に展開しはじめていて、フォローするだけのモチベーションが保てない。
「現代短歌新聞」に昨年8月から「現代川柳散策」の連載をしていて、これまで石田柊馬、渡辺隆夫、桜庭紀子、佐藤みさ子、飯田良祐を取り上げた。今年の1月号には「新年の川柳」について書いている。本欄の「週刊川柳時評」の方は川柳に限らずに、その時々に関心をもったことを自由に書いてみたいと思っている。もともとこの欄には川柳以外のことも書いてきたのだが、時評は現在と向かい合うべきだという観念に縛られてしまうと停滞してしまうので、過去のことも振り返りつつ歩いてゆければいいと思っている。

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