「関西連句懇話会」は偶数月の第一日曜に大阪・上本町で開催している。今月2月で第51回になった。5月に須磨寺で連句のイベントを予定していて、その予習を兼ねて、芭蕉の「笈の小文」の須磨の部分と、須磨寺の大師堂で堂守をしていた尾崎放哉について報告をした。
須磨は文学的イメージの濃厚な地で、在原行平の流謫(光源氏の須磨流離譚のモデルと言われる)、『平家物語』の平敦盛の悲話など歴史的エピソードに事欠かない。
『笈の小文』は『野ざらし紀行』『おくのほそ道』とともに芭蕉の三大紀行文だが、須磨の場面で終っている。4月19日、芭蕉は尼崎から船で兵庫に着き、清盛の遺跡などを見たあと兵庫に一泊。翌20日に須磨寺周辺を訪れ、須磨に一泊。21日には布引の滝を経て京都へ向っている。
須磨
月はあれど留守のやう也須磨の夏
月見ても物たらはずや須磨の夏
「須磨にはいとど心づくしの秋風に~」(『源氏物語』須磨)とあるように、須磨といえば秋のイメージだが、芭蕉が須磨を訪れたのは卯月(旧暦四月・初夏)だった。月は出ているけれど、留守のようだというのである。ここでは現実の風景をありにままに見るのではなくて、文学的伝統や本説と重ねあわせて眺められている。しかし、月はあるけれど留守のようだというのは違和感のある表現である。芭蕉の真蹟懐紙では「夏はあれど留守のやう也須磨の月」となっていて、この方が理屈には合うが、いずれにしてもおもしろい句ではない。とにかく須磨ではまず月を出したかったのだろうし、伝統的なイメージと現実との落差そのものが俳諧なのだろう。
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
艘七宛の芭蕉書簡には「あかしより須磨に帰りて泊る」とあるから、明石夜泊は虚構で、実際には須磨に泊まっている。「おくのほそ道」でも曾良の随行日記と照らし合わせると虚構が見られるのと同様の操作である。詠まれているのは蛸壺で、明石では二千年前(弥生時代)から蛸が獲られていたという。蛸といえば明石なのだ。「須磨夜泊」ではイメージが合わないし、須磨の月はすでに本文では前に出ている。
須磨寺では「須磨寺やふかぬ笛きく木下闇」の句が詠まれていて、句碑になっている。いったい須磨寺には句碑・文学碑が多い。山本周五郎の『須磨寺付近』の文学碑もあって、この小説は時代小説とは異なる周五郎の一面をうかがうことができる。
尾崎放哉は一時期、須磨寺の大師堂で堂守をしていたことがある。放哉の句集『大空』(放哉没後、荻原井泉水が編んだ遺稿集)の「須磨寺にて」の章には「大正十三年六月より十四年三月まで、兵庫須磨寺内大師堂の堂守として住み、五月若狭国小浜常高寺に移り、七月京都に来る」とある。放哉は『層雲』の荻原井泉水に師事していたが、須磨寺に入ってから月に30句ほど投句していて、彼の転機となった。
あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める
一日物云はず蝶の影さす
雨の日は御灯ともし一人居る
井戸の暗さにわが顔を見出す
沈黙の池に亀一つ浮き上る
鐘ついて去る鐘の余韻の中
たつた一人になりきつて夕空
蟻を殺す殺すつぎから出てくる
小さい時の自分が居つた写真を突き出される
こんなよい月を一人で見て寝る (この句が句碑になっている)
須磨寺での生活は食事と住むところの心配はないが、社会との交流は限られる。句材となるのは小動物と自己の内面である。須磨寺を出たあと放哉は小浜、そして小豆島へ行くことになる。小豆島の南郷庵での生活は吉村昭の小説『海は暮れきる』に描かれている。
さて、5月17日に須磨寺の青葉殿で「第三回関西連句を楽しむ会」を開催する。薩摩琵琶「敦盛」の演奏があり、連句の実作も楽しめる。ご興味のある方はご予定いただきたい。
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