2022年3月4日金曜日

琉歌と連句

今年の国民文化祭は沖縄で開催される。連句については、「美ら島おきなわ文化祭2022」の「連句の祭典」が10月29日に吟行会、10月30日に実作会(南城市文化センター)が開催されることになっている。今年に入ってから沖縄関係の本を読むことが多くなった。昨年の「国文祭わかやま」のときは南方熊楠の本をいくつか読んだが、今年は伊波普猷の『古琉球』『をなり神の島』を読んで、琉歌のことなどを調べている。南城市は琉歌の盛んなところで、琉歌募集事業が行われている。国文祭では連句と琉歌のコラボも計画されているようだ。
琉歌にはいろいろな種類があるが、普通には「上句・八八 下句・八六」あわせて三十音の定型短歌をさしている。18世紀の代表的な琉歌の作者、恩納なべの作品を紹介する。

恩納岳あがた    ウンナダキアガタ
里が生まれ島    サトゥガウマリジマ
もりもおしのけて  ムインウシヌキティ
こがたなさな    クガタナサナ

(恩納岳の向こうに、恋人の産まれた村がある。
山もおしのけて、こちら側に引き寄せたいものだ。)

恩納なべと並んで有名な吉屋思鶴(よしや・うみづる)の琉歌も紹介しておこう。

流れゆる水に    ナガリユルミズィニ
桜花浮けて     サクラバナウキティ
色きよらさあてど  イルジュラサアティドゥ
すくて見ちやる   スクティンチャル

この琉歌には伝説があって、歌会の席で「流れゆる水に桜花浮けて」という上の句に、ある男が下手な下の句を付けて失笑を買ったところ、よしやが「色きよらさあてどすくて見ちゃる」と付けて喝采されたという。また、別の物語ではよしやが出した上の句に下の句を付けたのが仲里按司だということになっている。仲里按司との恋は実らなかったという脚色もある。 
琉歌と和歌のコラボとして新しくできたのが仲風(なかふう)という形式で、上の句が七五(七七または五五の場合もある)、下の句が八六。大和の七五音と琉球の八六音とのコラボになる。現代でも琉歌と連句との共演には可能性がありそうだ。

さて、2月に届いた俳誌・川柳誌から作品を紹介しよう。まず俳誌から。 

笹鳴きや青から溶かしゆく絵の具   木村リュウジ

「蝶」254号に今泉康弘が「ここは泣いてもいいベンチ」を書いていて、27歳で亡くなったこの俳人を追悼している。木村は「海原」「ロータス」などに参加、「蝶」関係では「兎鹿野句会」にも投句して「高知は第二の故郷だ」と言っていたという。「口紅を拭う二月のみずうみに」「桃を剥く指や影絵のあふれだす」「山茶花ほっここは泣いてもいいベンチ」などの句がある。

手が線をひく蓑虫の暮らしぶり    田島健一

「オルガン」27号から。「手が線をひく」と「蓑虫の暮らしぶり」との関係が分かりにくいが、まったく無関係というのでもなくて、イメージのなかで何かしらつながっている。関係があるとしても、その距離が遠いから説明できないし、無理に説明しようとするとつまらないことになってしまう。季語の本意から読み解くという常套手段も無効のようだが、取合せという点では俳句的とも言えるのだろう。「渡り鳥食べると硬いフォトグラフ」「追放会議ふくろうが声つかい切る」「菜種蒔く靴の歴史のあかるさに」 

次に川柳誌「触光」73号から。

みかん箱開けてどの子を選ぼうか  青砥和子
からっぽに詰め込みすぎるから痛い

「みかん箱」だから「どの子」は蜜柑のことだろうが、みかんから離れて一句全体を比喩的に読むこともできる。「からっぽに」も箱のことを言っているが、「痛い」というのだから物を詰め込んでいる場合だけでもなさそうだ。日常的な情景を詠みながら、そこから少し深いところに意味を届かせている。

靴先から黄泉平坂冬に入る    小野善江
展開が面白すぎるポップコーン
人ではなく何かを待って冬木立

同じく「触光」から。小野善江は「蝶」に俳句も投句している。ここでは「冬」「冬木立」という季語も使っているから、柳俳の間に線引きはしていないのだろう。ただ、小野の場合は川柳作品の場合の方がより飛躍感がある。

深みから出てくる筋肉をつけて   広瀬ちえみ

「垂人」41号から。主語が省略されているので、いろいろな状況が想像できる。深みから「私」なり「ある人物」が出てくる。しかも、「筋肉」を付けて。深みとか闇とかいうものが単なるマイナスではなくて、そこを潜り抜けることによってプラスに転じるものとして捉えられている。広瀬ちえみの川柳には一種のオプティミズムがある。「マントから一抱えもの葱を出す」「点滴はきょうでおしまいオーイ雲」「猫帰る向こうの国のごはん食べ」

連句に戻ると、「藝文攷」2021(日大大学院芸術学研究科文芸学専攻)に浅沼璞の「『西鶴独吟百韻自註絵巻』考(一)」が掲載されている。晩年の西鶴は『世間胸算用』などが有名だが、俳諧に復帰もしていた。俳諧と浮世草子という二つのジャンルをもっていたのである。西鶴における詩と散文の混交を示すものとして浅沼は『西鶴独吟百韻自註絵巻』を取りあげている。自らの独吟俳諧に浮世草子風の自註を施したものである。

役者笠秋の夕に見つくして
 着ものたゝむやどの舟待
埋れ木に取付貝の名を尋ね

このような三句の渡りに談林親句体から元禄疎句体への志向がうかがえると浅沼は説く。ちなみに浅沼のこの論考は「ウラハイ」(週刊俳句)に連載された「西鶴ざんまい」を加筆修正して論文化したということである。 

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