近所の公園を歩いているとツグミの姿を見かけることが多くなった。けっこう何羽も見つけることができる。冬の間は単独行動をするようだが、北へ帰るときには群れになるので、そろそろ集まりだしているのだろう。もうすぐツグミの姿が見られなくなるはずで、季節は確実に進んでいる。
少年の見遣るは少女鳥雲に 中村草田男
この鳥雲はどの鳥のことだろうか。急に気になってきた。ツグミだろうか。季語が比喩的に使われているけれど、どの鳥を思い浮かべるかによってイメージが多少変わってくる。高橋和巳に「飛翔」という短編があり、一時期高校の教科書にも載っていた。この小説の鳥の群れはツグミだろうが、最後は霞網にかかって死滅する。壊滅してゆく学生運動と重なるイメージである。
今回は川柳のルーツである前句付について触れてみたいが、そういう気になったのは本を整理していて、雑誌のバックナンバーが出てきたからである。「翔臨」71号(2011年6月)に石田柊馬の「川柳味の変転」という文章が掲載されていて、興味深い内容になっている。石田はまず次のように述べている。
「川柳の性質は前句附けで出来上がった。俳諧でいわれる平句が川柳のポジションであり、前句附けでは、先に書かれた七七を受けて五七五を展開する受け身が、川柳味と書き方をつくった。『誹風柳多留』は、前句附けの書き手がうがちと省略を合せる遊戯感覚の書き方をいまに伝えている」
石田の本文では「前句附け」、私の文中では「前句付」という表記にしておく。俳諧と川柳の関係を史的にとらえる視野をもっていたのは前田雀郎だったが、現代川柳の作者のなかで、川柳を前句付と関連させてとらえたのは河野春三であった。春三は前句付に遡ることによって、「うがち」などの三要素とは異なる生活詩としての川柳の可能性を唱えた。石田柊馬も前句付から説き起こしており、川柳を俳諧の平句と位置付けている。「川柳性」という言葉を使うと、何が「川柳性」なのかむずかしい議論になるが、石田は「川柳味」という言葉を使っていて、古川柳から現代川柳にいたる川柳本来の持ち味というくらいのニュアンスだろう。その「川柳味」には「うがち」と「省略」のふたつが含まれると見ている。以下、彼のいうところを辿ってみよう。
石田はまず川柳味の場として「句会」を取りあげている。
「近代化を目指した明治の時代に、先達は前句附けの受動性から、近代的な能動性を求めた。野球でいえばキャッチャーからピッチャーに変わっても川柳が書けると判断した」
前句付を前句からの受動性と見れば、一句独立した川柳は能動性となる。それをキャッチャーからピッチャーへの変化に例えているのは川柳人らしいサービス精神だろう。
「今の眼で見れば、前句附けの質を題詠に引いたときに、前句附けでの飛躍、うがち、省略などが弱くなったと見えるが、前句附けの感覚を越えて、新しい共感性の文芸を一般化することが近代化の実践であったのだろう。題詠は、主に、問答体の書き方を川柳に定着させた。その代表的な場が句会であった」
川柳味の近代化に関しては、前句付から離れたとはいえ、明治の川柳には『柳多留』を思わせる発想と表現の名残りがあるとして、井上剣花坊と阪井久良岐の作品が挙げられている。では、剣花坊・久良岐以後の近代川柳はどうだろうか。
「近代川柳の佳作の多くは、題詠から離れた創作として書かれた」が、大方のレベルは「自己表出と共感性」の位相にとどまって、飽和状態になり、袋小路におちいったという。そして「川柳味」は題詠の方に現れていたと見る。また「川柳の日常詠は圧倒的に退屈なのだ」とも言い、退屈な川柳への批判として次のような句を挙げている。
舐めれば癒える傷 秋陽を占める犬たち 小泉十支尾
倒されて聴くこおろぎの研ぎすまし 時実新子
草いちめん脱走の快感をまてり 草刈蒼之助
首塚の木に鈴なりのあかるさや 福島真澄
その後に「詩性川柳」の時代がやってくる。「うがち」や「省略」より「私の思い」を上位に置く川柳が主流になる。
母系につながる一本の高い細い桐の木 河野春三
花を咲かせ 二秒ほど血をしたたらす 中村冨二
芒野の顔出し遊び何処まで行く 泉淳夫
水を汲む追っているのか追われてか 岩村憲治
川柳的な省略はほとんど見られなくなり、暗喩(メタファー)の追求が重んじられるようになる。象徴語への依存と暗喩の追及が川柳から省略を遠ざけたのだと石田は見ている。
そんな中で省略によって川柳味を取り戻そうとしている作者として樋口由紀子と筒井祥文が挙げられている。
一から百を数えるまではカレー味 樋口由紀子
良いことがあってベンツは裏返る 筒井祥文
以上、石田柊馬の2011年の時点での川柳観を見てきた。石田は「川柳性」の中核に「川柳味」があり、それが川柳の近代化や詩性川柳によって弱まっていると考えているようだ。「川柳味」を「うがち」と「省略」に限定すればそのような把握になるだろうが、限定的な「川柳味」よりも広義の「川柳性」にはもっと様々な要素が含まれる。「川柳の味」というようなものは確かに存在するし、私も「川柳味」を否定しないが、前句付や伝統川柳のなかだけに「川柳味」があるとも思わない。「詩性川柳」の行きづまりに関しては、行きづまったのは「私性川柳」であり、「詩性」と「私性」を分離することが必要だというのが私の立場である。川柳が前句付をルーツとすることから、前句あるいは題からの飛躍によって川柳の一句が成立するとすれば、現代川柳の詩的飛躍は川柳の本質や構造をふまえた正統的な方向だとも思っている。石田柊馬の「川柳味の変転」論を読み返してみて、いろいろ思うところがあったが、現在進行形の川柳の動向のなかで今それぞれの表現者がどのような位置にいるのか確認しておくことが重要だろう。
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