2022年3月11日金曜日

「私性」とジャンルの圧

短歌・俳句・川柳の三ジャンルの関係には微妙なものがある。読者として作品を読むだけなら問題はないだろうが、特に実作者として関わる場合には屈折した陰影が生まれてくるようだ。たとえば、短歌と川柳の両形式をひとりの表現者が実作するという場合、ふたつの形式を截然と分けて別人格になって言葉を紡ぐのだろうか。あるいは、短歌が川柳に、川柳が短歌に浸透してゆくのだろうか。
短歌と川柳は形式が違うが内容には相通じるものがある、と言われることがある。誰がそんなことを言っているのか、そのような発言にはどんな根拠があるのかと問われても困るが、短歌と川柳には何らかの親和性があるような気がするのは事実である。では、短歌と川柳に通底するものがあるとすれば、それは何だろうか。たぶんそれは「私性」というものだろう。 
短歌の「私性」はさておいて、川柳においては「私性川柳」と呼ばれる作品がある。私は「私性川柳」は河野春三を理論的根拠とし、時実新子をピークとする流れととらえている。

おれの ひつぎは おれがくぎうつ  河野春三
凶暴な愛が欲しいの煙突よ      時実新子

作品の根拠は「私」であり、「私」の思いを主として表現している。
私は「私性川柳」のすべてを否定するわけではないけれども、矮小化された「私性」は評価しない。「私」の表現が説得力をもつのは作者のかかえている人生上の事実によってであり、言葉によって作品世界を構築するという考え方は薄かった。それはしばしば作者の病気や苦悩の告白というかたちをとる。病気や生の苦しみは多かれ少なかれ誰にでもあるが、それを訴える人に対して川柳人は「よい川柳が書けるから、よかったね」と言うだろう。これは変化球を投げているのだが、半ば本音も混じっている。暗鬱な句を書いてきた作者が「これからは明るい作品も書きたい」というのに対して、「いや、あなたは病気や苦悩を書くべきで、明るい句はだめだ」と忠告したという話もある。結局、従来の川柳では作品の説得力は作者のかかえている現実によるので、作品の表現レベルによるのではなかった。作品の背後に作者の顔が貼りついているのは気持ちが悪い。
「私性川柳」の解毒剤としてかつて私が考えたのは細田洋二の「言葉の再生」と渡辺隆夫のキャラクター川柳であった。

サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ 細田洋二
月よりの使者まだ来ぬかベランダマン  渡辺隆夫

「川柳ジャーナル」のメンバーの中で細田洋二は唯一の「言葉派」であった。渡辺隆夫は作者の実人格とは次元の異なるキャラクターを作中に作り出し、それを諷刺することによって川柳の批評性を守った。
ここで私は「短歌と川柳は形式が違うが内容には相通じるものがある」という言説を、「ある種の短歌とある種の川柳には共通性がある」と言い直さなければならない。ある種の短歌とは「私性」の強い短歌であり、ある種の川柳とは「私性川柳」である。
ところが、近年になって不思議な事態が生まれてきて、現代川柳に「私性」からの解放を見る見方が出てきている。従来、短歌から川柳へと向かう通路は「私性」であったのが、「私性」への同調圧力からの解放のために、「ことば」を入り口とする新たな回路として現代川柳が捉えられはじめたようだ。それほど「私性」の圧は短歌のフィールドで強いのだろう。現代短歌に「言葉派」がどれくらい存在しているのか不明だし、現代川柳の「言葉派」も川柳界全体から見ればマイナーな存在である。ただ、渡辺隆夫が川柳を「何でもありの五七五」と言ったように、川柳が比較的自由な感じがするのだろう。
ジャンルの圧というものはどのフィールドでも存在する。川柳では「一読明快」ということが言われ、意味や作者の実生活上の事実ではなく、テクストの言葉から川柳を読み解くことにまだ慣れていない。現代川柳の難解さや意味不明の作品に対して川柳の危機を唱える人も多い。「それは川柳ではない」。
かつて堺利彦は「分からないけれどおもしろい」と「分かるけれどつまらない」という評価軸を提出したことがあった。川柳表現もこのふたつのあいだで揺れ動いている。「分からないしつまらない」という失敗作も多く見られるが、作品の読みに対するストライク・ゾーンは人によって異なるのだろう。
いずれにしても、ジャンルの圧というものは無視できないが、それぞれの表現者がそれぞれの表現を試みるなかで、新しい作品、新しい作者が生まれてくる可能性を注視しておきたい。

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