4月18日の朝日新聞朝刊「短歌時評」に山田航の「歌人が川柳に驚く訳」という文章が掲載されている。山田は「最近、若手歌人のあいだに現代川柳ブームが訪れている」と書いて、『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)と「ねむらない樹」第6号を紹介している。「このブームの立役者は歌人の瀬戸夏子である」というのは正確な認識だろう。
瀬戸の『現実のクリストファー・ロビン』(書肆子午線)には川柳について書かれた文章がいくつか収録されているが、瀬戸夏子と平岡直子が発行した川柳の冊子「SH」が手元にあるので、紹介しておこう。「SH」は2015年から2017年にかけて4冊作成されている。
好色のめまいをゆずる弟に 瀬戸夏子(「SH」)
呼ぶだろうすばらしい方の劣勢 (「SH2」)
愛は苺の比喩だあなたはあなたの比喩だ
はかないこころのびわこのゆびわ (「SH3」)
星々は浅いまなじり (「SH4」)
瀬戸の句には一行詩の傾向が強く、最後は短律になっている。
平岡直子は「SH」のほか我妻俊樹とのネットプリント「ウマとヒマワリ」などでも川柳を発表している。川柳のイベントにパネラーとして参加することも多いようだ。
すぐ来てと、水道水を呼んでいる 平岡直子(「SH2」)
雪で貼る切手のようにわたしたち
むしゃくしゃしていた花ならなんでもよかった
口答えするのはシンクおまえだけ (「川柳スパイラル」2号)
耳のなか暗いねこれはお祝いね (「ウマとヒマワリ9」)
我妻俊樹は「SH」4号すべてに作品を発表していて、良質の川柳も書ける表現者である。「率」10号に誌上歌集『足の踏み場、象の墓場』を発表して注目されたが、2018年5月の「川柳スパイラル」東京句会にゲストとして登場。「行って戻ってくるときに自我が生じるのが短歌」「引き返さずに通り抜けるのが川柳」とはそのときの我妻の発言である。彼はツイッターでも川柳についてときどきおもしろいことを言っている。川柳作品も集めればけっこうな数になるのではないか。ここでは「ウマとヒマワリ」から。
書き順を忘れられない町がある 我妻俊樹(「ウマとヒマワリ」12号)
黒鍵に即身仏が指を置く
玉虫と決めたらずっとそうしてる
こう持てば浅草はゆらゆらしない
潮騒の最後の方を聞き逃す
八階の野菊売り場が荒らされた
「SH」に話を戻すと、山中千瀬の作品が「SH」2~4に掲載されていて、おもしろい句が多かった。吉岡太朗は「SH3」に参加。独自の発想が興味深い。
なんとなく個室に長居してしまう 山中千瀬(SH2)
あとのないしらうおたちの踊り食い
りんじんがいってりんかにばらがわく (SH3)
火と刃物 お料理は死にちかくてヤ
あの子にはずっと意地悪でいてほしい
ほんとうのわらびもち うそのわらびもち (SH4)
鳥ならともかく法に触れている 吉岡太朗(「SH3」)
屋根売ってしまって傘をさしている
名古屋まで逃げてきたのに顔がある
シーソーにもちこめたなら勝っていた
一身上の都合で雨を浴びている
歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』で人気のある若手歌人・初谷むいも川柳を書いている。「ねむらない樹」6号でも短歌と並んで川柳を発表している。
指のない手で撫でている夢の犬 初谷むい(「川柳スパイラル」4号)
烏龍茶この海の裏で待ち合わせ
永劫になる決心がつきました
おきちゃだめ湯気でレンズが曇っても
愛 ひかり ねてもさめてもセカイ系
三田三郎と笹川諒も現代川柳に理解のある歌人である。両氏はネットプリント「MITASASA」に短歌だけでなく川柳作品も発表しており、それは「ぱんたれい」にも収録されている。ここでは「川柳スパイラル」掲載のゲスト作品から紹介する。
世界痛がひどくて今日は休みます 笹川諒(「川柳スパイラル」8号)
発声が魚拓のようにうつくしい
意味上の主語と一夜を共にする
チャコペンがまた天誅をほのめかす
百科事典から今夜出るガレー船
横手からトラウマを投げ込んでくる 三田三郎(「川柳スパイラル」9号)
横領のモチベーションが保てない
後悔の数だけ庭に海老を撒く
自らの咀嚼の音で目が覚める
ふりかけの一粒ずつにパラシュート
「かばん」の沢茱萸も川柳作品を書いている。もともと「かばん」には飯島章友、川合大祐がいるから、彼らを通じて川柳に興味をもった歌人も多い。
元日にサーカスが来るにおいだけ 沢茱萸(「川柳スパイラル」8号)
羊羹と海馬はひとしく切り分けて
紙媒体。ふたごの面倒よろしくね
正直にマトリョーシカはなりなさい
ジェルタイプの金輪際もあるよ
以上、短歌を主なフィールドとしている表現者が現代川柳に関心をもつようになったルートは幾つかあるが、いずれにしても彼らが実作を通じて現代川柳との交流を試みているのは心強い。従来、ジャンルの違いはけっこうハードルが高く、川柳の本質が語られる場合でも具体的な作品を踏まえずに既成の知識や先入観で川柳を云々する場合が多かった。現在の若手歌人の川柳への関心はそういうものとは異なり、現代川柳を読むだけではなく、実作も試みている点で川柳側にとっても新鮮な刺激を与えるものとなっている。ここに紹介しただけではなく、もっとたくさんの表現者が現代川柳の実作を試みているかもしれない。それぞれのフィールド相互の刺激によって短詩型文学の言葉がさらに豊かになってゆくならば嬉しいことである。
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