2018年7月7日土曜日

「オルガン」の五人が大阪にやって来る

すでにイベント情報が公開されているが、俳誌「オルガン」の宮本佳世乃・鴇田智哉・田島健一・福田若之・宮﨑莉々香の五人が大阪にやってくる。
7月21日(土)に関西現俳協青年部勉強会「句集はどこへ行くのか」、22日(日)には梅田蔦屋書店で公開句会が開催される。
21日の勉強会では句集についての話が中心になるようなので、手元の句集を読み直している。句集の話は東京ではすでに語られていることだろうが、関西では新鮮だろう。「オルガン」のメンバーのほかに久留島元や牛隆介、岡田一実、川柳人の八上桐子、五七五作家の野口裕が話題提供者として参加するのも興味深いところだ。八上は『hibi』、野口は『のほほんと』という句集を出している。

鴇田智哉の『こゑふたつ』(2005年8月、木の山文庫)『凧と円柱』(2014年9月、ふらんす堂)の二冊の句集から、それぞれ三句ずつ抜き出してみる。

凍蝶の模様が水の面になりぬ     鴇田智哉『こゑふたつ』
こゑふたつ同じこゑなる竹の秋
をどりゐるものの瞳の深みかな

春めくと枝にあたつてから気づく   鴇田智哉『凧と円柱』
人参を並べておけば分かるなり    
円柱の蟬のきこえる側にゐる

蝶の模様が水面に変容する。二つの声の同一性。踊る人の瞳。
客観が主観にかわる、その間のようなものをとらえようとしているのだろう。
いかにも俳句フィールドで書かれている作品だと思う。「竹の秋」は春の季語、「竹の春」は秋の季語とは連句初心のころに習ったが、なぜ「竹の秋」なのか。川柳人ならここに別の言葉を置くだろう。
『凧と円柱』の三句は季語に違和感なく読める。「人参」の句の省略感は川柳人にも親しいものだと思う。

宮本佳世乃は平成29年度の現俳協新人賞を受賞している。彼女の句集『鳥飛ぶ仕組み』(2012年12月、現俳協新鋭シリーズ)を読み直してみて、ひとりでいることと、二人でいることについて改めて考えた。

二人ゐて一人は冬の耳となる    宮本佳世乃『鳥飛ぶ仕組み』
郭公の森に二人となりにけり

一人が「冬の耳」となったのなら、もう一人は何になったのだろう。
郭公の森で二人となったのなら、その前はどうだったのだろう。
物語を作ってはいけないのだろうけれど、書かれていない部分を読む楽しみがある。

田島健一『ただならぬぽ』(2017年1月、ふらんす堂)については昨年話題になったし、シンポジウムも行われた。私もこのブログ(2017年1月27日)で取り上げたことがある。

蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく    田島健一
骨は拾うな煙の方がぼくなんだ   海堀酔月

こう並べてみると発想の共通点と同時に俳句と川柳の手ざわりの違いが何となく分かる。

ふくろうの軸足にいる女の子    田島健一『ただならぬぽ』
鶴が見たいぞ泥になるまで人間は
見えているものみな鏡なる鯨
雉子ここに何か伝えにきて沈む
なにもない雪のみなみへつれてゆく

福田若之『自生地』(2017年8月、東京四季出版)も昨年評判になった句集である。句の前に散文の詞書がついていて、作品と同時に句集を編みつつある作者の姿が書かれている。work in progressのような感じで、作品が書かれた時点と作品を編集している時点との時間の差が意識される斬新な句集だ。だから、本当は一句立てで引用するのはむつかしいのだけれど、五句挙げておく。

さくら、ひら つながりのよわいぼくたち  福田若之『自生地』
ヒヤシンスしあわせがどうしてもいる    
突堤で五歳で蟹に挟まれる
ひきがえるありとあらゆらない君だ
てのひらにかかしのいないわかれみち

宮﨑莉々香にはまだ句集がないので、「オルガン」から次の二句を挙げておきたい。

かもめすぐ春になりきれないからだ     宮﨑莉々香(「オルガン」9号)
ほたるかごみえないものがすべてこゑ         (「オルガン」10号)

ここまで「オルガン」の五人の句を挙げてきたが、よくわからない句も多い。句を読むときに、わかるとかわからないとかいうことが、そんなに大切なのだろうか、という気もする。

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