2018年7月13日金曜日

仙台連句紀行

短歌誌「井泉」82号(2017年7月)の招待作品として広瀬ちえみの川柳15句が掲載されている。広瀬が「井泉」に寄稿するのは17号(2007年9月)に続いて二度目である。今回の作品から4句紹介する。

たまたまもまたまたもあり鳥墜ちる     広瀬ちえみ
土砂降りを贈ってしまうこちらから
あちらからどうぞともらう雨上がり
咲くときは少しチクッとしますから

6月24日、第12回宮城県連句大会に参加するために仙台へ行った。
大会の前日に仙台入りをして、宮城県連句協会の狩野康子、永渕丹ご両人の案内で仙台周辺を回った。
まず、荒浜小学校に連れて行ってもらった。東日本大震災のときに地域住民が避難した小学校で、現在は震災遺構として公開されている。震災前は海岸に松林が広がり、茸採りなどもできたというが、松の多くは流され立ち枯れていた。校舎4階の教室は展示のほか写真や映像で災害の様子を知ることができる。職員や自治会の方の証言が生々しく伝わってくる。屋上にあがるといまはおだやかな海岸の様子が見渡せる。震災のときはこの屋上に数百人が避難したのだ。

仙台は島崎藤村が一年ほど暮らしていた街である。
藤村に「潮音」という詩がある。「わきてながるる/やほじほの/そこにいざよふ/うみの琴/しらべもふかし/ももかはの/よろずのなみを/よびあつめ/ときみちくれば/うららかに/とほくきこゆる/はるのしほのね」
のちに藤村はこんなふうに書いている。
「仙台の名掛町というところに三浦屋という古い旅人宿と下宿を兼ねた宿がありました。その裏二階の静かなところが一年間の私の隠れ家でした。『若菜集』にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。あの裏二階へは、遠く荒浜の方から海の鳴る音がよく聞こえてきました。『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです」(『市井にありて』)
いま仙台駅東口に「藤村広場」が整備されていて、「潮音」や「草枕」の詩碑が建っている。藤村が向き合った荒浜と震災の荒浜、その落差に衝撃を感じる。

小学校をあとにし、芭蕉の足跡をたどって、「二木(ふたき)の松」(武隈の松)に行った。
『奥の細道』には次のように書かれている。

「武隈の松にこそ目さむる心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先、能因法師思ひ出づ」

桜より松は二木を三月越し    芭蕉

「松」と「待つ」の掛詞、「二」と「三」の数、「三月(みつき)」に「見」を掛けている。
松はすでに代替わりしていて、私が見たのは芭蕉が見た松そのものではないが、雰囲気は味わうことができた。

そのあと笠島道祖神へ。
藤原実方がこの道祖神の前を馬に乗ったまま通ったので、神罰を受けて落馬、死亡したという伝説があり、その近くに実方の墓と伝えられるものもある。
芭蕉は笠嶋には行けなかった。五月雨で道が悪かったからである。

笠島はいづこ五月のぬかり道   芭蕉

芭蕉が笠島に行けなかったのも俳諧であり、私が行けたのも俳諧だろう。

翌日は連句大会の当日である。
54巻の応募作品があり、狩野康子氏と私がそれぞれ五巻ずつ選んだ。
選評で私は「半歌仙の可能性」について話した。
この募吟は半歌仙という形式だが、従来、半歌仙は歌仙の半分の形式、時間の制約などで歌仙が巻けないときに半分でとどめておくというような、中途半端な形式であると言われてきた。歌仙では一の折、二の折の変化のおもしろさが読みどころだが、半歌仙には表・裏しかなく、恋も一か所で、一花二月、十分な変化や展開をおこなう余地がないというわけである。けれども、今回、選者をさせていただくに当たって、歌仙の半端ものとして半歌仙をとらえるのではなく、半歌仙の独自の可能性は考えられないかと思った。
私が選んだ作品のうち、二巻の発句と脇だけ紹介しておく。なお、応募作品54巻は「第十二回宮城県連句大会作品集」としてまとめられている。

暮遅し韻を踏んだとほ乳類  (「Deadline」の巻)
 ジャズの譜面の如く金縷梅

あがりこは紅葉す夜のかくれんぼ (「あがりこは」の巻)
 かぼちゃの馬車でやってくる月

最後に狩野康子の句集『原始楽器』(2017年2月、文學の森)から10句紹介しておく。狩野は著名な連句人であるが、俳句では「海程」に所属している。

水温む今日の輪廻はひとり分    狩野康子
菜の花と鳩の鈍感楽しめり
まむし草原始楽器のごと叩く
口中の海胆に針あり宿敵なり
冷蔵庫に己が鋳型がありそうな
冥いとは先頭の鵜のつぶやき
満月の暗部縫合せんと思う
誤読する自由りんごを丸齧り
冬の蔵に入る流体となるために
無一物鷹を名告れば鷹となる

0 件のコメント:

コメントを投稿