2018年6月29日金曜日

小津夜景『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』

小津夜景『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版)が好評だ。
昨年、田中裕明賞を受賞した小津の句集『フラワーズ・カンフー』には李賀の漢詩と取り合わせた俳句が掲載されているし、ブログ「フラワーズ・カンフー」にもときどき漢詩にふれた文章がアップされているので、彼女が漢詩についてなみなみならぬ造詣の持ち主だということがうかがえる。漢詩をめぐるエッセイで一書を刊行するという広告を見たときには、なぜ俳句ではなくて漢詩なのかということが、いまひとつピンとこなかったが、本書を読んで小津が半端ではない漢詩読みなのだということがわかった。
本書の「はじめに」には編集者との次のような対話(架空対話?)が書かれている。

「あの、漢詩の翻訳をやってみませんか?」
「無理です。漢詩、よく知らないですし」
「あ、それはたいへん好都合です。さいきんは漢詩を読むひとがめっきり減ったでしょう?あれはふだんの生活と漢詩とのあいだの接点が、みなさん摑めないからなんですよ」
「あなたのような専門家ではないふつうの一読者が、日々の暮らしの中でどんなふうに漢詩とつきあっているのかを語ることにこそ、今とても意味があると思うのです」

これが本書のスタンスであり、漢詩それ自体のことだけを語るのではなくて、著者の暮らしや短歌、俳句、連句などの文芸のことから語りはじめるという書き方になっている。たとえば、冒頭の「カモメの日の読書」という章では、杜甫の詩の一節「天地一沙鷗」のあと、こんな文章が添えられている。

トレンチコートの襟を立てて、風よけのサングラスをかけ、ポケットに文庫本をつっこんで、わたしたち夫婦は日あたりのよい海ぞいを散歩する。
「かわいい。カモメ」
「うん」
「三橋敏雄に〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉という俳句があってね」わたしは言う「これ、本をひらいたときのかたちが白い鳥に似ていることの意味を重ねているんだって。天金をほどこした重厚な本をひらくたびにあらわれる、純白のカモメ。なんだか胸が高鳴らない?」

本書は漢詩を入り口としているが短詩型文学全体に目配りのきいたエッセイなのだった。だから、兵頭全郎の川柳「あやとりを手放すときのつむじ風」も出てくるし、大畑等の俳句「なんと気持ちのいい朝だろうああのるどしゅわるつねっがあ」についての柳本々々のコメント(「あとがき全集」)も引用される。
「DJとしての漢詩人」の章では「過去の漢詩のフレーズを一行ごとにカットアップし、まったく新しい一篇の作品として再構築する手法」として「集句」のことが出てくる。カットアップやサンプリングは連句の分野でもおこなわれていて、浅沼璞が『中層連句宣言』(北宋社)や『俳句・連句REMIX』(東京四季出版)で論じているが、漢詩でも王安石が試みていたのはおもしろい。
高啓「尋胡隠君」についての章では、謎彦による連句風の超約が紹介され、さらに紀野恵の短歌連作「君を尋ぬる歌」が引用されている。ちなみに、紀野は連句の心得もある現代歌人のひとりだ。
そういえば、「連句」という言葉は漢詩でも使われている。
鈴木漠『連句茶話』(編集工房ノア)によれば、対話形式の漢詩に「聯句(連句)」があるという。漢の武帝の時代に始まる「柏梁体」である。また、李賀にも柏梁体の漢詩が二編残されている。これは一人で詠む独吟だが、「悩公」はプレイボーイ・宋玉と遊女の対話、「昌谷詩」は李賀自身と侍童との対話である。
また、漢詩と連句のコラボレーションとして「和漢連句」という形式があり、現代でも連句人の一部で実作されている。
『カモメの日の読書』に話を戻すと、本書には漢詩をめぐる翻訳とエッセイ40編と付録二篇が収録されている。漢詩の翻訳は読みやすく清新なもの。付録1「恋は深くも浅くもある」は〈わたしはどのように漢詩文とおつきあいしてきたか〉について、小津の俳句と漢詩との関わりが語られている。付録2「ロマンティックな手榴弾」は〈「悪い俳句」とはいったい何か?〉について、小津の俳句観が述べられている。それぞれ興味深い文章なので、本書を読まれたい。
『カモメの日の読書』は小津夜景のファンだけでなく、短詩型文学に関心のある読者にとって刺激的で魅力あるものに仕上がっている。漢詩も楽しいものだと改めて思った。

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