京都番傘の藤本秋声が編集・発行している「川柳大文字」がおもしろい。平成27年7月創刊。16ページほどの小冊子だが、月によって増ページになることもある。たとえば今年1月号は墨作二郎をとりあげて40ページに増大。月刊、今年2月で32号になる。
今まで何号か読んだことはあるが、このたび藤本秋声からバックナンバーをいただいて、創刊号から読むことができた。特に興味深いのは「京都川柳の歴史」の掘り起こしの仕事である。ちなみにタイトルの「川柳大文字」は大正7年に京都川柳社によって創刊され、大正10年40号で廃刊したものを踏襲している。
京都の川柳史については、平安川柳社以後のことは何となく見当がつくが、それ以前のことは知るのがむつかしい。私は戦前の京都における自由律川柳の雑誌「川柳ビル」に興味があって、いちど堀豊次にバックナンバーがあるか尋ねたことがあるが、一冊も残っていないという返事だった。この「川柳大文字」を読むと、戦前の京都の川柳界について貴重な情報を得ることができる。
たとえば、「京都の柳社と柳誌(4)」(第27号)には次のように書かれている。
「昭和初期、京都の川柳界に三つの流れが出来る。一は、伝統の京都川柳社。二は、平賀紅寿の京都番傘。三は川柳街社。
川柳街が京都第三の勢力になったのは昭和7年ごろである。それまでの間に、数社の柳社と合併したからであった。
『野菊』『川柳タイムス』『紙魚』『木馬』で、吉田緑朗、村岸清堂、齋藤松窓、大島無冠王、川井瞬二、宮田甫三、宮田豊次らを加えて『川柳街』は大きく発展した。以前の布部幸男独りの川柳街に対して、新たに生まれ変わったとして、「更生川柳街」と称した」
京都川柳社、京都番傘、川柳街社の三派鼎立。
京都川柳社は大正3年創立。柳誌「ぎおん」「大文字」のあと大正14年「京」を創刊。
京都番傘は吉田緑朗の葵川柳会に平賀紅寿が加わり、番傘川柳社と合併して昭和5年に誕生。句会報は最初「レフ」だったが、昭和7年に「御所柳」として創刊号を発行した。
一方、「葵」にいた吉田禄朗と村岸清堂は「京都番傘」に参加せずに「川柳タイムス」を創刊し、やがて「川柳街」と合併してゆく。
「木馬」は昭和5年、川井瞬二・大島黄子朗によって創刊。川井は京都川柳界における革新のエースだった人らしいが、昭和8年、29歳で早世する。
「川柳街」は昭和2年、布引幸夫らによって創刊。昭和7年に「川柳街」以外の数誌と合併して更生「川柳街」となる。
伝統系の「京」と新しい川柳をめざす「川柳街」が昭和初期の京都川柳界をリードしていたようだ。
昭和10年、宮田甫三・宮田豊次・大島無冠王らは「川柳ビル」を発刊。たぶん戦前の京都で最も前衛的な川柳誌だっただろうと思われる。
「川柳大文字」に掲載されている藤本秋声の「京都の川柳家列伝」「京都の柳社と柳誌」は京都川柳史を掘り起こした労作である。私が不勉強で知らないことがたくさんあった。特に印象的だったのは、川井瞬二のことである。「川柳大文字」23号(平成29年5月)から彼の作品を紹介しておく。
口笛にふと寂しさが吹けてゐる 川井瞬二
断髪のある日時計が動かない
壁にゐる俺はやつぱり一人かな
時計屋の十二時一時九時六時
戦争の悲惨さを知り恋を知り
恋人の背中をたたけば痩せてゐる五月
蜥蜴颯つと背筋に白い六月よ
川上三太郎の弟子で早世した田中幻樹のことを連想する。
離合集散をくりかえす結社と川柳誌の背後に、無名性のなかで作句を続ける川柳人の姿が立ち上がってくる。
昭和32年2月、京都の川柳結社を統一して「平安川柳社」が創立される。それ以後の京都の川柳史は比較的知られている。
0 件のコメント:
コメントを投稿