『たむらちせい全句集』(沖積社)が発行された。
第一句集『海市』から第六句集『菫歌』までが収録され、さらに未完句集として2011年から2013年までの句を収めた『日日(にちにち)』が付けられている。
『菫歌』については、以前このブログで触れたことがあるが(2011年7月1日)、そのとき書いたことは、たむらちせいの全体像のほんの一部にすぎなかったのだということに改めて気付かされる。
海渡る 贋造真珠で妻を飾り
酒壜に封ずる蝮 孤島に教職得て
第一句集『海市』巻頭の二句である。
昭和35年、たむらちせいは高知県で教職についていたが、当時、石川達三の『人間の壁』に描かれているような勤務評定闘争が巻き起こった。高知でも闘争は激しかったようで、ちせいは懲罰人事で孤島・沖ノ島の中学校に転勤を命じられる。『海市』はこの島での句を収録している。
四国本島への転勤を打診されたときに、「もう少し島の俳句を作りたいから」と言って断り、さらに三年間、在島したというから凄い。
第二句集『めくら心経』では土佐の風土という主題が顕著にあらわれる。
中でも「流人墓地」は圧巻である。
流人墓地へと遮二無二岬さす 霧中
もはや霧にめしいる流人墓地遠く
「流人墓地」は人の眼をひく作品であるが、次の「落椿」の句にも心ひかれた。
落椿 鬼面童子の通せんぼ
生国をゆき 悪相の落椿
第三句集『兎鹿野抄』の、たとえば家族を詠んだ句は何と境涯詠から遠く離れていることだろう。
水餅の甕とは別の母を置く
鈴虫になるまで母を密封す
赤紐で五体を縛り風邪の妻
茎立ちてより兄たちの行方知れず
地芝居の狐忠信は姉ならむ
味元昭次の解説「たむらちせい俳句ノート」も読みごたえがある。
その中に、ちせいの親友で「青玄」の俳人である森武司のことが出てくる。森は「おとしまえはどうつけたか」という趣旨のエッセイを書き、ちせい俳句を批判した。
味元はこんなふうに書いている。
「美や個に閉じこもって現実をそ知らぬものとしたがる俳人たち。そういった危険性をちせいの俳句に見たのだろう。その危険性はまさしくあったし、今も在るといわねばならないだろう。ちせいも当然そうしたことはよく知っていたはずである。武司の批判は一方でちせいへのはげましでもありまた自分自身への問いかけでもあり、さらに今思えば、ちせい俳句の美や虚構の面白さの方向だけを見た私たち後続世代への、良くない影響を考えていたようにも思われるのである」
少し余談を加えたい。
たむらちせいの活躍した「青玄」に一人の川柳人が晩年に投句していた。
現代川柳連盟の会長をしていた今井鴨平である。
鴨平は昭和39年、急逝した。「現川連」の雑務を一手に引き受けた末の死であった。それはある意味で「川柳に殺された」ものであった。
私の手元には「川柳現代」17号があり、これは「今井鴨平追悼号」である。
鴨平は「青玄」147号から160号まで投句しているが、最後となった160号から5句紹介しておく。
黒猫が一塊となる 屋根裏の思惟 今井鴨平
女工ら離郷 屋根に石置く山峡経て
やがて手中の女 湿っぽい潮風吹き
二人きりの食卓 手がかりのない海昏れて
同じ過去持ち合う 沖に漁火燃え
鴨平がどういう気持で「青玄」に投句していたのか、今まで私にはよくわかっていないところがあった。川柳に絶望して俳句に行ったとか、そういうことではないのだ。「青玄」には信頼できる表現者がいたのである。
「蝶」208号(2014年7・8月)から、たむらちせいの近作を紹介しておこう。
七つ渕一の渕より樹雨降り たむらちせい
近景黄薔薇紅薔薇遠景殺戮図
地梨噛んだる渋面隠し了せけり
隣のページには森武司の句が並んでいるので紹介しておく。
信長忌の水暗緑に泡立てり 森武司
朝空叩く拳銃試射音ヒトラー忌
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