2013年11月1日金曜日

「川柳・遊魔系」句会―石部明没後1年に寄せて

10月27日(日)に大阪市立総合生涯学習センターで「川柳・遊魔系」という句会が開催された。石部が亡くなったのは昨年の10月27日、『遊魔系』は石部明の第二句集である。この句集名を冠した句会となったのは、石部が亡くなって丸一年が経過したこの日を選んだ、石部のことを忘れない川柳人たちによる集いであったからに他ならない。
句会は二部にわかれ、第一部は「『遊魔系』に見る無頼の生き方」(報告者・小池正博)、第二部は句会であった。句会は兼題が3題、席題が2題。参加者は19名という小句会だったが、それぞれの題の秀句について1時間ほどの議論する時間がとれたのは逆に幸いだったかもしれない。作句・選句・選評のうち、川柳の句会では選評に時間をとることが少ない。晩年の石部は「BSfield」の句会で選評に力を入れていたと聞いている。
ここでは第一部について報告しておこう。
小池は「川柳カード」2号に掲載された「石部明50句」をもとに、石部の作品を「現実との違和」「もうひとつの世界」「帰ってから」の三つに分けて語った。

①現実との違和

バスが来るまでのぼんやりした殺意

現実との違和は人を表現に向かわせることが多い。
日常生活を送りながら、なぜ自分はここにいるのだろうと感じることがある。それは出勤の途中であったり、家事をしながらであったり、知人に囲まれながらであったりする。眼の前の現実が唯一の現実であると思われないとき、ひとは虚構の世界に踏み込んでゆく。
「殺意」とは意味の強い言葉である。バスを待っている間にふと感じる凶暴な感情。特定の誰かに向けられたものというより、漠然とした不満足の気分。
この句を書いたとき、石部はひとつの手ごたえを感じたことだろう。善意やモラルを表層的に詠むのではなくて、日常の底に隠れていてふだんは表に出さないものをあえて表現してみせること。そこに彼の川柳の出発点があったのだろう。

水掻きのある手がふっと春の空

春の空にふっと変なものが見える。
水掻きのある手だから両生類の手だろう。見えるはずのないそのようなものが見えるというのは幻視だが、別世界への入り口がぽっかり開いたのだ。
仏の相好のひとつに水掻きがあるが、ここでは西方浄土を幻視したのではないだろう。神や天使などの神聖なものではなく、水掻きのある手は異物であり、おぞましいものである。そんなものが見えてしまうのだ。

雑踏のひとり振り向き滝を吐く

雑踏を歩いているとき、私たちは「孤独な群衆」という感じを深くする。
ところが、ここではその一人が不意に振り向いて滝を吐いた。
滝は喩ではなくて本当に滝を吐いたと受け取る方がおもしろい。滝は俳句では夏の季語だが、この句では季語ではなく、メタファーでもなく、実際に滝を吐いたのである。
それを見た人々の反応を私は次の二通りに想像してみる。
人々はいま見た光景に対して何ごともなかったように無表情にそのまま歩みを続けた。
人々は連鎖反応的にそれぞれ自らの内部にある滝を次々に吐きはじめた。
私にとって石部の作品のなかでいちばん好きな句である。

②もうひとつの世界

栓抜きを探しにいって帰らない

この世界の現実に違和感をかかえて生きている人間はふと別の世界に行ってしまうことがある。『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』などのファンタジーでも繰り返し描かれているところだ。異界への通路は『アリス』では兎の穴であり、『ナルニア』ではタンスの奥である。
石部の作品ではどこかへ行って帰らない人物がしばしば描かれる。
何か大きな目的があってどこかへ行ってしまうのではなく、「栓抜き」という日常的なものを探しにゆくことが、そのまま別の世界へ消えてしまうことにつながるところが、いっそう不安感をかきたてる。

鏡から花粉まみれの父帰る
梔子となり人知れず帰郷する

異界へいった者がもう一度現実に帰ってくることはとても困難である。行くことより帰ることの方が難しいのだ。M・エンデの『果てしない物語』でも帰ってくることの困難さがひとつのテーマになっている。
鏡の世界から帰って来た父は花粉まみれになっている。鏡の世界で何があったのだろう。
ヒトの姿では帰ってこられずに別の姿で帰ってくる場合もある。周囲の人は彼が帰ってきたことに気づかない。

岬には身元引受人ひとり

日常生活に戻るためには「身元引受人」を必要とする場合もある。
岬というのは境界線にある場所である。二つの世界を行き来する出入り口になりうる場である。そういう所に身元引受人が住んでいるのだ。

③帰ってから

舌が出て鏡の舌と見つめあう

別世界(彼岸)からこの世界(此岸)に帰ってきた人にはこの世界がどう見えるのだろうか。たぶん世界は二重の存在として見えるのではないだろうか。
鏡の中の世界と鏡の外の世界。左右反対になっているとしても、見えているのは同じような像である。こちらの世界で舌を出すと、あちらの世界でも舌を出す。しかし、「舌が出て」という表現は、自分が舌を出すのではなくて、どこか別のところから不意に舌が出てきたような妙な感じがする。

オルガンとすすきになって殴りあう

この句を現実の光景と受け取ると、オルガンとすすきは殴りあうことができないだろう。
それでは何らかの隠喩と読めばよいのだろうか。
この句でも世界は二重になっている。殴り合っているのはやはりヒトとヒトだろう。けれども、それがもうひとつの世界ではオルガンとすすきの姿になっているのだ。
唯一の現実ではなく、さまざまな見え方をする世界がある。帰郷者には世界がそのように見えるのである。

石部明の作品はいろいろな読み方ができるが、当日はこのような読み方をしてみた。ただ、石部の句が単なる言葉だけで構築されているにしては妙に生々しさや説得力があるので、そこにはやはり彼の実人生が反映されているのだと感じる。若き日の石部が故郷を離れてどのような経験をしたのかは承知していないし、具体的な個々の体験は作品を読むときには不必要であるが、仮に私は石部の人生を「無頼」と呼んでみたのである。石部明は強靭な生活者であると同時に優れた川柳人でもあるという二重の存在であった。
川柳作品が川柳界を越えた外部の読者に読まれるとすれば、それは詩として、文学作品として読まれるほかはないだろう。石部明の作品は読むに値するし、私たちはこれからも石部の作品のことを語り継いでゆくことが必要だと思っている。

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