2013年11月22日金曜日

突進せよ生たまご―松永千秋の川柳

短歌誌「井泉」54号(2013年11月)に、招待作品として松永千秋の「遊ばない」15句が掲載されている。他ジャンルの雑誌に川柳作品が掲載される機会が増えてきているが、「井泉」は以前から川柳に対して好意的である。
松永千秋は「川柳カード」の同人であり、彼女の作品は『現代川柳の精鋭たち』や『セレクション柳人18松永千秋集』などで読むことができる。

魂の半分ほどは売りやすし      松永千秋
私をきれいに洗うグレゴリオ聖歌
さくらさくらこの世は眠くなるところ
泡立草のはるか遠くのアッシリア

愛唱している句がいくつも思い浮かぶ。
松永千秋にまつわる次のエピソードを私はこれまで何度か引用したことがある。
川柳の大会で特選を取った作者は表彰のために前に出てゆく。喜びや誇らしさの表情で登壇する人が多いのだが、松永千秋は恥ずかしそうに迷惑そうに表彰状を受け取ると、そそくさと席に戻ってしまうというのだ。私ははじめて千秋に会ったときに、あまりにもこの話の通りであることにびっくりした。

さて、今回の『井泉』掲載作品は川柳人・松永千秋の実力を充分に発揮したものと思われるので、作品を紹介しながらコメントを付けてみることにしたい。

非常警報ひまわり一万本開く

非常警報に驚いて、ひまわりが1万本開いたのだろうか。
ひまわりが1万本咲いたので非常警報が出たのだろうか。
それとも、ひまわりが1万本咲いたことが自然の発した非常警報なのであろうか。
そういう因果関係と受け取ると作品がつまらなくなる。
斎藤茂吉の短歌に「たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり」(『赤光』)というのがある。いわゆる茂吉難解歌のひとつで、戦いが上海で起こることと鳳仙花が紅く散ることに何の関係があるのかとよく問題にされる。
茂吉の歌は連句人にとって難解なところはひとつもない。
短歌の上の句と下の句との関係は、連句の発句と脇句のようなものである。戦争の句に対して花の句を付けるのは何も特別なことではない。
松永の作品はそういう議論も不必要でシンプルなものである。ぱあっと1万本の花が開いたイメージを楽しめばいいのだと思う。

パンドラの箱から洩れてくる洩れてくる

私は「ひまわり一万本」に喩を読みとらなかったが、この句には何かの意味を読みたくなる。「パンドラの箱」は意味性の強い言葉だし、「洩れてくる」の主語も意図的に隠されている。
パンドラの箱を開けたのはエピメテウスである。兄のプロメテウスが箱の中に閉じ込めておいたあらゆる厄災が世界中に飛び散った。その中には放射能も混じっていただろう。そういえばエピメテウスは「後から考える人」という意味だった。
太宰治に『パンドラの匣』という小説があって、映画化もされた。
「健康道場」と呼ばれる結核療養所で少年たちは次のように声をかけあう。
「やっとるか」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「ようし来た」
そういえば、パンドラの箱には「希望」なんてものも入っていたそうだ。

カーテンを閉めろ鳥を鳴かせるな
夜を鳴かせろと宣う闇の王

読者はこの二句をセットとして読むことができる。
「鳴かせるな」「鳴かせろ」というのは正反対の表現だが、全く別のことを言っているようでもない。
北原白秋の短歌に「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕べ」(『桐の花』)がある。鳥は家の外で鳴いているのか、家の中の鳥籠で鳴いているのか、などとよく問題になる。
掲出句でも鳥は室内にいるとも受け取れるし、戸外にいるとも取れる。
室内に鳥がいるのだとすると、鳥は闇に怯えて鳴いているのだろう。家人はカーテンを閉めて闇の力を遮断しようとするが、闇の力は浸透してくる。

壁に向かって突進をせよ生たまご

松永千秋の発想がよく表れている。
壁に向かって突進すれば卵は割れてしまうが、それでもいいのだ。
「南瓜よおまえ噴火してもいいんだよ」という句が千秋にあるのを思い出す。
掲出句は「南瓜よ」よりもっと激情的である。

母さんだよと青鷺がやって来る
母さんは絶えずたゆまず毛繕い

母さんが青鷺の姿でやってきた。子どもたちはどう挨拶すればいいだろうか。
それはきっと本当の母さんなのだろうが、どこか違和感がある。
絶えず毛繕いをしている母さんも人の姿ではないようだ。

母さんは絶えずたゆまず毛繕い
おとうともあにも羊でつまらない

今度はこの二句をセットにしてみる。
弟も兄も羊だという。
それでは毛繕いしている母さんは何だろう。

おとうともあにも羊でつまらない
ライオンだからだれとも遊ばない

羊が相手ではつまらないとしても、ライオンならおもしろいかというとそうでもない。
ライオンは羊と遊んでもよいだろうし、他のライオンと遊ぶこともできるだろうが、ここでは誰とも遊ばないと言っている。孤独なのか矜持なのか何だかわからないが、だれとも遊ばないという意志がある。「ライオンだから」という理由は、後付けしたような感じがある。
これらの句は一種の家族詠かも知れないが、通常の家族詠からは逸脱している。
家族を動物にたとえた比喩表現というのでもないだろう。
「遊ばない」15句は最後に次の句で終わっている。

あの世からこの世にやってきて ドボン   松永千秋

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