2012年10月27日土曜日

国民文化祭とくしま2012「連句の祭典」

今年の国民文化祭は2007年に続いて徳島県で開催されている。普通、こんなに短期間に同じ県で開催されることはないのだが、自治体の財政難はどこも同じであって、積極的に国文祭にお金と労力を注ごうという自治体はもはや存在しない。そんな中で徳島が手をあげたのであるが、県が関わるのは限定的という条件つきである。今回短詩型文芸の分野で開催されるのは、連句と川柳の二つだけ。連句の場合、県実行委員会は実務に関わらず、連句協会、特に徳島連句協会が実務を主担している。川柳は11月18日に開催されることになっているが、連句は一足早く10月21日に開催され、私は前日の20日から徳島入りをした。

昨年の京都に続いて、応募作品の選者を務めさせていただいたのだが、今回の募集は二十韻という形式であった。二十韻は東明雅の創始による、表4句、裏6句、名残の表6句、名残の裏4句の連句形式である。742巻の応募作品を読むのは貴重な経験でもあり悩ましいことでもあった。「入選作品集」の「選者のことば」の中で私は次のように書いている。

「応募作品を拝読しながら考えたのは形式と内容の問題です。二十韻という形式にどのような内容を盛ることができるのか、どこが読みどころなのかと自問しました。付けと転じを生命とする連句精神は同じでも歌仙と二十韻では違いが出てくるのは当然です。異なった皮袋には異なった酒。しかし、二十韻相互の間では、二十句の組合せの中で独自の世界を構築し、差異を際立たせるのはなかなか困難です」

その結果、私が特選に選んだのは「埴輪馬」「白梅に」「仏徒なり」の三巻である。そのうち「埴輪馬」の巻(矢崎硯水捌)の前半を紹介する。

  埴輪馬いざ駆け出さん秋の風
   篁さやぎ新涼の楽
  観月のヴィラの上座に招かれて
   衿のバッジが誇り高くも
ウ 俳諧の鳴門海峡わたる旅
   渦潮に似て想ひ渦巻き
  素粒子が育ってぽんと腹を蹴り
   笑まひ絶やさぬ盧舎那仏像
  雪催ひ利休鼠に昏るるらん
   ペチカが燃えて偲ぶ鉄幹

この作品を選んでいるのは私だけである。そういうとき、選者としては選に失敗したかと自信を失う場合と、自分だけがこの作品を認めたという自負をもつ場合とがあるが、この場合は後者であって、「選者のことば」には次のように書いている。

「私は平句のおもしろさに注目していますから、『埴輪馬』の『渦潮に似て想ひ渦巻き/素粒子が育ってぽんと腹を蹴り』の付合が嬉しいです。ここには自在な俳諧性を感じます。『白梅に』は、蕪村を下敷きにした発句にはじまり、西洋的素材と日本的素材のバランスが心地よいです。『仏徒なり』は何といっても発句のおもしろさですね。私たちは連句を作ることに熱心ですが、連句を読むとはどういうことなのだろうと改めて考えさせられました」

連句の評価について、東明雅が示した次の基準が比較的広く踏襲されている。

①一句一句のおもしろさ
②前句と付句との付心・付味のおもしろさ
③三句目の転じのおもしろさ
④一巻全体の序破急のおもしろさ

しかし、これを実際の作品に適用して評価を決めようとするのは容易なことではない。「おもしろさ」と感じるところは人によって異なるから、結局は読む者の言語感覚によるしかないのである。どこかで見た陳腐な表現と受け取るかどうかも、ふだんその人の読んでいる範囲によって違ってくることがある。

「文部科学大臣賞」を受賞した「風の音譜」(服部秋扇捌)は次のような作品である。

  春耕にひもとく美しき時祷書よ
   風の音譜に蜂の休止符
  師とわれと身を委ねたる花騒に
   掌のビー玉の透ける渦巻
ウ 峡谷を愛犬も積む郵便車
   桂男は更衣して
  灼熱の想ひ人には触れられず
   短銃(チャカ)に賭けても奪ふ決心
  弗・ユーロあれやこれやで希臘危機
   クビと言はるる連休の明け

この作品を特選に選んだ狩野康子は「選者のことば」で、二十韻では定座や恋の場に追われて無理な運びになる危険性があると指摘した上で次のように述べている。

「この巻はその窮屈さを感じさせない臨機応変な展開が光った。春発句の表三句から月の定座では敢えて短句の夏の月を出し、更に恋の呼び出しも兼ねている点。正花を三句目に据えた大胆さ。一巻の流れに目をやると『破』の部分が中程にあり、最後のどたばた感がなく、すっきり納めている点。等々形式を守りながら形式を自由に遊ぶ連句の醍醐味が感じられ、好ましく思った」

あと「選者のことば」から印象に残った部分をいくつか紹介しておく。

「多くの作品の中には、詩情も発見もなく、常識的な物の見方やたんなる出来事を羅列しただけで、これではわざわざ連句をする甲斐がないと思わせられるものもあるが、そうした欠点は、恋句と時事句に最も端的に表れるようだ。実感のない手垢の付いた表現だけでまとめた恋句、マスコミによって選ばれ、作られた事例、構図、観点を口移しするだけで、やはり実感のない時事句。これらは連句の形骸化の指標として自戒の種にしたい」(鈴木了斎)

「月・花・恋の句についても、それぞれ工夫に遺漏がない。恋は一か所で押さえている。逢瀬を朦朧体の古典的な手法で万華鏡のような変幻の境と表現した。色々な姿になって女と交わったゼウスは、逢瀬の神技を示したのである。恋の深まりを空蝉のはかなさで象徴して哀れを強調する。今まで土の中に深く秘められていた思いが表に現れて、噂などもはばかることなく乱れ咲く恋となったのだ。その『証』を認識した女はもう迷わない」(近藤蕉肝)

「上位の作品にはさらに、上手に詠むことを抑えこむつつしみが感じられるかどうか、粗野を気取った贅沢という俳諧独自の美意識が息づいたいるか、こんな期待をもって向き合いました。季題標準配置をなぞっているようであったり、紋切り型表現が散見されたり、流行語や時事的素材がナマのままで置かれていたりですと、『もう少し翔んで』と思います」(佛渕健悟)

作品の読みが意識されることは連句批評への第一歩である。連句においても読みの時代が始まりつつあるのではないか、そんな感想をもった。

0 件のコメント:

コメントを投稿