2012年10月19日金曜日

川柳大会と誌上句会

10月8日(日)
秋は川柳大会のシーズン。大阪・上本町の「アウィーナ大阪」で「川柳塔まつり」が開催される。9月の「川柳カード」創刊記念大会には小島蘭幸さんをはじめ「川柳塔」の方々にご参加いただいたので、そのお礼も兼ねて参加。参加者338名。盛会である。
新家完司さんのお話「川柳に表れた死生観」が面白かった。
落語を枕にして、「死ぬ順番」「生者と死者との対比」「通夜風景」「葬儀風景」「葬儀風景」「死を意識して生きる」「死ぬ覚悟」に分けて川柳を引用しながらトークを進めてゆく。レジュメを用意せず、口頭で句を紹介するのは、プリントしたものを聴衆が先に読んでしまうとインパクトが薄れるからだという。引用した川柳にちなんで一曲歌い、自慢の喉を披露するなど、聴衆を飽きさせなかった。
当日引用された句は「川柳マガジン」の新家完司ブログにアップされている。

胸に薔薇付けた順序に行くあの世    田沢恒坊
年齢順に死ぬうるさくてかなわない   定金冬二
一緒には逝けないけれどそこらまで   小沢 淳
喪が明けて仏の寝具ゴミに出る     福士慕情
死支度してからなんともう十年     柴本ばっは
死の恐怖足を縮めて寝ていても     森  央
ポックリはいいが突然でも困る     奥 時雄
しがみつくほどのこの世でなかりけり  麻生路郎
もう少し生きて悪夢を見続ける     藏内明子

句会では私は全ボツ。

10月13日(土)
ウラハイに今井聖著『部活で俳句』(岩波ジュニア新書)の書評を西原天気さんが書いている。この本は私の机上にもあるが、第一章「〈踊る俳句同好会〉誕生」が小説仕立てでおもしろいなと思ったきり、第二章以下を読みさしにしたままだったので、改めて目を通してみる。
「俳句甲子園」や『十七音の青春』からの引用が多いが、

ひまわりに平均点をつけてみる   植松佳子

この句などは現代川柳として読んでもおもしろいと思う。
「俳句はある風流な場面や時代を設定してそこにタイムマシンで移動して作る文芸ではありません」「もうタイムマシンを必要としない、同時代の感動がはっきりと見てとれたのです。季語はもはや時空を超えた世界に入る『鍵』ではなくて、現実の空間を表すなまなましい対象として用いられています」「現在でも俳句を作るときにタイムマシンを準備する人は依然として多いのですが、それは特殊な『芸』を高めることであっても自己表現としての文学の本質とは乖離していると思います」
これらの言葉に今井の俳句観が表れているように思う。
興味深いのは「もの俳句」と「こと俳句」の区別である。どちらがよいかは一概に言えないとした上で、次のように区別している。

薄氷の吹かれて端の重なれる   深見けん二  (もの俳句)
病む六人一寒燈を消すとき来   石田波郷   (こと俳句)

そして著者は「こと俳句」について次のように言う。「ただの自己肯定やありきたりのヒューマニズム。類型的な青春性。家族褒め、友情、夫婦愛。そんな『こと』からは感動は伝わってきません」
何だか川柳が叱られているような気がするのは、俳句は「もの」、川柳は「こと」を詠むという整理の仕方もありうるからである。私は芭蕉の「ものの見えたるひかり」に倣って、川柳を「ことの見えたるひかり」と言ってみたこともあるが、現実に書かれている川柳の大部分が類型性を抜け出せずにいることは事実である。

10月14日(日)
「街」同人で詩人でもある柴田千晶さんに送っていただいた詩集『生家へ』を読む。
俳句と詩のコラボレーションによって作品が構成されている。たとえば、こんなふうに。

春の闇バケツ一杯鶏の首

深夜、帰宅すると、室井商店の前に赤い椿が点々と落ちていた。闇に滲む椿の赤を避けながら歩く。と、それは椿などではなく、鶏の赤い鶏冠であった。首を切り落とされた鶏は皆、静かに眼を閉じていた。その光景に立ちすくんだ私は背後の闇に、軍手のフェンスに体を強く押し付け、嗚呼、嗚呼と呻いている短軀の男をふいに生々しく思い浮かべた。

石部明が読んだら大喜びしそうな詩集である。
柴田はシナリオも書く。今井聖との出会いはシナリオの共通の師である馬場當の仕事場だったという。そういえば『部活で俳句』には今井の書いたシナリオ『エイジアン・ブルー   浮島丸サコン』の一場面が引用され、映画のカットが俳句に書きかえていた。こんなふうに。

囀りや広縁に日の移りくる
作りかけの巣箱が一つ縁側に
桜貝一枚づつを姉妹

小津安二郎がシナリオの修練として連句を巻いていたというエピソードを思い出す。あの「東京物語」の部屋の外に置かれたスリッパの場面など。
さて、柴田千晶は今井聖に共鳴したのだろう。俳人としても活躍している。
「ここ十年ほど、自作の俳句が内包するイメージと格闘するように詩を書き続けてきた。詩と俳句が遥かなところで強く響き合う、そんな世界を目指して」(あとがき)

10月15日(月)
京都で発行されている「凜」という川柳誌がある。村井見也子が中心となって創刊され、現在51号まで発行されている。村井の師は北川絢一郎である。北川の死によって「新京都」が終刊したあと、京都ではいくつかの川柳誌が誕生した。「凜」もそのひとつ。
2010年、村井の引退によって、現在は発行人・桑原伸吉、編集・辻嬉久子・行田秀生。
季刊であるが、今年の7月号が50号記念誌上句会発表号となっている。

三月を映しそこねたカーブミラー     北村幸子
文法は布に覚えがないそうな       中西半
雲の流れてインディアンの口承詩     八上桐子
非常口ぽかんと開いている 雪ね     吉岡とみえ

川柳誌ではしばしば誌上大会・誌上句会というものが開催される。全国から投句をつのり、選者が選をして誌上で発表する。実際にどこかに集まらなくても、疑似的に大会参加の気分が味わえることになる。私は句会というものは実際に集まるのが本当だと思っているから、なぜこういうものがあるんだろうと多少の違和感があったが、よく考えてみるとこれは川柳に適したシステムなのである。
徳永政二は「凜」51号の「誌上句会によせて」で次のように述べている。
「誌上句会の魅力は、全国から句を集めることができること、また、その規模でこれという人に選者をお願いすることができることだが、当日句会の句がどうかと問われている現在、誌上句会はいい句を集める役割を果たしているのではないかと思う」「しかし、臨場感があり、川柳を語り合う出会いが生れる当日句会の魅力はけして否定されるものではない」

10月16日(火)
杉浦圭祐さんから俳誌「草樹」を送っていただく。
先日、京都の「醍醐会」で再会したときに、同人誌「quatre」が終刊になって、彼の句を読むにはどうしたらいいか尋ねたからである。

我に似し人を嫌いに燕子花    杉浦圭祐 (41号)
五月の海見えて落ち着き取り戻す

前田霧人句集『えれきてる』の紹介も掲載されている。

金色の蝶の飛びゆく枯野かな   前田霧人
ばくだんもはなびもつくるにんげんは
僕の部屋のぬた場で猪とする話

現俳協青年部のシンポジウムが11月17日(土)に京都・知恩院で開催される。「洛外沸騰―今、伝えたい俳句、残したい俳句」というテーマで、司会・三木基史、パネリスト・青木亮人、岡田由季、松本てふこ、彌栄浩樹。楽しみだ。

10月17日(水)
夢岡樽蔵著『段駄羅作品鑑賞Ⅰ時の流れの巻』(踏青社)を読む。
段駄羅については以前も紹介したことがあるが、輪島で発達した雑俳の一種である。著者の木村功さんには「大阪連句懇話会」でもお話いただいた。夢岡樽蔵(夢を語るぞう)は木村さんの段駄羅作者名。集中で最も好感をもったのは次の作品である。

時雨打つ 傘は無き身を
              風花君を   送る朝      躑躅森仁之

中七が掛詞になっていて転じていく。従って、二つの季節を詠み込むことも可能だ。

冬の能登 鮟鱇炊いて
               アンコ歌いて 島の春      船本勝信

「中七を単に同音意義に転換しているだけでは、中七で折れ曲がった段駄羅の後半部分がどちらを向くかは風任せの凧のようで、面白い句になるかどうかは偶然の産物ということにもなりかねません。これに対し、段駄羅を詠む時に作品全体をコントロールするいくつかの基準を持っていれば、上五や下五を、それなりに工夫して、もっと面白い作品が詠めるようになるのではないか」
著者はそのような基準として「前・後半を一つのテーマで詠むこと」「前・後半を対比する形で詠むこと」を挙げている。従来の「相互の関連を不問とする」段駄羅の考え方とは異なる新機軸を出していて(私自身は相互の関連を問わない飛躍感の方を好むものだが)興味深い。

10月18日(木)
次の土・日曜日に徳島市で開催される「国民文化祭・連句の祭典」に出席することになっている。20日(土)はワークショップがあって、私は和漢連句の座に加わるが、その予習として資料を読む。
大阪連句懇話会で遊び程度に作ったことはあるが、今回は和漢連句の第一人者・赤田玖實子さんの捌きなので、いいかげんなことはできない。
和漢連句とは次のようなものである。『第六回浪速の芭蕉祭作品集』から、半歌仙の表六句のみご紹介。

和漢行 半歌仙「俳諧の」の巻   鵜飼佐知子 捌

俳諧の風韻たずね紅蓮         赤田玖實子
葉ずれさやげる甘酒の茶屋       山田 あい
夏 服 飾 金 釦          桜田 野老
長 衣 結 玉 紐○                〃
月光が彫刻の虫浮かばせて       鵜飼佐知子
渡 雁 天 上 有○                 玖

○印のところで韻を踏んでいる。
対句もあるようだし、うまくできるかどうか分らないが、初めての詩形に挑戦するのは嬉しいものである。徳島では時間があれば人形芝居フェスティバルや阿波踊りも見て来たい。

0 件のコメント:

コメントを投稿