大震災が東日本を襲い、被災されたみなさまには心からお見舞いを申し上げたい。このような時には改めて文芸の無力さを自覚する。「週刊俳句」203号が俳句記事の掲載を取りやめたのはひとつの見識であったが、このささやかなブログは今週も書き継ぐことにした。私にできるのはそれしかないからである。
電子媒体が普及する世の中だが、紙の本に対する愛着は残り続けるだろう。私も古本屋を回るのが好きである。ところで、古書店の棚に川柳関係の本が目立って並ぶときがある。それは嬉しい半面、少し悲哀を感じさせるものでもある。川柳の蔵書が急に古本市場に出るということは、その所蔵者の死を意味することが多いからである。川柳に関心のない人にとっては、貴重な川柳資料も単なるガラクタにすぎない。川柳人の死後、蔵書は家人によってすぐさま売り払われてしまうのが常なのだ。
そういう経緯があったのかどうかはわからないが、最近手に入れた古書に『川柳手ほどき』(喜月庵柳汀、大正15年)がある。
大正15年と言えば、木村半文銭の『川柳作法』も同じ年に刊行されており、新興川柳運動が高まりつつあった時期である。『川柳手ほどき』は川柳入門書であるが、当時の時代背景を反映して、「川柳界の動静」の章では次のように書かれている。
「現在の日本の川柳界には、新旧思想の二潮流があります。即ち革新川柳を標榜するものと、現状維持を主張する旧踏派との二派であります。前者は川柳を一般芸術にまで進め度いと思ふ人々の運動であり、主義の現はれでありまして、その主張を概括して申しますと川柳の実質が余りに人間としての皮相と低調と無力であるのを慨いて、その内容に自己を打ち込まうとしたのであります。由来川柳といふものは、自分と云ふものを遊ばす事は出来るのでありますが、更らに、一歩深く、自分といふものを表現する事は出来難いとされて居たのであります。それは在来の川柳の歩み方では、自分の生活に現れてくる苦悩、感情思想などは、これを表現する事は絶対にゆるされてゐなかつたのです。それは川柳に対する一般的傾向が遊戯気分であり、娯楽本位であつて、川柳そのものは、実生活の余技として一つの趣味に固定してゐたからであります」
川柳は自分というものを遊ばせることはできるが、自分というものを表現することはできない―とは、なかなか面白い言い方ではないか。そのような従来の川柳観を打ち破って革新川柳が生れたのだと著者は述べている。ここでいう「革新川柳」とは「新興川柳」のことを指している。
「其の革新派の人々によつて生れた新川柳は在来の川柳と、十七音の律格を相同じくするのみで、内容とか表現法に至つては、全然趣きを異にして、あの唾棄すべき駄洒落、卑猥なる言ひ現し方、一口噺しと質を同じうする形容など、極く上調子の川柳の実質が、直観となり、神秘となり、象徴となり、哲学となつて,汎ゆる最新の学説と共に、人間に帰り人間に自覚した、真の人間の声が、川柳の本質に含まれる様になつたので古来の川柳から見る時は、世の中の酢いも甘いも知り尽した人が、若い屁理屈にこだはつて片意地を張る青二才を見た時の様な感じがするだらうと思われるのですが、それだけ革新と云ふ新運動の力が、川柳の内容にまで、強烈なる力と光と熱とを与へてゐるのであります」
「狂句百年の負債」という言葉がある。「川柳を堕落せしめた罪悪人は四世川柳であると迄絶叫する人があれども、それは四世川柳ばかりの罪ではなく、半分は社会の罪であろう」と本書にある通り、化政期以後の川柳は駄洒落に流れたと言われる。それが明治の新川柳によって近代化を果たし、大正期の新興川柳に至って直観・神秘・象徴・哲学の領域まで包含するようになった。それは酸いも甘いも噛み分けた粋人からは青二才と感じられるだろうと言うのである。一方、保守派の動向はどうだろうか。
「最近の傾向では保守派(旧踏派)の人々の中にも一つの悩みが有るらしく、多少共動かねばならないと思ふ心の現れが、幾分とも見られるのであります。かかる状態にある人は極く小部分の人々である様ですが、在来の川柳、所謂旧川柳の、無力と非常識とを大分自認して来たのは事実であります。極端に言へば『斯うしては居られない』といふ焦燥と苦慮が払われて来たのであります」
伝統派の人が「本当の伝統主義」に拠っているのではない。江戸中心の伝統主義を保持する人もいるが、漠然と「川柳は理屈ぽくないのがよい」とか「近頃の新しい川柳は川柳らしくない」という無定見の人が多いと著者は言う。何だか大正時代の話ではなく、今日の話のような気もしてくる。
「斯く現時の川柳界には此の二大潮流があり、両勢力である二派以外には川柳の存在も無く価値も無いのでありますが、多数の中には、此の二大潮流の中間主義を採つてやれ漸進主義だとか、穏健派などと称する人などもあり、甚だしいのになると、革新派系の川柳もものし、保守系の川柳も作ると云ふ二刀法の人もあつて、現在の川柳界は非常な混乱状態に陥つてゐるのです」
なかなか辛辣な書き方である。「漸進主義」「穏健派」「二刀法(二刀流)」の側にもそれなりの言い分はあるのだろうが、この著者が革新川柳の側にかなりの理解をもっていることがうかがえる。以下「新興川柳大家の作品鑑賞」が続き、新興川柳の8人の作品を紹介している。
スヰッチの右と左にある世界 森田一二
空間を立派に占めて雛が出る 渡辺尺蠖
事もなく黄菊の色の浮く夜明け 古屋夢村
毒草と知らず毒草咲きほこり 田中五呂八
言ふまでもなく唇のかはく恋 島田雅楽王
我と我足を急がせあてもなし 白石維想楼
墓石の上で小雀二羽の恋 宮島龍二
天井へ壁へ心へ鳴る一時 川上日車
けれども、その一方で古川柳の妙味も捨てがたいとしているところが、本書のバランス感覚であろう。
続く「川柳を作るにつきての注意」では「可笑しみ」「穿ち」「軽み」の三要素を挙げ、この三要素だけでは新時代の今日の流れに合っていくことは至難だと述べている。
「すればどうすれば時流に添ひて川柳の本質に反かぬ新時代の川柳を作る事が出来るかと云ふに、前述の三要素以外に真実味、超越味、写実味、感覚味などの詠まれたものが最もよいと思ひます」
「真実味」「超越味」「写実味」「感覚味」!?
これらの要素は木村半文銭が『川柳作法』で説いたものではなかったか。
ここに至って、この入門書が新興川柳の影響下に書かれたものだということが明らかになる。三要素を超越する川柳観である。かといって三要素を否定しているのでもないから、伝統川柳と新興川柳の両面をバランスよく配した川柳入門書と言うことができるだろう。
最後に「上達法」の部分から引用する。
「川柳を習ふ人の中で、川柳の持つ総ての良い点を、一人で引き受けて行かなければならないと考へる人もあるでしやうが、此れは自己を知らない行き方です。川柳に這入つてからは第一の先決問題は、自分の長所と云ふものを知る即ち自己の天分を早く知ることが最大用件であります。そうして掴み得た自己の天分を守り育てて熱心にやりさえすれば比較的早く進む事が出来るのです」
今回はラベンダーの香りを求めて「時をかける書評」を試みたのだが、そこで出会うのはやはりその時代における血の出るような問題なのである。
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