2021年1月8日金曜日

丑年にちなんで牛の川柳を

新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

年末年始は晩酌にもっぱら「黒牛」(くろうし)を飲んでいる。これは和歌山県海南市の酒である。年頭の文章、丑年にちなんで、牛の川柳を探してみた。こういうときは『類題別番傘川柳一万句集』(創元社)が便利である。

屠殺場へ行く牛の目が我へ向く    可明  (『類題別番傘川柳一万句集』)
牛売って以来息子がだまりこみ    白影
うなずいてうなずいて牛坂を行く   兵六
牛売った牛小屋牛の足のあと     京糸
アスファルト牛のよだれの心電図   紅寿
一等賞牛はちっともよろこばず    一香
乳牛の思案は柵へあごをのせ     南都
虻一匹牛の思案の邪魔をする     梵鐘
牛生きる京に祭りのあるかぎり    可川人
買戻す牛へ明るい稲を刈り      水星
たたかれて牛は二三歩ほど急ぎ    佳汀
御所車牛の世界もあったもの     朴堂

牛引いて雲の流れについてゆく   鈴木一三 (『続類題別番傘川柳一万句集』)
牛に物言い出稼ぎの朝を発つ    小笠原一郎
農を継ぐビジョンへ牛の目がかなし 岡田恵方
裏山も買い占められて牛が鳴く   鈴木一三
にんげんの為に肥えねばならぬ牛  伊藤たけお
品評会なんにも知らぬ牛が鳴く   高比良俊彰
行きしぶる子牛なだめて牛の市   高城史朗
売られゆく牛もうと鳴く発車ベル  東野節子
牛の子が売れてさびしいハーモニカ 大矢左近太郎
街の子に牛の親子が絵にされる   大谷章
ジェット機音乳牛はさらに痩せ   山口勉

『類題別番傘川柳一万句集』は1963年10月、『続類題別番傘川柳一万句集』は20年後の1983年12月の発行である。一時代前は句会に行く前に、この句集で同じ題の句を調べて同想句がないかチェックしてから臨んだという話も聞く。今はそんなことをしないし、川柳観も変化してきている。日常生活の中で牛を見る機会はもうほとんどなくなった。資料性もあるので、牛の句を全部抜き出したが、平賀紅寿の作品などは今でもおもしろいと思う。
牛の川柳では木村半文銭の句が有名だ。

夕焼の中の屠牛場牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛  半文銭

俳句では牛はどのように詠まれているだろうか。
季語としては「牛洗う」(冷し牛)のかたちで出てくる。夏の季語で、牛馬を川などで洗う風景である。馬の場合は「馬洗う」「冷し馬」となる。

牛浸けて川幅なせり鶴見川   水原秋桜子
冷されて牛の貫禄しづかなり  秋元不死男
冷す牛暮色に耐へず鳴くなめり 篠田悌二郎

この三句が牛そのものに焦点を当てているのに対して、前掲の川柳作品は牛に対する人間の感情が中心になっているが、それが俳句と川柳の違いとまで言えるかどうかは分からない。ちなみに『番傘川柳百年史』によると、1983年のところに平井青踏の「川柳における季語」という文章が紹介されている。岩井三窓の句を例句に挙げて俳句と比較している。

炬燵の火あつし我が家の幸とする   岩井三窓
横顔を炬燵にのせて日本の母     中村草田男

さあ涙を拭いてすき焼きが煮えつまる 岩井三窓
鋤焼の香が頭髪の根に残る      山口誓子

思いみな明治に還り餅を焼く     岩井三窓
餅焼くやはるかな時がかへり来ぬ   加藤楸邨

この時点における川柳と俳句の発想と表現の共通性と違いが感じられる。奥田白虎の『川柳歳時記』(創元社)は川柳作品を歳時記仕立てで編集しているが、「牛洗う」の項に次のような句が収録されている。

三日目によりを戻して牛洗う   鈴木一三
牛の背を洗う少年村を出ず    佐々木京子
冷やし牛序列あるらし牧場主   野瀬郵生
牛洗う明日せりに出す牛洗う   鳩崎路人
牛洗う小川に残るわらべ唄    中田たつお

牛の郷土玩具に「赤べこ」があるが、疫病退散の意味があるらしい。天然痘封じの玩具だそうだ。禅では「十牛図」が人間の心・悟りの段階を表現していると言われる。尋牛・見牛・得牛・牧牛などの段階を経て悟りにたどりつくようだ。
インドでは牛は神聖な動物である。秋野不矩の絵「ガンガー」では何頭もの水牛が頭だけ出してガンジス川を泳いでゆく。密教の大威徳明王は水牛にまたがっている。
手前味噌になるが、私の第一句集は『水牛の余波』。最後に牛を詠んだ拙句を書き留めておこう。

川上で心の牛を取りかえる      小池正博
いつもそうだった牛部屋のニヒリズム
水牛の余波かきわけて逢いにゆく 

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