2016年2月26日金曜日

『15歳の短歌・俳句・川柳』

現代俳句協会青年部主催の勉強会で昨年来、新興俳句が連続して取り上げられてきた。
2015年9月に高屋窓秋、10月に渡邊白泉、11月に三橋敏雄、12月に西東三鬼、そして2016年2月は富澤赤黄男。
私は聴きに行けなかったが、久留島元から富澤赤黄男についてのレジュメをもらった。
赤黄男の「クロノスの舌」の「蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない」は有名だが、俳句と川柳について次の一節がある。
「現代俳句と現代川柳の混淆―これは重大なことである。
このことについて、批評家も作家も全然触れようとしない。
―これはまた重大なことである。
俳句の真の秩序が見失われてゐる証左であらう」
赤黄男の問題意識をひとつの契機として私も「俳句と川柳」について随分考えてきたが、これは常に繰り返されるテーマなのだろう。
赤黄男の句に見られる一字空けは現代川柳でも多用される。混淆の出発点は「旗艦」にあるようだ。

「船団」107号(2015年12月)の特集は「昭和後期の俳人たち」だった。「昭和後期」という括り方は耳慣れないものだ。筑紫磐井・仁平勝・坪内稔典の三人が座談会を行っている。
筑紫が取り上げているのは相馬遷子・阿部完市・最晩年の高浜虚子である。

ねぱーるはとても祭で花むしろ    阿部完市

そして筑紫はこんなふうに発言している。
「今、阿部完市の俳句をみるとどこか最近の若い作家に影響が出ているような気がしないでもない。要するに意味でもないし、メッセージでもないし、遊びのようでもあるんだけれど、それだけにとどまらない何か詠みたいものがある」

一昨年、「蝶俳句会」から発行された『昭和の俳句を読もう』という冊子は、54人の俳人の各30句を抄出し、かんたんなコメントをのせたもので、私もよく利用させてもらっている。その中から阿部完市の句をもう少し引用する。

ローソクもってみんなはなれてゆきむほん   阿部完市
栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
にもつは絵馬風の品川すぎている
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど

地名の使い方など興味深く思われる。
「船団」の対談に戻ると、坪内は「平成の今の時代は俳句史的な考え方というのが元気がないと思います」と言っている。俳句でもそうなのか。川柳の世界でも川柳史へのリスペクトはまったく感じられない。私が「現代川柳ヒストリア」を立ち上げた理由のひとつがそこにある。

『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳』(ゆまに書房)の第1巻「愛と恋」が刊行された。
短歌の選と解説は黒瀬珂瀾、俳句は佐藤文香、川柳はなかはられいこが担当している。
短歌・俳句・川柳の作品が一冊のアンソロジーの中で同居しているのは画期的なことだ。
川柳からは30句掲載されていて、鶴彬や岸本水府などの評価の定まった作品から現在ただいま書かれている最新の作品までが網羅されている。そのうちのいくつかを紹介する。

お別れに光の缶詰を開ける       松岡瑞枝
あのひとをめくれば雨だれがきれい   畑美樹
よいにおいふたりで嘘をついたとき   久保田紺
非常口の緑の人と森へゆく       なかはられいこ
くちづけのさんねんさきをみているか  渡辺和尾
わたしたち海と秋とが欠けている    瀧村小奈生
永遠と書くゆうぐれもかりうども    清水かおり
たてがみを失ってからまた逢おう    小池正博

「たてがみを…」は柳本々々が取り上げてから比較的知られるようになった句。初出は「WE ARE!」4号(2002年5月)だから、なかはられいことも縁の深い句である。

ドラえもんの青を探しにゆきませんか     石田柊馬
君はセカイの外へ帰省し無色の町       福田若之

それぞれの作品に選者による解説と作者のプロフィールが付いていて読みやすい。
石田柊馬の川柳と福田若之の俳句が見開きページの左右に掲載されている光景は、ちょっと感慨深いものがある。
第二巻「生と夢」も刊行されているはずだが、私はまだ見ていない。第三巻「なやみと力」は3月下旬に刊行予定。どんな句が掲載されるのか楽しみである。

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