2013年9月13日金曜日

緑の闇に拓く江田浩司のパロール

江田浩司の批評集『緑の闇に拓く言葉(パロール)』(万来舎)が上梓された。
2007年8月より万来舎のサイト「短歌の庫」に掲載された文章を一書にまとめたものである。その時々に読んで印象に残っている文章も多いが、こうして一冊の本になると、改めて見えてくるものもある。「はじめに」では「万来舎から連載の話があったとき、短歌プロパーの批評ではなく詩歌全般に関する文章が書きたいことを申し上げました」と書かれていて、こういうスタンスは共感できる。
時評を続けるにはエネルギーが必要だ。同じ時期に「青磁社」の短歌時評のサイトがあった。大辻隆弘と吉川宏志が交代で執筆していて、こちらの方も私は愛読していたが、いまは中止になってしまっているのは残念である。
本書の読みどころはいろいろあるだろうが、先週取り上げた「詩型の越境」の話題につなげて言えば、本書の第五章「現代詩との対話」に収められている文章が興味深い。「藤原月彦の俳句と藤原龍一郎の短歌」「柴田千晶詩集『セラフィタ氏』を読む」などが取り上げられている。
瀬戸夏子の歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』は「現代詩手帖」9月号の「詩型の融合は可能か?」でも取り上げられていたが、本書の第四章でも論じられている。江田はこんなふうに書いている。(ちなみに、瀬戸を取り上げたこの文章は、現在、サイト「短歌の庫」で読める直近の文章である。)
「また、同時に現代詩ではなく短歌の世界で勝負することを選択した真意を量りかねてもいた。瀬戸が短歌としてこのようなテクストを提示しても、それを短歌として受け入れる余地が歌壇には存在していないと思われたからである。そうではあっても、黙殺覚悟で自己の短歌世界を追求するのならば、何も力にはならないが、私は瀬戸というアナーキーな歌人の営為を注視しなければならないと思ったのである」

日本を脱出したい?処女膜を大事にしたい?きみがわたしの王子様だ   瀬戸夏子
鍵はみどり鍵穴ははみどりミッフィーをひらく動詞を折り紙にして

私は「町」も「率」3号も読んでいないので詳しいことは分からないが、瀬戸夏子という人に興味をもった。たまたま「率」2号が手元にあるので、引用してみるが、この人の短歌は現代詩の部分とミックスされているので、一首独立で引用しても意味がないのかもしれない。

おれの新聞をとってくれ りんごはいい りんごは体によくないからな
これじゃあ帰れないじゃないだっていつまでたっても苺はあなたの赤ん坊
みたいな顔のまんまだし気まずいわ帰り道にはいつもあなたの悪口いうのよ
その苺 二上で道を結わえた りんごはいい りんごは体によくないからな

「小池正博句集『水牛の余波』を読んで思ったこと」も第五章に収録されている。川柳をめぐる文章が「現代詩との対話」の中に置かれているのはたいへん興味深いことである。塊りとしての川柳が脆弱な現状の中で、川柳作品が短詩型文学の読者によって読まれる場合に、それは詩として読まれるほかはないだろう。川柳内部でのみ通用する価値基準は無効となり、テクストとして読まれることになるのである。

「吟遊」59号に大橋愛由等が「川柳 われらの隣人にもらい水」という文章を書いている。
大橋は「川柳カード」2号に触れ、次のように言う。

「さて、俳句と川柳の関係についていえば、2000年代には、両者の境界があいまいになり、互いに越境しあっているかのような現象がみられた。しかしそれ以後の十年間のことになると、私の管見にすぎないのだが、川柳が作品を先鋭化させていった一方で、俳句は『俳句性』に安居してしまったように思える。俳句は、もともと『俳句性』の中に自足・自閉してしまう傾向が強い文芸である。いまはまた俳句にとって川柳は近くて遠い隣人となってしまったのかもしれない」

このように述べたあと、大橋は清水かおりの次のような川柳作品を引用している。

群青なのでフェチという言い草     清水かおり
隷属や傘屋に遊ぶことしきり
うたたねの椅子で揮発せよ小鳥

これらの作品を読むときに、大橋は「川柳的な一義性」「川柳的な『うがち』や『はぐらかし』」「川柳文芸の特徴」などを意識する必要がないことを爽快なこととして述べている。即ち、大橋は清水の作品を詩として読んでいるのだ。

他ジャンルの方からよく「川柳の読み方がよくわからない」という発言を聞く。俳句や短歌の場合はそれなりの読みの方法が蓄積されているのだろうが、川柳では読みの方法のようなものはあまり耳にしない。ジャンルの特性に基づいた川柳の読みは、それはそれで追求する価値があるかもしれないが、ひとつの作品として短詩型の読者の目にさらされてゆく経験が川柳にはもっと必要である。

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