2013年9月6日金曜日

「詩型の越境」(「現代詩手帖」9月号)について

「現代詩手帖」9月号の特集「詩型の越境―新しい時代の詩のために」が話題になっている。
2本のシンポジウムと俳句作品・短歌作品・融合作品の実作、それに関悦史・山田航などの評論が付く。俳句作品としては安井浩司・竹中宏・高山れおな・御中虫・福田若之が掲載されており、このラインナップが「現代詩手帖」で見られるのは快挙と言ってよい。そのせいか、今月号はなかなか手に入らない。特集が目当てで買い占めている人がいるのかもしれない。

「詩型の越境」は今まで繰り返し語られてきたテーマである。このテーマが「現代詩手帖」という場でどのような取り上げられ方をするのか、興味と期待をもって読んだ。
巻頭のシンポジウム「越境できるか、詩歌 三詩型横断シンポジウム」は、高橋睦郎・穂村弘・奥坂まや・野村喜和夫(司会)による。
三人の立場はそれぞれ異なる。「ジャンルが異なっても共有できるポエジーは分かるが、そうじゃない概念やポエジーの作り方はわからない」というのが穂村。「基本的に越境はできない」というのが奥坂。「そもそも境界というものはないし、ない方がお互いを豊かにする」というのが高橋。
三人のうちで奥坂の発言を取り上げると、〈俳句は季語にたいする「お供物」〉〈形而上的な部分は季語がひきうけてくれる〉〈無季の俳句はアンチ巨人軍のようなもの〉〈連作には反対〉などの言葉が目につく。ずいぶん乱暴な発言だとは思うが、これらの発言の是非については俳人が批判すればよいことで、ここでは何も言わない。ただ川柳と関連する部分については少しコメントしておきたい。
穂村が「越境できるか、俳句と川柳」という問題意識で、「いまわれわれはかたちが違うものどうしで集まっているのでどこかゆとりがある。越境してもかたちが違うみたいなよりどころがあるけれども、目に見えない本質の共有だけが俳句と川柳の差異であるならば、その二つのジャンルは越境できたらいけないのではないか」という問いを投げかけたのに対して、奥坂は次のように答えている。
「いま川柳には時実新子以来、季語的なことばが入っていれば俳句として鑑賞できるようなものが増えてきています。だいぶ境界が曖昧にはなってきていると思います。じつは私の『鷹』というグループに川柳を以前にやっていて、それから俳句をはじめたという方がいて、川柳でもかなりの作者だったらしいんですが、俳句をなさって高く評価された句集も出しています。その方に言わせると、川柳というのは意味だという。意味のおもしろさに価値があると」
たまたま自分の周囲にいる人の意見を取り上げて、しかもその人の実名も明らかにせずに「川柳」全体についての決めつけを行う。このような手法をとる人を一般にはデマゴーグと呼ぶ。時実新子は川柳に一時代を画した人だが、川柳といえばいまだに時実新子というのもいかがなものか。俳句と川柳の境界については昭和十年代からずっと論争が続いてきているので、このように軽く片付けられるような話ではない。
奥坂の発言は俳句界の内向きの発言であって、意見の異なる他者と対話するものになっていない。俳句の世界の中の、それも一部に向けての発言なら共感もえられようが、奥坂は「現代詩手帖」の読者についての想定を誤っているのではないか。
もうひとつのシンポジウム「詩型の融合は可能か?」は4月14日に開催された「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」第一部の記録である。パネラーは石川美南・光森裕樹・柴田千晶・榮猿丸・野村喜和夫・暁方ミセイ・堀田季何(司会)である。こちらの方はより具体的作品に基づいて話が進められており、前者が「クロスオーバー」だとすれば後者は「フュージョン」がテーマだと言えよう。
取り上げられている作品は岡井隆、瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』、高山れおな『俳諧曾我』、辻征夫『俳諧辻詩集』、石川美南、斉藤斎藤、柴田千晶「青葉木菟」、野村喜和夫など多彩である。
堀田のまとめによると、三詩型の横断・越境・融合・コラボにおいては
一つの詩型ともう一つの詩型で合わさったもの
一つの詩型に刺激を受けてもう一つの詩型で表現したもの
一つの詩型をもう一つの詩型に溶け込ませたもの
などが見られるという。
融合作品の例としては「詩歌梁山泊・詩歌トライアスロン最優秀作」に選ばれ中家奈津子の「うずく、まる」が掲載されている。高山れおなの『俳諧曾我』は評判になった句集だし、『俳諧辻詩集』は出たときに愛読したものである。柴田千晶の『セラフィタ氏』『生家へ』など、私たちは読者としてもさまざまなフュージョン経験を積んできていることになる。

今月号でおもしろいのは、議論だけではなくて短歌と俳句の実作が掲載されていることである。短歌も興味深く、斉藤斎藤の作品などはぜひ紹介したいところだが、詞書の部分などがあって引用しにくい。次に紹介するのは俳句のうちの三人の作者である。

修女いま魚座をねむらす膝の上     安井浩司
肩を入れがたき無門や夏あざみ
悠々と大地のキャベツ盗む旅人
大いなる角度で抱かる春の妃や
青銅牛の内臓盗られ草あらし

ビル街にひそみて蟬が愉快がる     竹中宏
夏脱しゆく岩は岩瀧は瀧
燕去る中有のそらを藁くづも
秋の水から親鸞が朱唇あげ
ヴェロニカは「ときどき眠る貂の貌」

彼と彼女は詩をめぐりやがていさかう。
また本を読まないでいる蛾をみている    福田若之
なに期待してさ紙魚みたいに食えよ
「は?」という、過去限りなく繰り返された。パラソル。
舟虫に砂の本音は崩れ去る
暑極まる風向きを読み佐渡を見て
草笛の音が草笛から遠い

こうして見てくると、シンポジウムや評論における議論と掲載作品がお互いに照らし合い、相対化しあって、多角的な編集になっていることが分かる。編集ノートには次のように書かれている。
「詩の書き手が短歌や俳句を書けばそれで『越境』と言えるのか。そうではないだろう。何よりもまず読むこと、感応することからはじまるのではないか、というのがこの特集の出発点だ。短歌、俳句それぞれ5人の作家たちに書き下ろしで作品を依頼した。これは関悦史、山田航両氏に、詩の書き手、読み手に読んでもらいたい作家ということで選んでいただいたもの。こういったかたちでの短詩型作品の競作は小誌でははじめてのことでだが、何の違和感もなく誌面で輝きを放っていることに驚く」

クローズドな世界にとどまっているなら安全無事だが、価値観の異なる他者の世界へ出て行くには勇気がいる。そこでは内部でだけ通用する価値観が問い直され、普遍的なものに鍛え直されるからだ。ある意味でとても怖いことである。だからといって、自己のジャンルの中で閉鎖的に純化してゆくほうがいいというわけではない。同時代の表現者たちのことはジャンルを越えて気になるものだし、時代の進展のなかでしか私たちは前へ進めないのだ。

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