先週レポートを書いた「かばん30周年記念イベント」の際に、会場に来ていた堺利彦とゆっくり語り合う機会があった。堺利彦著『川柳解体新書』(新葉館出版、2002年)は川柳入門書として現在でもこれを乗り越えるものは出ていない。その第15章「読み」を改めて読み直してみた。
堺は〈読み〉に対する二つの態度として、川本茂雄の文章を引用しながら、
①なるべく忠実に読む、そこにある情報を正確に組み取る。
②そこにあるものを素材にして、自分の中でイメージをつくり上げる。
を挙げている。これまでは、作者の状況なり、作品の背景を考慮に入れて作品を理解するという態度が主としてとられてきたが、別の〈読み〉の可能性も考えられるのではないかと堺は言う。〈読み〉とは単なる伝達にとどまらず、読者による能動的なことばの創造的解釈であり、そこに創造的読みの可能性が生まれてくる。「コード」という用語を使えば、川柳の表現は「日常的なコード」からの逸脱(ないしはズレ)を生じ、日常的・常識的なコードとは別の「詩的なコード」を生み出すことができる。いわゆる「難解句」もここから生まれるのであって、「日常的なコード」を使えば大多数の人から理解されるが、そこから逸脱し、ズレながら句を構築するのだから、日常的なコードでは解読できないことになる。
堺の川柳論を念頭におきながら、4月・5月に送っていただいた諸誌から、短歌誌・俳句誌・川柳誌を紹介してみたい。
短歌誌「井泉」51号(5月1日発行)の「リレー小論」は「作品の『読み』について考える」。
真中朋久「樹を見て森を見て」は今野寿美による『赤光』語彙分析に触れ、全注釈や語彙分析などのデータを基にして読むことで見えてくる森の光景もあることを述べている。
大熊桂子「穂村弘と塚本邦雄の歌の背景」では作品は読者のものであり、歌の読みに作者はいらないと言いつつ、作者の生きた時代や背景を重ねてもう一度読むことも大切ではないかと述べている。
山本令子「公の『読み』と私的な『読み』と」では、歌会などで一首を読みとる「公の読み」と一首を自分の胸に好きなように読みとる「私的な読み」があるのではないかと言う。
俳人から歌人になった知人が「俳句から短歌に移って痛切に思い知らされたことは、句会は作品を競い合う場であって、歌会は批評を競い合う場なのだということでした。歌人というものはそれがどんな作品であれ、きちっと切ってみせます」と言っていた。そうすると川柳句会は「作者の腕前を競い合う場」ということになろうか。
「井泉」に戻ると、喜多昭夫が「永井祐をとことん読んでみる(二)」を書いている。
生ゴミの袋に蟻がたかってる誰のせいでもない現実である 大島史洋
ゴミ袋から肉がはみ出ているけれどぼくの望みは駅につくこと 永井祐
上の句は似ているのに、下の句がまったく違う。永井は大島のように現代の諸相から現実認識に結びつけるのではなくて、駅につければそれでいいんだ、あとのことはまたあとで考えようというスタイルが当然のこととして定着しているのだ、と喜多は述べる。永井の短歌のベースにはロスジェネ世代の「うっすらとした悲しみ」があるという。説得力のある論であるが、世代論に解消してしまうのには異議も出ることだろう。
俳句誌「豆の木」17号(4月20日発行)。
中嶋憲武が「新・毛皮夫人」を書いている。
イカが開いて毛皮夫人を飛ぶ自由 中嶋憲武
キャバレーの裏口毛皮夫人立つ
ウェルカム・トゥ・毛皮夫人毛皮ひらく
毛皮夫人蝶のまなこをしてみたり
毛皮夫人ルンビニ好きで耳きれい
年老いた猫来て毛皮夫人嗅ぐ
渡辺隆夫の川柳について私は「キャラクター川柳」と規定したことがあるが、中嶋の俳句はまさに「キャラクター俳句」である。「毛皮夫人」というキャラを設定して、連作を展開している。「ルンビニ好きで耳きれい」などは「コンビニのおでんが好きで星きれい」(神野紗希)のパロディである。
もうひとつ、「豆の木」の中に「キャラクター俳句」を発見。こしのゆみこ「縄飛び少女」である。
ねずみ算式に縄飛びから少女 こしのゆみこ
縄飛びの私の後ろだれか飛ぶ
会社帰りの父が縄飛び入ってくる
縄飛びを出て一人前の海老フライ
友に遅れ縄飛び少女上京す
「縄飛び」は川柳でもよく詠まれる。「なわとびに入っておいで出てお行き」(時実新子)。
さて、川柳誌にはどんな作品が掲載されているだろうか。
「ふらすこてん」27号(5月1日発行)から。
夕焼けのほか何もない遊園地 くんじろう
吸い殻をきれいに並べるのも私 くんじろう
風景になるまで干した貸ボート くんじろう
明け方は耳下腺炎の馬となる 井上一筒
バルビゾン派とベルメゾン派のピアス 井上一筒
ありありと水面にうつる授乳室 湊圭史
借金大全キリンのぬいぐるみ篇 湊圭史
最愛の石にも南よりの風 森茂俊
全速で走る切手を追いかけろ 森茂俊
サイコロの音は女生徒の胸から 山田ゆみ葉
女性とは水のみ鳥の揃い首 山田ゆみ葉
蝶追えば松の廊下の松は枯れ 筒井祥文
西陣の薄目は島の花の中 筒井祥文
堺利彦の言う「日常的なコード」からの逸脱とズレに当てはまる句が多いが、ではどのように読めば創造的読みが実現できるかは簡単なことではない。
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