2013年5月10日金曜日

ゆうこの生理―第3回高田寄生木賞

第3回高田寄生木賞が発表された。
この賞は青森で発行されている川柳誌「触光」(野沢省悟・編集発行)が公募しているもの。高田寄生木(たかだ・やどりぎ)は昭和8年に青森県川内町に生まれ、昭和35年に川柳の作句を開始、昭和47年に「かもしか川柳社」を発足、現在は「北貌」の発行を続けている。野沢省悟が川柳の師である寄生木の名を冠した賞を創設して3回目。今回の大賞は次の作品である。

寝たきりのゆうこにも毎月生理

障がいをもった「ゆうこ」は寝たきりの毎日を送っているのだが、毎月きちんと生理がある。この句では感情語を交えずに事態を見つめて作品化している。はっとさせられる句である。そして、読者としてこの句を読んだときに、さまざまな問題性を感じさせる句でもある。
まず、なぜ「ゆうこ」なのか。別の固有名詞ではいけないのかということである。考えられるのはこの作中主体が現実に「ゆうこ」という名前である場合だが、現実からは独立したテクストとして読むならば、この固有名詞が別の名に「動く」のか「動かない」のか。
次に、結局は以上と同じことになるが、これが事実なのか虚構なのかということ。事実であれば、それを見すえる作者が感情におぼれずに事実だけを詠みきったところに川柳の眼が働いているし、第三者による虚構だとすれば、残酷な状況をためらわずに正面から詠んだところに冷徹さが感じられる。
それと関連して、作者が男なのか女なのかということ。女性であれば、子を生みだす母としての痛み・受苦があるはずで、男だとすれば、その痛みを自己の肉体として受け止めるというよりは「人間とはこのような存在なのだ」という一種の人間観の提示となる。
最後に、どういう点を評価して選者はこの句を大賞に選んだのかということ。事実を詠んだ句として事実の重さ自体を評価したのか、虚構だとしてもテクストとして優れていてインパクトがあることを評価したのか。あるいは事実の重みとつりあうだけの言葉の表現をトータルに評価したのか。
発表誌には作者名が掲載されている。

寝たきりのゆうこにも毎月生理    神野きっこ

作者の「受賞のことば」は次のようなものである。

「長女の優子はてんかんという難病で生涯、首も座らず、寝返りすることもなかった。言葉もどこまで理解しているのか定かでない。しかし、身体のリズムは狂うことなく、元気な子供と同じように毎月生理が来た。太陽が東から昇り、西に沈むように正確な時を刻んでいた。結婚することも、子供を産むこともなく二十二歳の若さで永眠した。私にとって優子は決して負担ではなく、分身そのものだった」

作者名を外して読んだときに私が感じた疑問がある程度は解消される。この句は長女に対する鎮魂の句であり、受賞は優子という女性の姿を読者の胸に刻むものとなるだろう。

ここで少し話を一般的な地点に広げてみたい。
高校生のころ読んだ詩に北村太郎の「雨」がある。次の一節はよく覚えている。

何によって、
何のためにわれわれは管のごとき存在であるのか。

人間の肉体は気管や胃腸などの管からできている。詩人はそのような人間の生存を支えている「管」の存在論的意味を問う。そして、人間はそのような「管」を越えた存在でもあるのだということが絶望の果てに暗示されている。
確かに、人間の肉体や生理というものは意識を越えるものである。
たとえば、中村冨二に次の句がある。

人殺しして来て細い糞をする       中村冨二

殺人者はその行為の後、性欲が昂進することがあると言われる。この場合は性欲ではなくて脱糞だが、太い糞ではなくて細い糞をするという。冨二の句は当然虚構だが、ここには虚構を通して人間の真実の姿がとらえられている。
肉体や生理の問題をひとつの人間観として提出する川柳人に野沢省悟がいる。野沢は「川柳カード」創刊号に「人工呼吸器」10句を発表している。

人体は悲しい玩具 機械で生きる     野沢省悟
人工呼吸器外す アラーム鳴りつづける
痰をとる そのとき動く人であり
確実に大便つくり出す人体
注入という食事 臍帯はチューブ

ここには人間の生命の姿があるが、これを敢えて詠むことの是非について私はどう評価してよいか分からない。これはひとつの「人間観」であって、作者の人間観についてはよいともよくないとも言えないのである。「川柳カード」創刊号のうち、野沢作品のことは私自身も含めて誰も論じることはなかったのだが、ずっと気にはなっていたのだ。

ここでもう一度、高田寄生木賞に戻ろう。
選者は大賞作品をどう評価したのだろうか。5人の選者のうち、特選に選んだのが渡辺隆夫、秀逸に選んだのが野沢省悟である。

「心が痛む光景に淡々と対処する母親の姿が見えます。寝たきりの娘ゆうこを介護して何年になるのでしょうか。当人に意識はなくても、肉体は成人女性としての月経周期をくり返します。精神世界は分からないが、お前の肉体は普通の娘さんと同じだよ、と優しく当人に語りかけているように見えます」(渡辺隆夫)

渡辺隆夫にしては優しい批評である。境涯句を否定しているはずの隆夫であっても、この句を前にして事実の重みに対してたじろいだのだろう。

「実生活における生々しい事実を、現代川柳はほとんど詠むことが少なくなった中、この作品は現実の生命の姿を如実に示している。乾いた表現だがそこににじむものがあふれる」(野沢省悟)

寝たきりのゆうこにも毎月生理

この句はやはり事実の重みを背負っているし、読者もそうとしか読みようがない。事実は一回的なものであり、もし作者がそこからさらに前に進もうとすれば、「ゆうこ連作」を試みるか、虚構を交えて更に深い世界をめざすかである。作品として公にされた以上、また個人的実感を超えて川柳表現に何かをかけるとするならば、作者は地獄行きのバスに乗るほかはないのである。

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