2013年3月30日土曜日

連句協会全国大会in大阪

大阪は西鶴をはじめとする談林派の夢のあとであり、芭蕉終焉の地でもあって、けっこう俳諧史跡が多い。けれども都市の雑踏のなかにあって、京都のような歴史的雰囲気が感じられないので、俳跡を訪れる人は自らの文学的イメージの強度をためされることになる。

3月24日(日)に大阪・上本町で「第32回連句協会総会・全国大会」が開催された。この大会は例年、東京で開催されているが、今回初めて大阪開催となった。
大会前日の23日(土)に大阪入りをした連句人の有志10名ほどで、上本町周辺の俳諧史跡を散策した。午後1時に大会会場となる「たかつガーデン」に集合、まず西鶴の墓のある誓願寺に向かう。明治期に幸田露伴が無縁仏の中から西鶴墓を発見したといわれているが、現在は整備されていて、「鯛は花は見ぬ里もあり今日の月」の句碑が墓の傍らに建てられている。表門の左側には武田麟太郎の文学碑もあった。
誓願寺から高津宮を経て生国魂神社(生玉神社)に行く。
寛文10年、西鶴は生玉神社社頭で「生玉万句」を興行。このときはまだ鶴永と名乗っていた。延宝5年には生玉本覚寺で一日1600句を独吟、「俳諧大句数」として矢数俳諧始まりとなった。この記録が破られたので、延宝8年、西鶴は生玉の南坊で4000句を独吟、「大句数」と区別して「大矢数」と呼ばれる。さらに彼は貞享元年、住吉大社で23500句を独吟。駄目押しというところだろうか。
平成4年は西鶴生誕350年であって、それを記念して西鶴の銅像が建立された。生玉神社の南坊は明治の神仏分離令で移転したので、どの場所だったのだろうと疑問に思っていたが、西鶴像のあたりに「南坊址」の石碑が立っていた。
「いい銅像じゃない」
「落語家みたい」
「西鶴はお酒を飲まなかったのよ」
「芭蕉はお酒が好きだったそうだ」
西鶴像の前で勝手なことを言い合った。
生玉神社を出て織田作之助の小説で有名な「口縄坂」に向かった。その途中の青蓮寺に「岸本水府墓」の表示があるのを門前で発見。この寺には「竹田出雲墓」があってガイドブックにも載っているが、水府のことは紹介されていない。素通りできないと水府の墓に参詣。水府の息子の岸本吟一が建立したもののようだ。この寺は私もはじめてで、ぶらぶら歩いてみると思わぬ収穫があるものだ。
次に、江戸時代の料亭「浮瀬」の跡「蕉蕪園」を訪れる。
元禄7年9月26日、芭蕉は「清水の茶店」で句会をした。大阪の清水寺(新清水寺)は寛永17年に京都の清水寺から上町台地に勧請され、その周囲には茶店ができて参詣の人々で賑わった。その坂下にあった料亭「晴々亭」(浮瀬・うかむせ)で芭蕉は「此道や行人なしに秋の暮」の発句を詠み、半歌仙を巻いている。浮瀬は「鮑の盃」で有名だが、このとき芭蕉が鮑の盃で飲酒したかどうかは定かではない。
現在、浮瀬の跡は星光学院の敷地内で、受付に申し出てから見学する。「此道や」半歌仙のほか芭蕉や蕪村の句碑が林立していて、竹林を渡る風にしばし往時を偲んだ。
散策の最後は四天王寺で、墓地に並んで建立されている芭蕉と野玻のお墓参りをした。ちょうど彼岸の最終日で、よい記念になったことであった。東京から来た人は「釣鐘饅頭」をお土産に買ったりしていた。

さて、大会当日の3月24日、10時から受付。
参加者119名。関西四国方面の参加者が6割、東京方面の参加者が4割というところだろうか。ふだん参加しない顔触れが散見され、大阪開催の意義はあったわけである。
臼杵游児会長の挨拶のあと総会の議事が進行する。これまで任意団体だった連句協会が「一般社団法人」として法人化されることが決定。
総会終了後のイベントには「詩の朗読」が行われた。
朗読者は、吉川伸幸・くんじろう・阪本きりりの三名。
吉川伸幸は「三重詩話会」同人で、お目にかかるのは初めてだが、本格的な詩を読む方として楽しみにしていた。当日朗読の詩はわからないので、彼にもらった「三重詩人」221号から「南十字星をさがしに」をご紹介。

ここまできたのだから
お父さんは南十字星をさがそうと思ったんだ

君たちが生まれ
自分への問いを前に途方に暮れている自分を残して
それより大事な次の準備をしなければならなかったから
ありったけの理由をかき集め
出発していたんだ

たぶん 人の一生に隠された意味のように
たくさんの意味のように
どこにそんなにあったのかと思うほど
広い空には星がちりばめられていた

(中略)

真夜中を過ぎ みんなが寝静まっても
さがしようもない空をただひとり眺めていた
今 数多の星のなかに南十字星の存在を確信していた
みつけることなんてもうどうでもよかったのに

くんじろうは新作「らくだ」を朗読。二巡目では会場から題をいただいて即興詩を披露した。「葦」という題がでたが、彼はよどみなく朗読を続けたので、あとで司会の私が「やらせでも出来レースでもない」と断りを入れたほどである。
即興詩なので記録には残らないが、くんじろうの詩は「足を怪我した少年」の物語であった。その「足」とは違うやろ、と思いながら聞いていると、足を怪我した少年は大人になり、会社を興して成功する。ところがバブルがはじけて、一文無しになってしまう。そのとき彼はもう一度立ち上がるためには頭を使わなくてはならないと思うのだ。「人間は考える葦である」。
あとから考えると、くんじろうの創作過程が何となくうかがえる。「葦」という題から「人間は考える葦である」というオチがまず浮かび、そこから「葦」→「足」の連想で「足を怪我した少年」が設定される。オチが最後にあるから、そこまで言葉をつないでゆけばよいわけである。
阪本きりりはカラフルな衣装で登場し、「病草子」「白雪姫」の二編を朗読。彼女の作品はホームページ「月女の会」で読むことができる。「病草子」の一節をご紹介。

あぶにさされて七転八倒
七転び八起きの土天海冥
地球がひっくりかえるほどの痛みが痛くて
キンカンキンカン
鐘が鳴るからまた塗って
塗ったあとから
どくどく血が出て
毒を食らわば皿までかじり
バンドエイドも坂東英治も
貼っただけでは治らない

そうこうするうち
今度はそこへバイキンがはいって
脳に来ました、脳に来た
爆裂寸前、内圧ぐんぐん上がり
しゃべっていなければ
死んでしまう病
「私は」という主語を
高らかにかかげ
自在のコンパスおっぴろげて
私はしゃべる
私はつぶやく
私はのたまう
私はうそぶく
私は論ずる
私は語る、語る、語る、語る・・・
これは胃カタルですな
どれだけ吐いても治りません!
キャベジン、サクロン、大田胃酸
ずらり並べて、顔面蒼白のディスプレイ
電池ギレのメッセージを最後に
あわててつなぐアダプター
痛いですか、辛いですか
この辺ですか、ここですか
メールで届く健康相談
長文お断り、内容は簡潔に
病だれに私と書いて
ごきげんいかが?

三者三様のスタイルで、詩の朗読を楽しむことができた。
昼食後の連句実作会では、23卓に分かれて連句を巻いた。1卓5名ほど。
私は青木秀樹捌きの座に加わった。彼は前日の散策会にも参加していて、次の発句で二十韻を巻いた。

辛夷咲いて水府の墓の笑むごとく    秀樹
番傘脇に惜しむ行く春        真而子

それは大阪と川柳に対する挨拶であった。

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