2013年3月1日金曜日

『点鐘雑唱』を読む

墨作二郎が主宰する「現代川柳・点鐘の会」は昭和62年に発足し、機関誌「点鐘」を隔月に発行、勉強会と散歩会を毎月開催している。また、合同句集『点鐘雑唱』が「点鐘」誌と勉強会での作品をセレクトして毎年発行されている。今回はその2012年作品集(2013年 1月1日発行)の中から何句か取り上げてみたい。

人間を愉快にさせて花が散る       浅利猪一郎
また雪が降って脱皮を急かされる

花が散り、雪が降るのは人間とは無関係であるが、それを見る人はさまざなことを考える。花が散ると悲しいのは自然な感情だけれど、人を愉快にさせるような散り方だってあるかも知れない。マンネリを打破したいと思っているときに降る雪は、まるで自分を急かしているようだ。
浅利猪一郎は愛知県の半田市で「川柳きぬうらクラブ」を主宰。郷土出身の童話作家・新美南吉にちなんで毎年「ごんぎつねの郷」誌上川柳大会を行っている。今年は南吉の生誕   百年に当たっているので、半田市でいろいろイベントがあることだろう。

傘を忘れて少し心が折れている     石川重尾
政治家のヘソを洗えば放射能

少しくらい雨に濡れたって何も世界の終わりではないのに、傘がないだけで心が折れてしまう。二句目は正面からの政治批判。石川重尾は川柳の批評性を手放さない。

ためらわず逢いたい人に逢っておく   岩崎千佐子
憶えてるうちに嫌いになっておく    北村幸子

恋句を二句並べてみた。ストレートの句と変化球の句である。
嫌いになるのも憶えているからこそで、忘れ去ってしまえば好きも嫌いもないのである。

ゆびを見る指だとわかるまで指を    北村幸子
看取るのは回りまわって他人の妻    北里深雪

相手の「ゆび」を見ている。じっと見ているうちに、それが「指」だとはっきり分かる。分かったのは指だけだろうか。ほかのさまざまなことも分かってしまうのではないか。
二句目、この世にはいろんなペアがあるが、くっついたり離れたりしているうちに、ペアが変わってゆく。最後に「他人の妻」を看取ることになる。この物語には皮肉ともペーソスとも言えるようなものが混じっている。

飛び出して雨に打たれるキリギリス   笠嶋恵美子
右足を踏み出す老いたキリギリス    本多洋子

キリギリスの句を二句。さまざまなキリギリスがいる。

時は流れる 腕立て伏せは五十回     北田惟圭

腕立て伏せをしているあいだに時は流れるというのか。時の流れに逆らうように腕立て伏せをしているのか。一字あけの前後の微妙な取り合わせ・関係性がおもしろいと思った。

第一案は鞭打ち症になっている     進藤一車
跳び箱を下げよう柩の高さまで

批評性は川柳の持ち味のひとつである。
第一案はすでに首が回らない。
跳び箱をとぼうとしているのに、それは妙に柩に似ている。

紅葉流れる 悪の限りをつぶやいて   墨作二郎
絵日記に消えてしまった 捕虫網

流れてゆく時間。
紅葉の美に悪を取り合わせる。
少年の日の昆虫採集の記憶はすでに絵日記の彼方に去ってしまっている。

虚無的な顔で診察待っている      瀧正治
脱北の中にアンクルトムがいる

待合室で診察を待っているときの顔は確かに明るいものではないだろう。その一こまを捉えている。脱北者の中にアンクルトムがいた。時代が異なっているものを一句の中で結びつけているが、虐げられている両者の状況には通じるものがある。

宇宙まで飛んで行く気か石ころよ    壺内半酔

マクロの宇宙とミクロの石ころ。けれども、この石ころは大宇宙へまで飛んで行く気なのである。無頼派・半酔らしい句である。

鈴なりの柿は氏神さんやねえ きっと  畑山美幸
眼底はすでにいちずに桜葬       平賀胤壽

口語を生かした作品と、言葉の完成度の高い作品。
鈴なりの柿は氏神さんが姿を変えたものかもしれない。
「桜葬」という語は難解だが、死者は桜の樹の下で眠っているのだろう。

フィルムの片隅にある身の証し     前田芙巳代
屈辱は肩のあたりで暴発する

その人は屈辱に耐えているが、もう限界にきていて爆発しそうだ。怒っても何にもならないし、自分が損をするだけなのが分かっているのに暴発してしまうのだ。
「明暗」誌が終刊したあとも前田芙巳代は川柳各誌に投句、活躍を続けている。

広告のキリンの首は春の曲げ方     南野勝彦
アルプスの腰のくねりも春なんです   森田律子

春を迎える句を二句。
キリンの首にも「春の曲げ方」「秋の曲げ方」があるのだろうか。その句の前でちょっと立ち止まらせるような作品。
アルプスは山だと思ったが、選抜高校野球のスタンドかなとも読める。山と受け取る方がおもしろそうだ。

笑っていれば淀も桂も流れるわ     吉岡とみえ

笑っていれば淀川も桂川も流れていくのだという。毎日の生活の中では、いつも笑っていられるわけではないし、笑ったからといって川が流れるとも限らない。そんなことは承知のうえで、笑っているのがいいのだという心の姿勢を示す。自らに言い聞かせているのかも知れない。

君が代か君が代ソングか読唇せよ    渡辺隆夫
敬老日くらい働けお若けえの

最後に、現代川柳の諷刺性を代表する渡辺隆夫の句。一読明快である。

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