2012年12月21日金曜日

「川柳カード」創刊号・同人作品を読む

12月16日(日)に大阪・上本町の「たかつガーデン」で「川柳カード」創刊号の合評会が開催された。同人誌が発行されると合評会の機会が持たれるのは、他ジャンルでは当たり前のことである。川柳でも合評会がないわけではないが、「川柳カード」ではきちんとした合評会をおこないたいと思っていた。
当日の議論を踏まえて、改めて創刊号の同人作品を読んでいきたい。ただし、24人の同人作品のごく一部しか取り上げられないことをお断りしておく。

意は言えずそもそもヒトの位にあらず      きゅういち
貸しボート一艘離れゆく領土
すり足の一団旧い慰安所へ
皇国の野球を思う遠喇叭
パサパサの忍び難きが炊きあがる

連作10句の中から5句を抽出した。軍国主義日本のレトロな雰囲気の中に現代の出来事も混ぜながらひとつの世界を構築している。「昭和」と正面から向かい合った連作は川柳の世界では新鮮なのではないか。ただし、他ジャンルではすでに試みられていることであって、「皇国の野球を思う遠喇叭」などは「南国に死して御恩のみなみかぜ」(攝津幸彦)を連想させる。

鶯が鳴き出したので帰ります          松永千秋
生れてしまいましたずっと団子虫
すこし夜を分けてもらったのでハンコ

きゅういちの句と比べると、松永千秋の句は平明で何も解りにくいところはない。こういう作品を読むとほっとする。
けれども、合評会では「松永千秋の句の方が読みにくい」という湊圭史の発言があった。「読み」という点では「あたりまえ」すぎてそれ以上何も言うことができないというのである。俳句の場合は季語があるから読み方の見当がつくが、何もない川柳の場合「読み方」が分からないことになる。
ある意味で湊の指摘は新鮮であった。読みとは読み手の解釈を言語化することだから、作品そのものに何も付け加えることがない場合は、「分かる」ことはできても「読む」ことができない。私は松永千秋の作品は読みの対象になりうると思うが、「読めない」という受け取り方もありうるだろう。

くじ引きで貰う氷雨の請求書          井上一筒
ポンペイウスの白髪インドメタシン
胡麻豆腐一つ捻じれ場ば浄閑寺
尺骨は二十五弁の椿から
グレゴリオ暦では1月1日

「浄閑寺」は花又花酔の句「生れては苦界死しては浄閑寺」が有名。この句を連想してしまうだけに、「胡麻豆腐」の句は古風な感じがする。この句を真中に置くことによって他の句の言葉を引き立たせようとしたのかも知れない。
一筒の句は時空を飛翔してさまざまな言葉をつかみとってくる。シーザーと戦ったポンペイウスがインドメタシン(炎症止めの軟膏か何かだろう)を塗っている。動物の骨である「尺骨」が植物である椿から生える。「グレゴリオ暦では1月1日」の表現意図がよくわからなかったが、「もうすぐお正月ですね」という挨拶らしい。

開店と同時に膝が売れていく         榊陽子
つつがなく折られて鶴は最果てる
かあさんを指で潰してしまったわ
耳貸してください鼻お貸しいたします

動詞で終わる句が多いという文体の特徴がある。ただ、それが10句並べたときに単調さに陥る危険がある。「膝」「指」「耳」「鼻」などの身体用語も多く使われている。
「かあさんを指で潰してしまったわ」の句について樋口由紀子が「金曜日の川柳」で取り上げている。エレクトラ・コンプレックスがベースにあるようだ。

櫛につく白髪(いいえ繰糸です)       飯島章友

川柳ではこういう(  )の使用はあまり見かけない。俳句では多いのだろうか。短歌の影響だと言う人もあり、この句の場合は(いいえ繰糸です)は櫛が言っているのではないかという意見もあった。

夕焼けに箪笥の中の首に会う         くんじろう
粘膜をまさぐり合って赤トンボ
女先生も百足を食べている
液化した狐とぬくい飯を食う
主張せよ我は河童の子孫なり

インパクトの強い句が並ぶ。
今年話題になった本に『怖い俳句』(倉阪鬼一郎)があった。くんじろうの作品は「怖い川柳」をねらっている。何が怖いかは人によって異なるから、不条理な句、何げないけれどもじんわりと怖い句を混ぜてもよかったのでは。
最後の句「我は河童の子孫なり」に川柳人としての自負が感じられる。

さてはじめるか宇宙地図2000円       兵頭全郎
月からの俯瞰 引退会見乙
冥王は不在 卓袱台理路整然
オリオンの腰に回した手のやり場

「コスモス」というタイトル。秋桜ではなくて宇宙の方のコスモスである。
兵頭全郎は言葉から出発する。「月」「冥王」「オリオン」などの天体が並ぶ。その場合も「冥王は不在」のように「冥府の王」とも「冥王星」とも受け取れるような両義性を意識的に用いている。
「引退会見乙」の「乙」は「おつかれさま」という符牒でネットではよく使われるらしい。こんなのは私にはわかんない。

値がついてみかんの生の第二章        石田柊馬
オスプレーの正反対にあるみかん
人病んでみかんのへこみ眼について
五十年とぞ みかんぶつけてやらんかな
さてみかん私も歯周病である

「みかん」連作10句から5句掲出。
作者の石田柊馬によると、これは「群作」だという。きちんと構成されているのが「連作」、構成のないのが「群作」。そういう意味であれば、「みかん」という題で、あと何句でも作れるわけである。ただし、「連作」と「群作」の区別は微妙だと私は思う。
「みかん」を狂言回しとして様々な句に仕立て上げているが、技術の鮮やかさにとどまっていてそれ以上ではないところに物足りなさを感じる。

鰻ふと橋渡ろうと思うなり         樋口由紀子

「橋」は象徴的な意味をもつ言葉である。こちらから向うへ渡る通路であり、橋を渡ることが別の世界・新しい世界へと移行することにもつながる。渡る途中で危険を伴うこともある。
「人間は橋であって、目的ではない。人間が愛されるべき点は、人間が移行であり、没落であることだ」(ニーチェ『ツァラトゥストゥラ』)
鰻が橋を渡ろうと思ったという。橋を渡ってどこへ行こうとしたのだろうか。一大決心をしたというわけでもない。「ふと」思ったのである。鰻なのだから橋を渡らなくても泳いで対岸に行けるはずである。おかしな句であるが、何となく笑いを誘われる。
読者は「橋を渡ろうと思った鰻」という個性的なキャラクターに出会うのである。

次週は暮れの28日になりますが、休まずに続けますので、よろしくお願いします。

2 件のコメント:

  1. ■小池さま。  木村草弥です。
    貴句集を邑書林より取り寄せまして、
    記事を拙ブログに載せました。 ↓
    http://poetsohya.blog81.fc2.com/blog-date-20121225.html
    おついでの折に覗いて確認してください。
    間違っているところなどありましたら、ご指摘を。
    では、また。

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    1. 拙句集、取り上げていただき、ありがとうございました。
      そちらのブログから当ブログに来ていただいた方もあるようです。

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