今週も「詩客」の話題になるが、「戦後俳句を読む」(5月18日)のコーナーで清水かおりが渡部可奈子の「水俣図」を取り上げている。清水の文章が「詩客」に掲載されるのは久しぶりのことであるし、その対象が渡部可奈子だというのも嬉しいことである。「水俣図」は10句の連作である。
弱肉のおぼえ魚の目まばたかぬ 渡部可奈子
抱かれて子は水銀の冷え一塊
夜な夜なうたい汚染の喉のかならず炎え
覚めて寝て鱗にそだつ流民の紋
つぎわけるコップの悲鳴 父が先
ぬめるは碗か あらぬいのちか夜を転がる
手から手へ屍はまみれゆくとしても
やわらかき骨享く いまし苦海の子
天までの月日の価 襤褸で払う
裸者のけむり低かれ 不知火よ低かれ
冒頭の句について、清水は次のように評している。
〈 掲出句、当時の社会的弱者を「弱肉のおぼえ」とした表現力に目を瞠るものがある。「おぼえ」という句語によってその裡なる無念が言いつくされている。まばたきをしない魚の目は水銀に侵され身体の自由を奪われた中毒患者のそれのように私たちには見える。公害病認定がされてからテレビで放映された水俣病患者のドキュメンタリー映像は衝撃的なものであった。句を読む度にそれが甦ってくるのは可奈子の高度な文学的描写によるものだろう。「水俣図」は可奈子が川柳ジャーナル時代に発表され、1974年に第3回春三賞になっている。一句一句にかけられた時間が伝わってくる句群である。 〉
そして最後に次のように指摘している。
〈 渡部可奈子の群作では「飢餓装束」が特に印象深く評価も高い。「飢餓装束」が内面昇華へ向かう厳しさを湛えた句群であるのに対して、「水俣図」は時事と向き合う川柳の表現の幅、深さを考えさせる。詩性川柳と呼ばれる句が社会や事象とかけ離れたものであるという川柳人の安易な認識を改めさせる作品と言えるだろう。 〉
渡部可奈子については清水の書いていることに尽きているのだが、「水俣図」が第三回春三賞を受賞していることに関して、手元にある「川柳ジャーナル」(1974年4月)から少し補足しておきたい。
まず主な選評を引用してみると、
「このところ執拗に水俣を歌いつづける可奈子の、意識の熱さを、ぼくはなおざりには思わない」「水俣のあの強烈なイメージに寄り掛り、それに支えられてはいないか、という弱点と危惧は拭えないにしても、また技巧的には不満の句が何句かあったにしても、積極的に捨てるべしと思う句はなかった。その現実から摘出すべき点を摘出して、可奈子は自分の作品にしている。一篇のエレジーとして美しく歌いあげなかった点を、むしろ評価したい」(松本芳味)
「社会性の句とは社会事象を詠むということでなく、その対象を自らに引きつけ、自らも傷つくということで作者のものとなる。作者が一々、その当事者になれる筈もないが、尚且つ、自己の対象への感動と剔抉が当事者のものとなり得ることを可奈子作品は示している」(河野春三)
「至難な社会的題材にたち向かって成功していることに、従来の彼女の作品傾向から考えても並々ならない努力が感じとれるが、単に努力だけでは達し得られない才能の豊かさが今後の展開を予約している」(山村祐)
など、おおむね好意的に評価されている。ただ、中村冨二だけが、「『弱肉』を推す。可奈子はボクの苦手で上手だが、その次点で終ってボクに届かない。おそらくボクが詩人の資格に欠けているのだと、頭を叩く」と距離を保った評をしているのが逆に印象に残る。
これらの評からうかがえることは、次の点である。
①「水俣」のような社会性テーマはそれまでの可奈子の作品傾向とは異質であること。
②にもかかわらずこのテーマに立ち向かった作者の姿勢が評価されていること。
③社会性とは対象を主体的に引き受け、その痛みを通じて内面化すべきものであること。
④しかも作品として成功しているのは作者の才能と言葉の力によること。
これらはほぼ妥当な考えとも思えるが、現時点からふりかえってみると、微妙な問題を含んでいるように思われる。③のような立場に立つと社会性と私性が同じものになってしまうからだ。というより、この時代に求められていたのは「社会性」と「私性」との統一という理念だったように思われる。社会性は主体によって血肉化されることによって表現として自律するというテーゼである。
春三賞受賞から10年以上過ぎた1986年に、細川不凍は「感銘深いことで忘れられないのは、『ジャーナル』昭和49年の『春三賞』を受賞した『水俣図』である」と述べたあと、可奈子について次のように書いている。(「川柳木馬」30号)
「可奈子には珍しい社会性濃厚の作品である。水俣を題材にした川柳作品で、この『水俣図』に比肩しうるものを僕は知らない。水俣病という暗澹たる社会的現実を、詩的現実にまで昂めて、川柳作品に定着させた手腕は、見事というほかはない。また、この『水俣図』には、彼女独自の美意識が働いていて、表現が美しい。美しいが故に哀切感窮まるのであり、大きな感動を喚ぶのである。批評(批判)精神を内包した抒情句といえる」
先に引用した松本芳味の受け取り方とは異なり、細川不凍は社会性と詩性の統一として評価している。さらに、不凍は次のように言う。
「他者の痛みに接近し、それを理解するには、自らの痛みを通してこそ可能となるものだ。水俣の痛みを、可奈子は自分の痛みとして、深く感じ取ったのだ。だからこそ書き得た『水俣図』十句なのである。彼女には、自分の痛みばかりでなく、他者の痛みをも受容し共有できる心的土壌が備わっているのだ」
このあたりが不凍による可奈子評価のポイントだろう。他者の痛みを受容する、受苦の思想である。
以上、渡部可奈子の「水俣図」について、川柳人たちのさまざまな評を引用してきた。どの評が正しく、どの評が誤っているということではない。「水俣図」評価の中にそれぞれの川柳人の川柳観がくっきりと立ち上がる。昔話をしているわけではないのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿