北海道の俳句界に新しい動きがある。
5月12日(土)に五十嵐秀彦を中心とした俳句集団「itak」の旗揚げイベントが札幌で開催される。第1部シンポジウムのテーマは「あえて今、花鳥風月を考える」、パネラーは五十嵐のほかに平倫子(英文学者)、山田航(歌人)。第2部は句会。「itak」(イタック)とはアイヌ語で「言葉」という意味らしい。
五十嵐は「週刊俳句」(5月4日)に「俳句集団【itak】前夜」を書いている。彼は昨年の8月から「北海道新聞」の道内文学(俳句)時評を担当していて、次のような感想をもったということだ。
「この執筆が決まって以来、毎月文化部からたくさんの道内俳誌が送られてくる。それに目を通すようになって、困惑が深くなっていった。
そこには、俳句が並んでいる。
どれも立派な作品だと思う。けなすつもりはないし、かえって敬意を表したいほどだ。
だが、…止まっている。
十年、二十年、ひょっとしてもっと…。
時間が停止しているように思えてならないのだ。
評論の類いは一切といってもいいほど見当たらない。
ただただ俳句が並んでいるだけだ。
そして、主宰のエッセイ。短い仲間内の作品鑑賞。ほかになにがある?
なにもない」
五十嵐の困惑はとてもよく実感できる。
作品と作品鑑賞。閉ざされた内向きの世界である。他者の眼からの作品評価や批評がないということ。それは川柳の世界でもよく見られることである。
現状に対する不平不満は誰でも口にする。けれども、五十嵐のすごいところは次のように行動をおこそうとしたことだ。
「うすうす気づいてはいたが、これまであえて道外の動向だけ見るようにしてきたので、この現実はあらためてぼくを憂鬱な気分にさせた。
しかし、距離をおいて、評論家然として批判しているのでいいのか。
いいはずがない。
俳句評論を書きながらも、ぼくも実作者であるのだから、やるべきことをなにか考えなくてはならない。
答えはおのずと見えているように思えた」
他人が何かしてくれるのを待っているのではなくて、自分でできることから行動する。こういう姿勢に私はとても共感する。
明日の集りがどのようなものになるのか、ジャンルも地域も違うし、実際に参加するわけでもないけれど、遠くから注目している。
さて、川柳の世界では今年「慶紀逸没後250年」に当っている。
慶紀逸(1695年-1762年)。本名は椎名件人。江戸の御用鋳物師の家に生まれたが、俳諧の道に入り、江戸座の不角に学んだ。『武玉川』を刊行したことで知られている。
先日の5月8日に「慶紀逸250年記念講演句会」が開催された。東京台東区谷中の龍泉寺で法要があり、谷中コミュニティーセンターで講演句会があったらしい。記念講話「俳諧史から見た紀逸」(加藤定彦)「川柳と慶紀逸」(尾藤三柳)と句会。
「川柳さくらぎ」21号に尾藤一泉が「慶紀逸250年」を書いている。
「慶紀逸は、元禄8(1695)年生れ。江戸中期の俳諧師として宝暦期に『宗匠の随一』とまでいわれた人だが、俳文学書の中では、元禄俳諧(芭蕉などの世代)と中興俳諧(蕪村などの世代)の狭間で、ともすると暗黒時代のように記されていることがある。しかし、この時代にも魅力ある表現世界はあり、格調高い発句ばかりでなく、人情味溢れる平句の世界を示した『武玉川』などは、特筆に価するものと思う」
椎名家は幕府おかかえの鋳物師で、紀逸の鋳物師としての名は「椎名土佐」というらしいが、その作品は残っていない。関口芭蕉庵の正門を入ったところには紀逸の「夜寒の碑」がある。
二夜鳴きひと夜はさむしきりぎりす 四時庵紀逸
宝暦12年5月に68歳で没し、谷中の龍泉寺に葬られた。過去帳が現存するということだ。
『武玉川』を愛読する人は多く、このブログでも紹介したことがある。
神田忙人は『「武玉川」を読む』(朝日選書)で次のように書いている。
「『武玉川』はうつくしい詩情を後世のわれわれに残したまま跡を絶ち、『柳多留』はある意味では詩に抵抗して散文性をとりいれつつ川柳という特殊な型の小型文芸を確立して今に伝えることを可能にした」
『武玉川』と『柳多留』のあいだに川柳の可能性がある。
その幅の中で少し『武玉川』寄りの位置で作句できればいいなと思ったりする。
最後に訃報。片柳哲郎、4月28日没、86歳。
川柳人の死はあまり情報が入らないが、一時代を作った人である。
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